第10話: 鍵が回らない
机の左が、右より高い。
右は済んだ決裁で、左はまだのものだ。三十年、この二つの高さが入れ替わったことはない。左が伸びる日はあっても、翌朝までには戻してきた。
今朝の左は、指四本ぶんある。
束の下へ手を差し入れて持ち上げた。腕にかかる目方で、何日分の遅れかは見当がつく。八日だ。数えるより先に腕が答えを出す。
上の三十枚ほどは角が揃っていない。慌てて置いた者の束は、指で触れば分かる。
「閣下。眼鏡でしたら、額の上に」
「……ああ」
額へ手をやると、確かにあった。押し上げたまま書棚を三度往復したことになる。
「今月、何度目だ」
「まだ四度でございます」
「まだ、か」
「先月は十一度でした」
ヨナスは数えている。私が数えないものを、この男は全部数えている。
「左が減らない理由を、一つずつで結構だ。順に伺いたい」
「三つございます」
「三つか」
「一つ、叙勲の順が決まりません。どなたが何をお納めになったか、前例の日付が出てまいりませんので」
「二つ目」
「印章の再発行が止まっております。前に出した分の日付が要りますが、その控えが北棟に」
「三つ目」
「通行手形です。北の街道と南街道の分が、まとめて止まっております」
「どれも、あの部屋か」
「どれも、あの部屋です」
束を机へ戻した。落ちた音が、思っていたより低かった。
「宮内府は何と言っている」
「壊す決裁は宰相府だと」
「宰相府は」
「宮内府の管掌だと申しております」
「私が言ったか」
「閣下は、まだ何も仰っておりません。書役が先回りして申しました」
それが今の宰相府の答えということになる。書いてもいない答えが、私の名で外へ出ている。
「北棟へ行く」
「閣下がでございますか」
「私が」
「使いを出せば済みます」
「八日、使いを出して減らなかった。私が行けば減るとは言わんが、何が減らないのかは分かる」
立ち上がるとき、椅子の脚が鳴った。ヨナスは止めなかった。止めても無駄だと分かる程度には、この男も長い。
北棟の階段は狭い。手すりの木が痩せていて、握ると指が回りきる。
三階まで上がる途中で、私は自分の息の音を聞いた。三十年、机から離れずに済ませてきた足だ。
途中で気づいたことが一つある。この階段は、束を抱えて上がるには幅が足りない。両手が塞がっていれば体が壁に当たる。十年のあいだあの部屋へ運び込まれてきたのは、片手で持てる物だけだったことになる。
三階に上がると、板戸の脇に包みが並んでいた。
数えた。八つ。
紐の掛け方がどれも違う。結び目の位置も高さも揃っていない。同じ場所へ置かれただけの、宛先のない荷が八つ。
「宰相閣下」
扉から離れた位置に、近衛が一人立っていた。姿勢が崩れていない。
「アーレンス副団長」
「は」
「順に伺いたい。あなたは、何日ここにおられる」
「八日です」
「その八日で、この扉の前から下へ降りた物はあるか」
「一つも」
「上がってきた物は」
「八つです」
この城で上がるだけで降りてこない場所は、私の机とここだけだ。
「後任の管理官を呼んである。来ているか」
「階段の下におります」
副団長が首を向けると、若い文官が上がってきた。宮内府から回された男で、顔と名は決裁の綴りで見た覚えがある。手に鍵を一つ提げていた。
「鍵はそれか」
「これが、そうです」
「差してみせてくれ」
文官は膝をつき、錠へ鍵を差した。半分ほど回って、止まった。手首を返そうとして、指が白くなった。
「これ以上は、折れます」
「もういい」
文官は鍵を抜き、両手で持ったまま立ち上がった。
「返却のときは動いていたと、宮内府の帳面にある」
「動いたと、書いてございます」
その言い方を私は一度飲み込んだ。書いてあることと、起きたことは別だ。この男は正しい言い方をした。
「合鍵は」
「ございません」
「作れ」
「作れません。錠の仕掛けを知る者がおりません。鍵匠が四人、いずれも見たことのない仕掛けだとだけ申して帰りました」
「錠を入れたのは誰だ」
「……分かりません」
「修繕の綴りは」
「宮内府にはございません。あの部屋は、営繕の割り当てに入っておりませんでした」
「宰相府は」
「宰相府にも見当たらないと、書庫の者が」
