第12話: 一枚足りない
「木でございます」
老人は錠へ耳を寄せたまま、そう言った。
北棟三階の踊り場は、大人が三人立てば肩が触れる。私と老人と後任の管理官で、もう埋まっている。ヨナスは二段下に立っていた。
「錠前ではないと」
「錠前屋の仕事ではございません。抽斗の仕掛けと同じでございます。鍵匠には開きますまい」
この男を見つけたのは昨夜だ。財務府の支払いの綴りには金額しかなかった。だが十二ターレルを立て替えた書役の署名が、願いの綴りの方に残っていた。その書役は六年前に城を退き、城下の甥の家にいる。訪ねさせると、職人の名を覚えていた。
金の綴りに残っていたのは金だけだ。名は、金を出した側に残っていた。
「十年前、これを入れたのはあなたか」
「わたくしでございます。銀を十二枚いただきました」
「六日ぶんだな」
「七日かかりました」
老人は錠の縁を親指の腹で押した。爪が平たい。木を撫でて生きてきた指だ。
「なぜ回らん」
「太ったのでございます」
「太った」
「木は湿気を吸います。毎日開け閉てしておりますと、駒が擦れて痩せてまいります。一週間もそのままにしておけば、太ります」
「一週間で、か」
「北向きで、窓は一つでございましょう。この部屋は、人が毎日入るものとして拵えました」
人が毎日入る。その一行が、どの綴りにも書かれていない。書く欄がないからだ。
「壊さずに開くか」
「開きます。板を一枚外して駒を落とします。四半刻ちょうだいします」
「頼む」
老人が道具を広げるあいだ、扉の脇の包みを数えた。十四ある。昨日は十一だと聞いた。
結び目の高さは一つとして揃っていない。括った手が十四通りあって、置いた先だけが同じだった。行き先はどれにも決まっていない。
「副団長。中へ入られるか」
「入りません」
「十日、この扉の前におられる」
「開くまでが持ち場でしたので」
アーレンス副団長は扉から離れた位置のまま動かなかった。姿勢が十日前と同じ角度で止まっている。
板を外す音が二度した。それから、木が木を打つ乾いた音が一つ。
「開きました」
入って、私はまず高さを探した。
十年ぶんの紙がある部屋だと聞いていた。私の机の左はこの十日で崩れ、三つに分かれた。積み直せば私の膝より高い。同じ勘定でいけば、この部屋は天井まで埋まっている。
棚は、私の肩までしかなかった。
板戸を上げると、光より先に埃が動いた。北向きの窓が一つ。壁に沿って棚が三列。中央に机が一つと、椅子が机の下へ入れてある。
埃は薄い。ひと月ぶんだけだ。それより前の埃はどこにもない。
机の上にインク壺があった。羽根ペンが一本、削りかけのまま横に置いてある。削り屑は落ちていない。
「引き出しを」
「鍵が合いません」
管理官が困った顔をした。老人が横から手を入れ、指を二度動かした。それで開いた。
中は空だった。底の埃の積もり方が、四角く一箇所だけ違う。
「ここに、何かがあったな」
「布の跡でございます。包んで持ち出せば、こうなります」
宮内府は、合鍵の手がかりは室内の台帳の中にあると書いて外へ出している。その台帳は、この引き出しにない。
私は眼鏡を外して机へ置き、埃の縁を近くで見た。それから顔を上げて眼鏡を探した。
「閣下」
管理官が机の上のそれを差し出した。
「この部屋で失くすとはな」
「本日、一度目でございます」
ヨナスの声が扉の外から入ってきた。この男は入り口から一歩も入っていない。
「入らんのか」
「わたくしの物は、ございませんので」
棚を順に見た。埃よけの当て布が上から掛けてあり、掛け方が三列とも揃っている。めくると、抽斗の一つ一つに札が下がっていた。書いてあるのは番号だけだ。品の名も持ち主の名もない。
左の端から右へ、数字が小さい順に並んでいる。並べ替えた跡はない。届いた順に置けば、そのまま番号の順になる。
「その札は」
「番号でございます。中の物の」
「品の名は」
「書いてございません」
「これでは、何が入っているか分からんだろう」
「番号を引けば分かるのだと存じます。……引く先が、今はございませんが」
「開けてくれ」
管理官が二段目の抽斗を引いた。留め金がわずかに緩んでいて、引く前に少し落ちた。
中に眼鏡があった。
蔓の細い、古い型だ。私が十年より前に使っていたものだった。
「ヨナス」
「は」
「これは、帳面にあるか」
ヨナスが懐から帳面を出した。指が二枚めくって止まった。
「……ございません」
「では、失くしたことも知らんかったわけだ」
「そのようで」
かけてみた。何も見えない。
「合わんな」
「十年前の目でございます」
同じ抽斗に、沓下留めの片方と書き付けの束があった。束を繰ると、私の字だった。十年前の日付が入っている。会議の順を並べただけの紙で、無くしても誰も困らない。
三つある。私の物が三つ、この抽斗の中で年を越していた。
二百と少しは戻ってきた。この三つは戻らなかった。私が失くしたと言わなかったからだ。
言わない物は、誰の物にもならない。
棚の下段に、綴りが並んでいた。年ごとに十冊。
一冊引き出して膝に乗せた。厚みは他の九冊と変わらない。
先頭の一枚に、女の字がある。
別綴 五年目 名乗り出ぬ物
その下に、番号だけが縦に並んでいた。飛び飛びの数字だ。
台帳は日付の順に綴じ、頁の隅に通し番号を打つ。後から挿し込めない綴じ方だ。名乗り出ない物の頁だけを抜いて別に集めれば、台帳の側は番号が飛ぶ。飛んだ先を残しておくために、この列がある。
