↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
14/25

第14話: 私は選ばされていた

「殿下。日付を一つ、頂戴いたしたく存じます」

「何の日付だ」

「殿下がご婚約を解消なさった日でございます」


 儀典長は紙を胸の高さに持ったまま動かない。マティアスと同じ持ち方だ。この城の者は、答えを持たない相手の前ではこうして立つ。


 鐘は四つ鳴り終わっている。窓の下で、庭師が砂利を掻く音がしていた。


「書記官が書いたはずだ」

「書きましてございます。日の欄だけが空でございます」

「なぜ空だ」

「殿下が、好きに書けと仰せになりましたので」

「なぜ今になって日が要る」

「解消の頁が閉じられませんと、その年の綴りが一冊ぶん閉じられません」

「一冊」

「儀典の綴りは年ごとでございます。今年の分が、まるごと開いたままでございます」


 覚えている。あの書記官は羽根ペンを握り直すのに二度失敗した。日付と場所を問われて、私は知るかと答えた。


 その一言が、この紙の空欄になっている。


「では、日を言え」

「殿下から伺うために参りました」

「私にか」

「あの晩、壇の上においでになったのは殿下でございます」


 顎を上げた。上げてから、それが顔に出る角度だと気づいて戻した。


 何月の何日だったか。


 叙勲の話の前だった。改修の音が響き始める週の話をした。杯が鳴って、拍手が起きて、人垣が崩れた。順番は並ぶ。日が出てこない。


「儀典長」

「は」

「その紙は置いていけ。追って伝える」

「畏れながら、日は出ております」


 儀典長は脇に抱えていた綴りを机へ置いた。表紙に近衛の紋がある。


「宮内府が式次第の控えを直しますのに、近衛から借りてまいりました」

「近衛の日誌か」

「あの晩、広間に誰が立っていたかを突き合わせております」


 開かれた頁に、細い字が並んでいた。


 四月一日。持ち場、大広間。立哨、アーレンス。


 その右に、もう一つ欄がある。異変の有無、と刷ってある。


 無し。


 一字だけ入っていた。


「四月一日か」

「さようでございます」

「これは、誰が書いた」

「立哨に立った者かと」

「無しと書いてある」

「近衛は剣を抜いた者があったかを書きます。それ以外は書きません」


 私が十年の婚約を切った晩は、この城では一字で足りていた。


 印章を出させ、日の欄へ自分で押した。判は右へ傾いた。


 傾いた判を直す手立てはない。この城の紙は、間違えたところを消さずに残す。誰かにそう教わったことがある。誰にかは出てこない。




 儀典長と入れ替わりに、マティアスが紙を持って入ってきた。


「殿下。この紙は、どちらへ回しましょう」

「何の紙だ」


 マティアスが一度目を上げた。中身を聞かれたのは初めてのはずだ。


「街道の通行手形の伺いでございます。ヴァレンティ公爵家、家人一名。北方街道」

「いつ発つ」

「十日でございます」

「明後日か」

「明後日でございます」

「宰相府が押すものだろう」

「宰相閣下の印章が、また見当たらぬそうでございます」

「では誰が押す」

「……存じません」


 紙を机の右の端へ置かせた。置いた場所に、朝の日はもう当たっていなかった。


「マティアス」

「ここに」

「四月一日の綴りを持ってこい。宮内府の分だ」

「日にちが」

「四月一日だ」


 マティアスの喉が動いた。この一月、私がこの男に日を言ったのは初めてだった。


 半刻で綴りが来た。日が分かれば紙は出てくる。昨日まで一枚も出てこなかったのは、私が日を持っていなかったからだ。


 夜会の招きの控えが十七枚。席次の伺いが一枚。式次第が一枚。


 どの宛名の下にも決裁の判がある。私の判だ。


「この名は、誰が挙げた」

「書役が写しましてございます」

「写す前は」

「回ってまいりました紙に、そう書いてございました」

「どこから回ってきた」

「その紙は綴られておりません」

「なぜだ」

「決裁を要する事案ではございませんので」


 判は十七ある。名は一つもない。押した跡だけが私のもので、書いた手は誰のものでもない。


「一月の綴りを出せ」

「日にちが分かりませんと」

「もういい。戻せ」




 紙が日で綴じてあるなら、日は紙の外から取るしかない。


「マティアス」

「は」

「ザントベルク家へ使いを出せ。宮内府の封を、届いた分だけ全部持ってこさせろ」

「封を、でございますか」

「招きの紙は先方にある。日はそこに書いてある」


 使いは昼前に戻った。


 男爵家は一通も捨てていなかった。箱に入れて、届いた順に重ねてある。宮内府の封が九つ。九つとも、封を切った縁が同じ角度で裂けている。同じ者が同じ手つきで開けたということだ。