私は返事をしなかった。
三十年、決裁の場で分からないものに出くわしたらまず口を閉じることにしている。喋りながら考えると、喋った方が残る。
「引き継ぎは受けたか」
「何も受けておりません」
「何も、とは」
「部屋を見ておりません。中に何があるのかも存じません。着任の日から、扉はもう開きませんでした」
「では、あなたは何を引き継いだ」
「役目だけです」
文官は鍵を差し出した。受け取って、掌に乗せた。軽い。
これ一つで開く部屋が、この城に一つある。開かないと分かった鍵は、ただの鉄だ。それでも誰も捨てない。
「アーレンス副団長。この八日、扉を叩いた者は何人だ」
「数えておりません」
「では、覚えている限りで」
「毎日おります。同じ顔も来ます」
「同じ顔が、何度も」
「四度来た者もおります」
四度来て、四度とも同じ答えを持って帰った男がいる。そういう者の分だけ、私の机の左は高くなっている。
「壊す決裁の話を、あなたはどう聞いている」
「明日には下りるかもしれないと、三日前に聞きました」
「三日前に」
「その後は、何も」
板戸を見た。厚みがある。壊すには斧が要る。斧を入れる決裁は、私の机の左のどこにもない。
「一つだけ伺いたい。壊した方がいいと思うか」
「自分が申し上げることではありません」
「聞いている」
「……開けるための道が、壊す以外に残っていないのでしたら」
答えになっていない。答えの出る問い方をしなかったのは、こちらだ。
階段を降りた。上がる時より、踏み板が音を返した。
宰相府の書庫は、年ごとに棚が分かれている。十年前の棚は、いちばん奥の下段にある。
膝をついて綴りを引き出した。埃を吸った紙は重い。この重さは十年分の湿気の目方で、書かれた中身とは関係がない。
目当ての一行は、思ったより早く見つかった。
北棟三階 一室 遺失物取扱に充つ 鍵一箇 合鍵不要
その下に、署名がある。
ギルバート・ハーゼル。
私の字だ。三十年、線の太さは変わっていない。
なぜ合鍵を作らせなかったのか、理由も同じ頁に書いてあった。合鍵を作れば、鍵を持つ者が増える。持つ者が増えれば、預かった物は減る。
理屈は今も正しい。この十年あの部屋から物が一つも消えていないことが、その正しさの証明になっている。
欄外に、私の字でもう一行あった。
当該室、決裁を要する事案なし。
十年、この一行を書き直す機会はなかった。書き直すだけの事案が上がってこなかったからだ。上がってこないのを、私は正常だと読んでいた。
指をインクの匂いが離れない。三十年で染みついたもので、洗っても落ちない。
綴りを閉じた。閉じる音で、棚の埃がわずかに動いた。
鍵が一つしかないことを、あの日の私は危険の少ない形だと考えた。十年その通りだった。八日目に逆さになった。
規則は正しく働いた。正しく働いた末に、誰も入れないという形が残った。私が見落としたのは、その規則がただ一人の上に乗っていたことの方だ。
書庫を出たところで、ヨナスが待っていた。
「閣下。その綴りを、まだお持ちでございます」
見ると、右手が十年前の綴りを抱えていた。棚へ戻したつもりでいた。
「今月、五度目か」
「綴りは初めてでございます。眼鏡とは帳面が違います」
「帳面が分かれているのか」
「一緒にいたしますと、閣下が落ち込まれますので」
執務室へ戻ると、財務卿が来ていた。
こちらの椅子には座らず、机の前に立っている。目は笑いの形のまま動かない。
「宰相閣下。北棟の話は、いつ片付きます」
「片付ける手順を考えている」
「壊してしまえばよろしいでしょう」
言い終える前に、財務卿は頷いた。相槌の速さだった。
「決裁が要る」
「閣下のご一存で足りましょう」
「朝から、二つの府が互いを指している。私はまだ、どちらとも書いていない」
「では、書かずに壊させればよろしい。誰の決裁でもなければ、誰の失点にもなりません」
「壊した事実は残る」
「壊れた事実だけが残ります。古い扉ですから」
私は口を閉じた。
「財務卿。私は、分からないものを分かったふりでは決裁しない」
「ご立派なことで」
財務卿の目が、机の左へ動いた。
「その高さでは、ご立派も長くは持ちますまい。国は、閣下の手癖よりは急いでおります」
