第13話: 真実の愛のはずだった
「殿下。この紙は、どちらへ回しましょう」
この一月で何度目の問いなのか、私は数えていない。
数えたところで同じだ。私は答えを持っていない。持っていたことが一度もない。
「宰相府へ」
「宰相府から回ってまいりました」
「では宮内府だ」
「宮内府から宰相府へ回ったものでございます」
マティアスは紙を胸の前に持ったまま動かない。私が言うまで、この男は動かない。
机の上には今朝も紙が置かれている。並びは昨日と違う。一昨日とも違っていた。
十年、この机の紙は上から順に片づければそれで済んだ。誰がそう並べていたのかを、私は考えたことがない。並んでいるものは、並んでいるものだった。
「順が違う」
「並べておりますのは、以前より私でございます」
「では、なぜ違う」
「以前は、置く前に順が決まっておりました」
「どこでだ」
「……存じません」
存じません。この一月、私はこの言葉を何度聞いたか。それも数えていない。
「叙勲は」
「日取りが、まだ」
「決めろと言った」
「決まりません」
「私が決める。来月の一日だ」
「かしこまりました。順は、いかがなさいます」
「前と同じでいい」
「前がいつであったかを、儀典が探しております」
私は口を閉じた。閉じたことが顔に出ない角度まで、顎を上げた。
迷いを見せてはならない。そう教わった。教わった通りにしていれば、たいていのことは済んできた。
「宰相は何と言っている」
「宰相閣下は、日が入るまで押せぬと」
「押せぬでは国が動かん」
「はい」
はい、と言ったきりマティアスは紙を持ったまま立っていた。私が次を言えば、この男はそれを持って走る。私は次を持っていなかった。
「北の使者団は」
「棟の割り当てが決まりません」
「例年通りにしろ」
「例年がいつであったかを、儀典が」
「もういい」
マティアスは下がらなかった。紙の角が胸元で少し折れている。
「言え」
「……差し出がましいことでございます」
「言え」
「以前は、殿下がお決めになる前から決まっておりました」
私が決める前に、決まっていた。この男は十年それを横で見ていて、今日まで口にしなかった。言えと私が言わなかったからだ。
私は忙しかったのだ。十年、朝から夜まで人に会っては差し出される紙に頷いてきた。忙しかったから見ていなかった。一度はそう思った。
思ってから、では何に忙しかったのかを順に並べようとした。並ばなかった。
昼前に、東屋へ下りた。
ネリーはもう来ていた。いつも先に来ている。呼び出したのは私の方なのに、私が着いたときには必ず立ち上がる用意ができている。
「殿下」
「座っていい」
「はい」
膝の上で、指が組み替えられた。組み替えてから、また元に戻した。
この娘は十八になる。父は男爵だと聞いた。名は一度聞いたが、出てこない。
「贈り物を用意させる。何がいい」
「わたくしは、何も」
「言え」
「……存じません。いただいたことがございませんので」
マティアスを呼んだ。
「例年のものを見せろ」
「例年のもの、と申しますと」
「私が贈ってきた品だ。母上にも諸侯にも、毎年贈っている」
「殿下がお贈りになった品の控えは、こちらにはございません」
「では、どこにある」
「例年この頃になりますと、包みが回ってまいりました。私はそれをお渡ししていただけでございます」
「どこから回ってきた」
「……存じません」
十年、私は贈ってきたつもりでいた。品を選んだ覚えは一度もない。時期を決めた覚えもない。包みは、贈るべき日の朝には机の脇にあった。
置かれているものは、置かれているものだった。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、去年までは夜会に呼ばれたことがございませんでした」
風が一度抜けて、東屋の柱の影が動いた。
「今年になってから急にお招きをいただくようになりました。父は、家の格が上がったのだと申しております」
「招きは、どこから来る」
「宮内府の紋の封で参ります」
「誰の名がある」
「どなたのお名前もございません」
招く相手は私が決める。王家は、招く相手を間違えない。
だが、この娘を招けと言った覚えがない。
「最初はいつだ」
