第11話: 記録がない
指五本になるはずだった。
朝、机の左は指四本しかない。残りは床にある。
「閣下。半分は、床へ移してございます」
「床に」
「机では持ちません」
紙は湿気を吸うと縁が反る。反った紙を高く積めば、いつかは滑る。夜のあいだに滑った分を、ヨナスが二つに分けていた。机の左に一つ。窓寄りの床にもう一つ。
床の山の下へ指を入れて起こすと、手首の方が先に音を上げた。昨日は片手で足りた嵩だ。
三十年、この部屋には束が二つしかなかった。済んだものと、まだのものだ。今日から三つある。
崩れた紙を積み直せば、順は変わる。上にあったものが下へ行く。中身が同じなら順は関係ないと思う者は、決裁をしたことがない。急ぐ紙ほど上にあり、上にあるから急ぎだと読まれる。夜に一度崩れただけで、その読みは消えた。
「昨日の錠前の件は」
「ございました」
「名は」
「金額だけでございます」
ヨナスが写しを差し出した。一行しかない。
北棟三階 錠前一式 十二ターレル
「支払先の欄は」
「宮内府 立替、と」
「では宮内府に受け取りの綴りがある」
「ございません。書役に三度当たらせましたが、その年の分は残っておりませんでした」
「金の綴りにだけは残ると、昨日私は言った」
「残っておりました」
「金額がな」
十二ターレル。職人の日給の六日ぶんだ。六日で入る錠が、鍵匠四人の手を弾いている。
「もう一つ、財務府の書役が申しておりました。十年より前の綴りは、年ごとに一行へまとめてあるそうでございます」
「一行に」
「整理済み、と」
一行に詰めた紙は、後から探せない。詰めた者が探させないためにそうしたのかどうかは、今日の私には分からない。分からないことを、私はまだ書かない。
あの府へ監査が入った年を思い出そうとして、出てこなかった。十五年、入っていない。
「北棟の扉の前は」
「今朝で十一でございます。宮内府から伺いが来ております」
「何の伺いだ」
「置き場が尽きましたので、廊下へ広げてよろしいかと」
昨日は八つだった。この増え方なら三日で階段の口へ届く。あそこは人ひとりが肩を斜めにして通る幅しかない。
置き場が尽きるという言い方を、私は今朝初めて聞いた。この城で物が余ったことはない。余っているのではなく、行き先がないだけだ。
鐘が四つ鳴る前に、儀典長が来た。脇に紙束を抱えている。
抱え方でだいたい分かる。腕の中で紙の端が扇のように開いていた。何度も抜いては差し戻した束の開き方だ。
「掛けてくれ」
「立ったままで結構でございます。すぐ戻りますので」
すぐ戻ると言う者ほど長い。
儀典長は束を机の隅へ置いた。落ちた音が高い。よく乾いた紙だ。
「三十枚ございます」
「三十一」
「来月の一日から末日まで、日ごとに一枚ずつ」
「どの日でもよいという意味か」
「どの日にも決められないという意味でございます」
「決まらないものから伺いたい。重い方から」
「では、北の使者団です」
儀典長は束の上に手を置いたまま話した。並べ替えたくて仕方がない手つきだった。
「先方の格は前回と同じでございます。席次は前例に倣います」
「倣えばいい」
「席次表が三通ございます。どれが最後のものか分かりません」
「日付を見ろ」
「三通とも、入っておりません」
紙を三枚もらって並べた。字が三通とも違う。どれが新しいかは焼け具合で見当がつく。見当では席次表にならない。
「儀典の者が分からんのか」
「席次を決めるのは儀典でございますが、決めた日を書き留めるのは書記でございます」
「これまでは、どこで日を調べていた」
「北棟へ伺っておりました」
「あの部屋か」
「はい」
三つのうちの一つ目で、もう北棟へ着いた。
「次を」
「新年の叙勲でございます。綴りには名しか並んでおりません」
「名の順で決めればいい」
「その並びが前回の順でございます。前回の日が出ませんと、その後に功のあった方を入れる場所が決まりません」
「あと一つあるだろう」
「……殿下のご婚約の件でございます」
儀典長の声が半分になった。
「破棄の記録に、日の欄がございません。書記官が、その場でそう指示を受けたと申しております」
「成立の方は」
「そちらも、年までしか」
「十年前だ」
「年は、私も存じております」
次の縁組の話がもう動いている。いつ切れたかが定まらなければ、いつから空いているかも定まらない。王家の縁組が、日付一つで止まっている。
「陛下には」
「まだ、申し上げておりません」
「いつまで黙っている」
「宰相閣下が日をお決めくださるまでと、儀典では申しております」
私が決める。決めるための日付が、この城のどこにもない。
「北棟へ伺うと、何日かかった」
「かかりません。扉の前で伺えば、その場でお答えになりました」
紙の端に置いた指が、そこから先へ進まなかった。
「中へは」
「入れません。伺うだけでございます」
「なぜあの方が日をご存じなのか、訊いたことは」
「ございません。答えが出てまいりますので」
答えが出る。だから誰も、なぜ出るのかを訊かなかった。
「あなたが訊いたことを、書き留めたか」
「……何を、でございましょう」
「いつ誰に訊いて、何と答えられたか。それをだ」
「そのようなものは、書きません」
「なぜ」
「決裁を要する事案ではございませんので」
その一行を、私は十年前に自分の手で書いている。あの部屋を充てた決裁の欄外に、同じ言葉で。