「手癖」
「眼鏡でございますよ。宰相府の書役が笑い話にしております」
頷きが一つ入った。私が何も言っていない場所に入った頷きだった。
「一つ伺いたい」
「なんなりと」
「あの部屋の中に、何があると思われる」
「紙でしょう。ただの紙です」
「紙が、私の机を八日止めている」
「止まっているのは閣下の机で、紙ではありません」
それだけ言って、財務卿は出ていった。扉は開いたまま残った。閉めるのは他人の仕事だという歩き方だった。
紙が止めているのではない。私の机が止まっている。
言い返す言葉が出てこなかったのは、それが正しいからだ。
夕刻、左の束を上から順に片付けにかかった。判さえ押せば今日中に済む紙が三十枚ある。
一番上は、通行手形の割り当てだった。
北の街道。ヴァレンティ公爵家。家人一名。侍女二名。荷馬車一輌。同行の近衛は割り振り中。出立は今月の十日。
家人一名の欄の名を、二度読んだ。
判を押せば、この一名は北へ発てる。押さなければ発てない。それだけの紙だ。
積んだ順に、これが一番上へ来ていた。誰が並べたわけでもない。
机の右の抽斗を引いた。匣はある。蓋を開けた。
中が空だった。
「ヨナス」
「は」
「印章がない」
「……朝は、ございました」
「朝はあった」
二人で執務室を探した。書棚の裏。椅子の下。書きかけの綴りのあいだ。
その裏から、片方だけの手袋が出てきた。今朝から見当たらなかったものだ。
「これは数に入っているか」
「入っております。今日の二度目でございます」
「二度目か」
「印章を入れますと、三度でございます」
廊下へ出て、今日通った順に歩き直した。書庫の下段。北棟の階段。宮内府の詰所の前。
どこにもない。
三十年、失くした物が翌日までに戻ってこなかったことはない。眼鏡も印章も、翌朝には机の上に置かれていた。手袋も、片方だけの沓下留めも。誰が置いたのかを、私は一度も尋ねたことがない。
「ヨナス。この城で拾われた物は、今どこへ行く」
「北棟の、扉の前です」
「取りに行けるか」
「あそこの物は、どなたにもお渡しできません。誰の物かを確かめる術がないそうです」
「私の紋が彫ってある」
「紋がお分かりになるだけでございます。型が同じでも、持ち主の証にはなりません」
「私が宰相だ」
「宰相閣下の印章だと申し立てておられるのが、宰相閣下ご本人です」
ヨナスは目を伏せた。言っている本人が、いちばん困っている顔をしていた。
「あの部屋には、それを確かめる書き付けがあったのか」
「あったと聞いております。日付。時刻。拾われた場所。拾った者の名。四つが揃わなければお渡ししなかったと」
「一行で足りるだろう」
「四行に分けてあったそうです。詰めると後から探せませんので」
私は自分の掌を見た。今日、若い文官から受け取った鍵を握っていた手だ。
印章の再発行には、前に出した分の日付が要る。その日付は北棟にある。北棟は開かない。開けるための決裁には判が要る。判を押す印章は、今日この机から消えた。
輪になっている。
この輪を、十年のあいだ誰かが一人で切っていた。切っていたと言えば大袈裟だが、実際にやっていたのは拾われた物の日付と場所を書き留めることだけだ。それだけで輪は輪にならなかった。
「明日の朝一番に、宮内府へ行ってくれ」
「壊す決裁の件でしょうか」
「その前に一つある。あの部屋の錠を入れた職人の名を、営繕以外の綴りから探させろ。支払いの記録なら財務府にある」
「財務府に、でございますか」
「十年前でも、代金は払っている。物が動けば金も動く。金の綴りにだけは残る」
「……承知しました」
ヨナスが出ていった後、私は通行手形をもう一度手に取った。
判のない紙は軽い。何枚積んでも高さにならない。
それを左の束の一番上へ戻した。今日、右へ移せた紙は一枚もない。三十年で初めてのことだ。
匣の蓋は開けたままにしておいた。戻ってきたら、そこへ入れる。
三十年、そうやって戻ってきた。戻していた者が誰だったのかを、私は今日まで一度も考えたことがない。
一行で足りるものを四行に分ける手。急いでいない者の書き方だ。この城のどこかに、そういう手が一つあった。
明日の朝、左は指五本になる。