「一月の……半ばだったと思います。いえ、月が明けてすぐかもしれません」
「日は」
「覚えておりません。申し訳ございません」
私も覚えていない。彼女を初めて見た夜会がどれだったのか、順に並べることができない。気がつくと同じ広間にいて、気がつくと隣に立っていた。
彼女のどこを好いたのかを、言葉にしようとしてみた。髪の色。声の高さ。笑うときに一度だけ目を伏せるところ。どれも、誰かがそう言っているのを聞いた言い方だった。
真実の愛だと思っていた。思っていた、という形でしか出てこない。
「お前は、私と何を話してきた」
「殿下がお話しになったことを、うかがっておりました」
「お前の話は」
「わたくしの話は、いたしません」
「なぜだ」
「お尋ねになりませんでしたので」
日の高さを答えるのと同じ声だった。抑揚が、前の答えから一つも動いていない。
「殿下」
「なんだ」
「ヴァレンティ様は、お元気でいらっしゃいますか」
答えを探した。手が空を掴むように、何もない場所を探した。
「知らない」
「……申し訳ございません」
「お前が謝ることではない」
「わたくしが、何かしてしまったのでしょうか」
「していない」
していない。この娘は何もしていない。
何もしていない者が、なぜあの夜からずっと私の隣にいるのか。
「誰が、お前を私に引き合わせた」
ネリーは口を開いて、そのまま閉じた。
「思い出せ」
「最初の晩は、席が隣でございました。わたくしの家の格で、あの席に座ることはございません。父も母も、殿下のお計らいだと申しております」
「私は計らっていない」
「……」
「いや。今のは忘れろ」
忘れろと言えば、この娘は忘れる。そういう娘だと分かっていて言った。
ネリーは膝の上で指を組み直し、それから小さく息を吸って背筋を伸ばした。誰かに、そう教わったばかりの伸ばし方だった。
私は目を合わせて笑ってみせた。それは十年、私が一番うまくやってきたことだ。
「北棟の三階へ行く」
「殿下が、でございますか」
「昨日開いたと聞いた」
「開きましてございます」
「案内しろ」
階段は十九段あった。途中で肩が壁に触れた。両手が塞がっていれば、体を斜めにしなければ上がれない幅だ。
城にこんな場所があることを、私は今日知った。
扉は開いていた。中は思っていたより狭い。棚は私の肩より低い。北向きの窓が一つあるきりで、日は入っていない。
管理官と名乗る文官が私を見て、羽根ペンを取り落としてから頭を下げた。名は聞かなかった。
「開けろ」
「どれを、でございましょう」
「全部だ」
抽斗には札が下がっている。書いてあるのは数字だけだった。
管理官が左の端から順に引いていく。指輪が出た。片方だけの手袋が出た。封を切っていない手紙が出た。
「これは誰のだ」
「番号がございます」
「番号は聞いていない」
「番号から引く先が、この部屋にはございません」
「持ってこい」
「帳面は城にございません」
私は開けろと言った。抽斗は開いた。開いても、何も出てこない。
命じることはできる。命じた先で何が起きるのかを、私は一つも知らない。
「私の物はどれだ」
「殿下のお品は、ここにはございません」
「一つもか」
「一つも」
「なぜだ」
「殿下がお落としになったものは、ここへ届く前に誰かがお持ちいたします」
十年、私はこの城で何ひとつ失くしていなかった。
失くしていないのではない。失くしたことにならずに済んでいた。落ちた物は、床に着く前に誰かの手に渡っていた。
机の上に、削りかけの羽根ペンが置いてあった。削り屑は一つも落ちていない。
「これは」
「前の管理官のものかと存じます」
「前の管理官」
「セラフィナ・ヴァレンティ様でございます」
この男は札を下げ直しながら言った。手も止まらなかった。
この一月、その名を私の前で出した者はいない。出させなかったのは私だ。もう何の関わりもないと、私が皆の前で言った。
この男は部屋を渡されて間もない。まだ、何を言ってはならないかを教わっていない。
私は口の中で繰り返そうとした。断罪の夜、私はその名を広間の端まで届く声で呼んだ。声にしたのは、あれが最後だ。
「マティアス」
「は」
「あの者は、ここから私の部屋へ上がってきていたのか」
「月に六度でございます」