儀典長は正しい。書役も正しい。私の欄外も、書いた日には正しかった。間違いのない答えが十年ぶん積み上がって、この城には日付の記録がない。
「三十枚は、置いていくのか」
「お手元にあった方がよろしいかと」
「日は、この紙の上にはない」
「……はい」
「あなたも私も、日の書いていない紙を三十枚持っていることになる」
儀典長は束を置いたまま出ていった。持ち帰る理由が思いつかなかったのだと思う。私にも思いつかない。
扉が閉まってから、鍵を探した。昨日、北棟で若い文官から受け取ったものだ。抽斗にも外套の隠しにもない。
「ヨナス。鍵を見なかったか」
「お手の中でございます」
左手が握っていた。儀典長の話のあいだ、ずっと握っていたことになる。
「今日は何度目だ」
「三度目でございます。眼鏡が二度」
「かけたまま探すのも、数に入るのか」
「入ります。二度目は、かけたまま私に在処をお訊ねになりました」
「厳しいな」
「甘くいたしますと、数が合いませんので」
この男は数の合わないことを嫌う。だから私は、この男の前でだけ正確でいられる。
半刻ほどして、ヨナスが一枚持ってきた。席次表の写しだ。日を書く欄に、字が入っている。
「誰が入れた」
「宰相府の書役でございます。三通のうち一番古そうなものを外し、残りに年月を入れて出すつもりだったと」
「根拠は」
「紙の焼け具合だと申しております」
私も今朝それを見た。同じ見当を私も立てている。書かなかっただけだ。
「止めろ」
「一度だけ伺ってもよろしゅうございますか。この一枚が出れば、来月の席次は決まります」
「決まる」
「では」
「決まった日付は、書いた者が忘れた頃に本物になる。十年経てば、誰も見当だったとは思わん」
ヨナスは頭を下げた。写しは持ったまま下がった。
入れ替わりに、財務卿が入ってきた。この府がこの部屋に二日続けて用を持った例を、私は思い出せない。
「宰相閣下。日取りは決まりましたか」
「決まらん」
「決めてしまわれては」
「前例が要る」
「決めた日が、次の前例になります」
淀みがない。昨日の続きを今朝考えてきた者の喋り方だ。
「前例のない席次で、北の使者を迎えるのか」
「迎えた事実だけが残ります」
昨日は壊れた事実だと言った。この男はいつも、起きた方ではなく残った方を数えている。
「そもそも十年ぶんの紙をあの部屋へ積んでおく必要が、どこにございました」
「必要なら、今出ている」
「焼いてしまえば、前例そのものがなくなります。ないものでは、誰も揉めません」
私は返事をしなかった。昨日も返事をしなかったが、理由が違う。
「閣下の印章は、まだお見つかりになりませんか」
顔を上げた。
「誰から聞いた」
「書役でございます。閣下の抽斗の話は、宰相府では朝のうちに一巡いたします」
昨日、匣が空だったことを口に出したのはヨナスの前だけだ。廊下を歩き直しはした。誰かの目には入っただろう。それにしても早い。
「印章のない府が日をお決めになっても、押せる紙は一枚もございませんな」
財務卿は出ていくとき、扉を閉めた。昨日は開けたまま行った。今日は閉める理由があったことになる。
夕刻、儀典長が戻ってきた。今度は一枚だけ持っている。
「北の使者団への書状でございます」
「日は」
「入れておりません。追ってお知らせ申し上げる、と」
「先方はどう読む」
「もったいぶっていると読みます」
「決められないと読まれるよりはましか」
「……私は、そう思っております」
受け取る前に、床の束から一枚抜いて読んだ。南街道の隊商の頭からのものだった。手形の判が下りない、いつまで待てばよいかだけでも聞かせてほしいとある。字が太い。急いで書いた者は筆を強く当てる。
いつまで、が書けない。
書状の方を受け取って目を通した。八行ある。日を書く場所だけが空いている。
三十年、この城が外へ出した紙に日の入っていないものはない。
判がない。私は名だけを書いた。名だけの紙が、国の外へ出ていく。
「ヨナス。床の束は何枚だ」
「百四十一枚でございます」
「今日、右へ移したのは」
「四枚でございます」
「百四十一のうち、日を待っているだけのものは」
「百二十六枚です」
決めた者がいる。書いた者もいる。通す者もいる。いつだったかが分からないだけで、その百二十六枚は右へ移れない。
「もう一つ頼みたい。帳面を見せてくれ」
「眼鏡の方でございますか」
「失くした物の方だ。全部が載っている方でいい」
ヨナスは一度だけ目を伏せてから、懐へ手を入れた。
年ごとに並んでいた。眼鏡。印章。手袋。沓下留め。鍵。書き付けの束。数が横に添えてある。仕えて十四年ぶんで、通しの数は二百を超えていた。
「多いな」
「多うございます」
「これは、いつから付けている」
「お仕えした年からでございます」
「なぜ付けた」
「はじめは、お探しするためでございます」
「今は」
「……今も、お探しするためでございます」
「このうち、戻らなかったものは」
「ございません」
二百と少し失くして、二百と少し戻っている。取りに行ったことは一度もない。
儀典長は扉の前で日を訊き、その場で答えをもらって帰った。中へは入っていない。私の眼鏡も印章も、同じ扉の向こうから戻ってきた。
日を答える声と、拾われた物を返す手が一つの部屋から出ている。この城は声の方だけを十年使ってきた。
匣は、朝から空のままだ。
三十年で一度もなかったことが、今日で二日続いている。




