第9話: 守れなかった
三歩目を出していれば、どうなったか。
七日目の朝、それを最後まで考えてみることにした。
北棟三階、階段の裏。扉から三歩。扉の脇の包みは、昨日と同じ六つのままだ。
鐘が二つ鳴る前に、交代の近衛が上がってきた。
「副団長。団長より言伝です。先月の日誌の綴りを、詰所へ出していただきたいと」
「日誌を」
「宮内府が、あの夜の式次第の控えを直しているそうです。当日、広間に誰が立っていたか。近衛の配置だけでも突き合わせたいと」
「分かった。半刻で戻る」
「……ごゆっくりで構いません。ここは動きませんので」
「動かないのは、扉だ」
若い近衛は言い返す言葉を探したようだったが、結局は三歩の位置に立って口を閉じた。
階段を降りた。十九段。降りるときの方が、足は速い。
詰所の書役の机の脇に、先月分の綴りが積んであった。
日付は覚えている。探す必要はなかった。
四月一日。持ち場、大広間。立哨、アーレンス。
自分の字だ。線が細い。羽根ペンを削り直した翌日の字は、いつもこうなる。
その右隣に、異変の有無を書く欄がある。
無し。
一字だけ書いてある。
書いた覚えはあった。夜会が引けて詰所へ戻り、他の当番と同じ順序で書いた。欄の幅も、埋めるのにかかった時間も、前の月と変わらない。指が止まった記憶はない。
紙の端を摘まんだまま、しばらく次の頁へ進めなかった。
「見つけたか」
団長が背後から覗き込んだ。
「は」
「宮内府へ回す。写しは取らん。取れる者がおらん」
紙の端を摘まんだ指が、離れるまでに一拍かかった。
「十日で戻ると言っておけと言われたが、戻る保証もない。今この城で、紙が戻ってきた例がない」
団長は綴りを引き寄せ、四月の頁で指を止めた。
「広間で、持ち場を離れかけた者がいたと聞いている。名は出ていない」
「自分です」
「二歩か」
「二歩です」
「日誌には、無しと書いてあるな」
「……はい」
「どちらが本当だ」
「両方です」
団長は綴りを閉じ、机の縁で紙の端を揃えた。
「お前は十年、間合いを外したことがない。剣でも、要人でもだ。その男が二歩外した」
顎を引いた。それを返事の代わりにした。
「なら聞く。三歩目を出していたら、どうなっていた」
答えが出てこなかった。
「考えたことがありません」
「七日も扉の前に立っていて、それか」
「……は」
「考えてこい。立っているだけなら、新入りにもできる」
踵を揃えた。板の目地の上で、爪先が一度だけ動いた。
「一つだけ言っておく」
「は」
「無しと書いた欄は、無しのまま残る。二重線を引いても、引いた跡ごと残る」
喉が鳴った。返事の形にはならなかった。
団長は綴りを脇に挟み、宮内府の使いを待たせている方へ向かった。詰所の板張りは足音を吸わない。出ていく音が、扉の外まで全部聞こえた。
あの夜、耳に届いたものは少ない。
広間は天井が高く、声は上へ抜ける。扉の際の持ち場まで降りてくるのは、言葉の輪郭だけだ。近衛はそれで足りる。
式部官の声が、彼女の家名と名を呼び上げた。
絹の裾が、床すれすれで一度もためらわずに広間を横切っていった。詰襟の背しか見たことのない自分にも、歩き方で誰か分かった。床を蹴らずに運ぶ足だ。あの部屋の床は足音を吸うので、そう歩く癖がついたのだと思っていた。
壇は二段だけ高い。そこまでの距離を目で測って、測ったことに気づいて、目を戻した。
壇の上で、二人が短い言葉を交わしていた。叙勲の順。使者の日取り。改修の音が響き始める週。楽の隙間から、彼女の側の返事だけが切れ切れに届いた。どれも、その場で答えていた。
あの晩は、ただの事務の話に聞こえた。
楽が二曲替わった。杯が鳴った。陛下の声が短く落ちて、また拍手が起きた。
人垣が崩れたのは、そのあとだ。
輪が割れて、殿下の姿がこちらの視界から切れた。護衛対象を見失う位置に立ち続けるのは、規則が許さない。自分は入り口脇を離れ、見通しの利く人垣の端まで移った。
職務だ。あの移動だけは、今でもそう言える。
割れた輪の内側へ、油で撫でつけた頭がひとつ入ってきた。歩幅が短い。壇まで五歩の距離を六歩かけて詰める男だ。