「六度」
「多い月は八度でございました」
「何を聞かれていた」
「殿下とあの方の間のことでございます。私は廊下におりました」
一つでいい。思い出せ。
出てこない。声の高さも、袖の色も、何を聞かれて何と答えたのかも出てこない。
覚えているのは一つだけだ。あの女は、私の部屋で一度も座らなかった。
椅子を勧めた記憶がない。十年、一度もない。
「殿下。お足元に」
管理官が拾い上げたのは、抽斗から滑り落ちた耳飾りだった。片方だけしかない。
「これも誰のか分からんのか」
「はい」
「一つだけか」
「小箱に、まとめてございます。数までは」
管理官が棚の奥から小箱を出して蓋を開けた。片方だけの耳飾りが、隙間なく詰まっていた。
どれも似ていて、どれも対がない。誰かが同じものを落とし続けたように見えた。
「片方だけの物を、なぜ取っておく」
「……分かりかねます。私の前の者が、そうしておりましたので」
「その箱は、戻しておけ」
「はい」
管理官が蓋を下ろした。留め金の合う音がしない。何度か押し直して、ようやく落ちた。
「前の者に会ったことは」
「ございません」
「引き継ぎもなしか」
「鍵と、この部屋だけをいただきました」
「帳面は」
「ございませんでした。ここへ参りましてから、私は一度も物をお返しできておりません」
管理官の机に、届け出の紙が一枚伏せてあった。裏返すと、日付の欄だけが埋まっている。場所も、誰が拾ったのかも空白のままだった。
扉の脇には包みが二つ。どちらも行き先が決まらないまま置かれている。二つなら私にも数えられる。
執務室へ戻ると、財務卿が待っていた。
「殿下。北棟へお上がりになったとか」
「早いな」
「宰相府で出た話は、財務府へも参ります」
侯爵は私が言い終える前に頷いた。頷いてから、頷く理由を探す顔をした。
「あの部屋のことで、殿下がお心を痛められることはございますまい」
「痛めてはいない」
「紙でございます。ただの紙です」
「侯爵。あの部屋の帳面は、どこへ行った」
「さて。紙のことは、宰相閣下がよくご存じかと」
「お前は知らんのか」
「わたしは金を見ております。紙は宰相府の受け持ちでございます」
「侯爵」
「は」
「宮内府の招きは、誰が決める」
「殿下がお決めになります」
「私は決めていない」
侯爵の口の端は、笑いの形のまま動かなかった。
「では、決めた者がおりましょう」
「誰だ」
侯爵は窓の方へ首を回し、日の高さを確かめるような目をした。
「宮内府の綴りには、宛名の下に決裁の判がございます。その判はいつも殿下のものでございましょう」
「私は押していない」
「押しておられます。押した覚えがおありでないだけで」
扉が閉まったのは、私が次を言う前だった。
思い出せないものが、この一月で増えた。増えたのではないのかもしれない。もとから覚えていなかっただけかもしれない。
「マティアス」
「は」
「一月に、ザントベルク家へ招きを出したのは誰だ。宮内府の綴りを持ってこい」
「綴りは宰相府を通っております」
「では宰相府から取れ」
「……日にちが分かりませんと、その綴りは出てまいりません」
「日にちが分からんから探すのだ」
「はい。ただ、綴りは日ごとに分けてございますので」
紙は日で綴じられている。日が分からなければ、紙は出てこない。
誰が招いたのかを知るには、いつ招いたのかを先に知らねばならない。その日を引く先が、この城のどこにもない。
「殿下」
「なんだ」
「ザントベルク嬢を次の夜会にお招きになるのでしたら、席次が要ります。席次には日取りが要ります。日取りには前の例の日付が要ります」
「その日付が出てこない、と言いたいのだろう」
「……はい」
「下がれ」
「は」
マティアスは、入ってきたときと同じ紙を胸に抱えて下がった。回す先は今日も決まらなかった。
紙を一枚取り、自分でペンを持った。つけすぎたインクが、最初の一画で滲んだ。
ネリー・ザントベルク嬢。宛名だけは書けた。
その下に、日付の欄がある。
私が隣に立たせたいと思った娘を、私は招くことができない。
招くには日が要る。日を出せる者を、私は城から出した。
インクが乾くまで、私はその欄を見ていた。乾いても、欄は空いたままだった。