考えて作った者がいる。この書き方に似た様式を、三十年で一度も見ていない。
「一枚、繰るぞ」
「はい」
日付。時刻。場所。名。四列しかない。
紙です。ただの紙です。財務卿の言葉は、この部屋の中では正しかった。
「読み上げてくれ。上から順に」
管理官が控えを持ち、私が頁を繰った。
「千七百十三番」
「ある」
「千七百四十番」
「ある」
「千七百六十二番」
「ある」
管理官の声が続く。私の指が続く。番号は頁の隅にある。中身は読まない。読む用のない場所だ。
「千八百十九番」
「ある」
「千八百二十四番」
繰った。次の頁の隅は千八百三十一だった。
「もう一度」
「千八百二十四番でございます」
「戻る。一枚前は」
「千八百十九」
私は同じ場所を三度繰った。三度とも千八百十九の次が千八百三十一だった。
「一枚足りない」
「控えの番号は、いくつある」
「七十二でございます」
「頁は」
「……七十一枚です」
控えを受け取って、その数字の上を見た。二重線はない。日付も署名も添えられていない。
繰った頁のうち何枚かに、二重線を引いて日付と名を添えた直しがあった。誤りを消さずに残す書き方だ。消すという手は、この綴りの中に一度も出てこない。
それでも番号は消されていない。
「綴じ糸を見せてくれ」
管理官が綴りの背をこちらへ向けた。糸の結び目が二つある。一度解いて、結び直してある。結びの癖が二つとも同じだ。
「解いたのは、いつだと思う」
「……分かりません」
「私にも分からん」
十冊を重ねて持ち上げた。目方は十冊ぶんの目方でしかない。
三十年、私は紙を手で読んできた。束の重さで何日分の遅れかが分かる。角の揃い方で、慌てて置いた者かどうかも分かる。
その手が、一枚には届かない。届いたのは番号の方だ。
「この部屋の鍵は一つだった」
「はい」
「十年、入ったのは一人だ」
「……そう伺っております」
抜いたのは、その一人しかいない。
隠すつもりなら番号ごと消せばよかった。消せば、この綴りは初めから七十一枚だったことになる。誰も数えない。控えの数字と突き合わせようと思う者が、そもそもいない。
消していない。番号だけを残して、頁を持っていった。
何の頁かは、この綴りには書いていない。書いてあるのは数字だけだ。数字から中身を引けるのは台帳の方で、台帳はこの部屋にない。
「ヨナス」
「は」
「あの引き出しの中身は、今どこにある」
「……ヴァレンティ公爵家かと存じます」
外の空気が動いた。副団長が扉の枠から半歩だけ入って、また戻った。入ったのではなく、一度こちらを見た形だった。
階段を降りると、下に財務卿がいた。
「宰相閣下。開いたそうで」
「早いな」
「閣下の抽斗の話は朝のうちに一巡すると、昨日申し上げました」
「一昨日、中に何があると思うかと聞いた」
「紙でしょう、と申し上げました」
「紙はあった。多くはない」
財務卿が頷いた。私が言い終える前だった。
「台帳は」
「あなたは、あの部屋の帳面を台帳と呼ぶのだな」
「城の者は皆そう呼びます」
「呼ばれるほど、誰も見ていない」
階段の上から管理官の声が落ちてきた。
「引き出しは、空でございました」
財務卿の顔は動かなかった。動かないことの方が、こちらには残る。
「では、焼けもいたしませんな」
「焼く話をしているのか」
「前例の話でございます」
財務卿は降りていった。この階段は降りる方がよく鳴る。鳴らせずに降りていった。
執務室へ戻ると、机の左は昨日と同じ高さだった。床の山も減っていない。判が押せても、日の入っていない紙は右へ移せない。
「閣下。扉の前の十四は、いかがいたしましょう」
「中へ入れろ」
「入れて、その先は」
答えなかった。
中へ入れれば、廊下に積んであった物が部屋に積まれるだけだ。棚は番号の順に並んでいる。番号のない物を置く場所は、あの部屋にない。
包みは執務室へ運ばせた。紐を解いて、一つずつ机へ並べる。
三つ目に、印章が出てきた。
「閣下の紋でございます」
「どこで拾った」
「書いてございません」
「いつだ」
「……分かりません」
紋は私のものだ。私が失くしたのは一昨日だ。この印章が私のものである証は、それしかない。
「よろしいのでございますか」
「よくない」
「では」
「私が取る。書いておけ」
「どこへ」
どこへ、と言われた。書く先が思い浮かばなかった。
三十年、私の物が戻るたびに四列が書かれていたはずだ。日付。時刻。場所。拾った者の名。私はその四行を一度も読んでいない。読まなくて済んでいた。
紙を一枚取って、自分で書いた。
日付を書いた。次の行に時刻と書いて、そこで止まった。場所と書き、四行目に拾った者の名と書いて、そこも空いた。
一行しか埋まらない紙が一枚できた。
「これは、どこへ綴じる」
「……綴じる先が、ございません」
抽斗の匣を引き出した。蓋は一昨日から開けたままにしてある。印章を入れて、蓋を下ろした。留め金は指の腹を押し返してから落ちた。
三十年、失くした物は必ず戻ってきた。戻ってきた日を、私は一度も知らずにいた。今日初めて知りたいと思って、知る手立てがない。
左の束の一番上に、通行手形がまだある。
北の街道。ヴァレンティ公爵家。家人一名。侍女二名。荷馬車一輌。出立は今月の十日。
判は、今なら押せる。
押せば、この一名は四日後に北へ発つ。馬で八日の先だ。
机の隅に、番号を一つだけ書いた紙を置いた。
一千八百二十四。
この城に、それが何の頁だったか言える者はいない。