「紙です。ただの紙でしょう。誰が、そんなものを気にすると」
剣の柄にかけていた指が、鞘の縁を一度こすった。人の言葉に指が動いたのは、近衛に上がってから初めてだった。
殿下が杯の脚を握り直した。同じ場所を、指の位置も変えずに握り直す手だ。
「記録係の分際で、私の隣に立つつもりだったのか」
撫でつけた頭越しに、彼女の横顔が戻った。
革靴の底が大理石を二度鳴らして、その音が自分の耳に届いてから、動いたことに気づいた。
三歩目の前に、壇の向こうの近衛がこちらを見た。持ち場を離れた者を、近衛はまず見る。
そこで止まった。
人垣は誰もこちらを向かなかった。あの二歩を見たのは近衛だけだ。彼女は見ていない。
止めたのは自分だ。誰にも押さえられていない。
詰所を出て、また十九段を上がった。
三歩目を出していたら、どうなっていたか。四つ並べてみた。
一つ。剣に手をかけたまま壇へ寄れば、他の近衛が動く。その夜の記録には近衛が一人乱心したと残る。彼女は乱心した近衛に庇われた記録係になる。
二つ。柄から手を離して二人の間に立つ。取り押さえられはしないが、殿下の言葉も取り消されない。彼女は男の背中越しに同じ言葉を聞く。
三つ。名を呼ぶ。広間の全員がこちらを向く。毎月一日に物を落としていた男の名が、その晩のうちに彼女の名の隣へ並ぶ。
四つ。何も変わらない。
十段目で足が止まった。
十年、自分はこの四つ目だけを握っていた。三歩目を出しても何も変わらない。だから出さなかったのだと、そう並べれば話は終わる。楽な答えだ。
だが、順序が違う。
近衛が三歩を空ける相手は、守る者と決まっている。あの夜、自分の三歩は殿下との間にあった。二歩詰めた時点で、自分は間合いを測る相手を勝手に替えていた。
替えていい相手だった。
あの二歩のあいだ、彼女はまだ王太子の婚約者だった。婚約者は要人だ。近衛が三歩の内側へ踏み込んでいい相手であり、踏み込むべき相手だった。
三歩目は、規則の外になかった。
規則の内側にあった。
手すりを掴んだ。爪が木の目地に食い込んで、指先から血の気が引いた。息を吸い込んだところで喉が閉じて、吸いかけの息が胸で止まった。
資格があったのは、「記録係の分際で」から「今日をもって、婚約を解消する」までのあいだだ。二十を数えるより長い。あのあいだだけ、自分は職務として彼女の前に立てた。
私情を持ち込むまでもなかった。混ぜなくてよかった。
自分は、混ぜることを恐れて動かなかった。
守っていたのは彼女ではない。十年かけて引いた一線の方だ。あれを跨いだ瞬間に、自分が何になるのか分からなかった。分からないものの前で、体は退がる。剣の稽古で最初に叩き込まれることだ。
十年、間合いを外さずに済んできた。外さずに済む相手としか向き合ってこなかったからだ。
膝が笑っていた。段の途中で、片手を壁について立て直した。
夕刻、式部官が上がってきた。
あの夜、彼女に何かと尋ねた男だ。当日は装いで顔を覚えなかったが、声は覚えていた。
「アーレンス副団長。ここへは、どなたに断ればよろしいので」
「誰にも要りません」
「では、置いていくだけになりますな」
式部官は細長い包みを両手で提げていた。厚みがない。布の下の形は、扇だ。
「先月の夜会で、広間の床に落ちておりました。控えの間で預かったまま、一月になります」
「持ち主は」
「名乗り出られました。伯爵家のご息女です。今日の午に、使いの方が」
「渡さなかったのですか」
「渡せませんでした。あの晩に何が落ちたのか、こちらには何も残っておりません。日付も場所も、拾った者の名も」
「……そうですか」
「これがそのご息女のものだと、わたくしには確かめようがないのです。十年、確かめてくださる方がおられました」
式部官は包みを扉の脇に置こうとして、置く前に手を止めた。
「以前でしたら、翌朝のうちに全部この階段を上がってきたのです。夜会の落とし物は掃除の者が拾って、日付と場所を言わされて。あれを面倒だと言う者もおりましたが」
「今は」
「控えの間に、外套と一緒に積んであります。誰の物とも分からないまま、二十いくつか」
「二十いくつ、ですか」
「数える者によって違うのです。昨日は二十二で、今朝は二十四でした。増えたのではありません。同じ山を数えて、二つ違うのです」
この扉の前の六つとは、別の山だ。どちらの山も、誰にも数えられていない。
「式次第の控えは、直りましたか」
「それが、閉じられません」
「日付が」
「書記官の頁は、日付の欄が空のままなのです。あの晩、殿下は好きに書けと仰いました。適当に書いておけとも」
「聞きました」
「聞かれましたか。……では、その後もお聞きになったでしょうな」
式部官は袖の中で手を組み替えた。
「わたくしは、ヴァレンティ嬢に伺ったのです。何か、と」
「……」
「何かおありならこの場で申し上げてくださいと、その意味で伺いました。式次第の上では、まだ間に合う頃合いでしたので」
あの声だけを覚えていた。中身は、七日考えても出てこなかった。
「何と、答えられましたか」
「ございません、と」
「……それだけ、ですか」
「それだけです。一度で、はっきりと」
喉の奥が塞がった。息を継ごうとして、肩が上がったまま下りない。剣を受け損ねた時と同じ形で、体が勝手に構えている。
「書かれましたか。その一言を」
「書きません。式次第に載る言葉ではありませんので」
「……」
「あの晩、あの方の言葉は一つも記録に残っておりません。破棄の宣言は書記官が書きました。日付は空のままですが、書いたことは書きました。あの方が仰ったことだけが、どこにもないのです」
式部官は言い終えてから、自分でその意味に行き着いた顔をした。それきり、しばらく黙った。
「副団長は、あの場においででしたな」
「入り口脇に、立哨で」
「では、お聞きになったはずです」
「聞こえませんでした」
嘘は言っていない。二歩詰めた場所からでも、あの声は届かなかった。
「そうですか」
「はい」
「……近衛の方が、あの晩の話をされるのを初めて聞きました」
式部官は包みを扉の脇に置き、両手で位置を直した。列の端に一つ増えて、七つになった。踊り場まで降りたところで足が止まった。板戸の方を見上げてから、また段を降りていった。
包みの列の端で、扇の包みだけが薄い。
あの晩、彼女の足元へも扇が一つ滑ってきた。人垣が散っていく最中だ。落とした者は歩調も変えずに行った。
彼女の指が半分ほど伸びて、そこから先へ行かなかった。
自分は三歩の位置から、それを見ていた。指が止まるところまで、全部見ていた。
その時、こちらの指も剣の柄の上で同じ形に止まっていた。届く距離ではなかった。届く距離にいたのは、あの二歩のあいだだけだ。
上着の内側へ手を入れた。確かめずに、そのまま手を戻した。百二十一個目は、今日もここにある。
十年、四十一回、あの部屋の届出人の欄に自分の名を書いた。アーレンス、と書いてペンを置き、三歩退がる。それだけを四十一回やった。
あの夜も、自分の名を書いた。日誌の欄にだ。持ち場、大広間。立哨、アーレンス。異変の有無、無し。
明日、その綴りが宮内府へ回る。写しは取らない。取れる者がいない。
あの夜について城に残るのは、日付の空いた破棄の一行と、自分の書いた一字だけになる。
今日の分も、今夜書く。持ち場、北棟三階。異変の有無。この七日、自分はそこに同じ一字を書いてきた。扉の前に包みが七つ積まれた日も、欄の上では何も起きていない。
三歩の位置に戻って、指を柄にかけた。この位置から動かずに済む理由なら、十年ぶん持っている。
扉は今日も開かない。
彼女なら三行に分けて書いた。落ちた日と、拾われた日と、返した日と。三行あれば、あの扇は今日の午のうちに伯爵家へ戻っていた。使いは手ぶらで坂を降りた。明日また来ても、渡す根拠は生まれない。
控えの間の山は昨日が二十二で、今朝が二十四だった。増えてはいない。数える者が替わっただけだ。
どちらが正しいかを決められる者が、この城にいない。二十二を二十四に直す根拠がない。二十四を二十二に戻す根拠もない。四月一日を境に、その手の紙が一枚も出てこないからだ。
数の合わない山は、いずれ山ごと運び出される。何が入っていたかは、そのとき誰にも言えない。