 いちばん下の封に、一月十四日とあった。


 九つとも字が揃っている。宮内府の書役の字だ。招かれた側はこの字を九度受け取って、九度とも家の格が上がったのだと話していた。


「一月十四日の綴りを出せ」

「日にちが」

「一月十四日だ」


 今度は、マティアスは聞き返さなかった。


 その晩の席次の伺いが出てきた。壇の下、殿下の隣、と刷った欄がある。


 欄には二重線が一本引いてある。消してはいない。この城の紙は消さない。線の下に元の家名が残っていて、その脇にザントベルクと書き足してあった。


 書き足した字の下に、日付と署名がある。宰相府の書役の名だ。


「この書役を呼べ」

「宰相府の者でございます」

「呼べ」


 書役は半刻で来た。若い。字は自分のものだと認めた。


「誰に言われて直した」

「回ってまいりました紙に、そう書いてございました」

「その紙は」

「直しの紙は綴っておりません」

「なぜだ」

「決裁を要する事案ではございませんので」


 今日二度目だ。


 私の隣に誰を座らせるかを、私は決めていない。決めた者は、名を残さずに済む道を通ってきている。


 ネリーを次の夜会に招く紙は、まだ日の欄が空いたままだ。埋め方が分かったところで、私はあの娘を隣に置く理由を一つも持っていない。理由になるものなら、あの箱の九つの封の中にあった。




 綴りを戻させた。戻す先も日ごとに分かれている。


 机の端に、儀典長の紙が残っている。日の欄に四月一日と入った。日付が入っても、あの晩の私の声は出てこない。


 紙を一枚取り、四月一日、と書いた。書けたのはそこまでだった。


 場所は書ける。大広間だ。その先に何を書けばいいのかが分からない。自分が何をしたかは覚えている。何が起きたかを、私は見ていない。


「マティアス」

「は」

「あの晩、私が言ったことを言え」

「……」

「広間の外にいたのだろう」

「入り口の脇におりました」

「聞こえたはずだ」

「……」

「言え」


 マティアスは紙を胸から下ろし、両手を体の脇に付けた。


「記録係の分際で、私の隣に立つつもりだったのか」


 この男の声で聞くと、私の言葉に聞こえなかった。


「続けろ」

「お前の家格に、否はない。だが、記録に残らない功は王家の隣に立つ根拠にはならない」

「まだあるか」

「王家は、帳面を捲る女を妃に迎えない」

「それだけか」

「今日をもって、婚約を解消する。ヴァレンティ嬢とは、もう何の関わりもない」


 一字も違っていない。私が言ったのだから違っていないのが当たり前だ。


 当たり前のはずのものを、私は今、他人の声で初めて最後まで聞いた。


「あの女は、何か言ったか」

「……」

「言え」

「式部官が何か、とお尋ねになりました」

「あの女は」

「ございません、とだけ」

「他には」

「ございません」


 言い返されなかった晩を、私は十年ぶん持っている。今日まで一度も数えたことがない。


「帳面を捲る女」

「は」

「私は、そういう言い方をするか」

「……」

「答えろ」

「殿下は、物の言い方をよくお覚えになります」

「覚える。誰から覚えた」

「……」

「マティアス」

「……存じております」


 この男が存じませんと言わなかったのは、この一月で初めてだった。


「言え」

「昨年、財務卿が同じ言い方をなさいました。この部屋でございます」

「侯爵が、あの女をそう言ったのか」

「侯爵様は、ご自分ではそうは仰いません」

「どう言った」

「城の者がそう申しております、と」

「城の者」

「帳面を捲る女を妃には、と城の者が申しております。侯爵様は、そう仰いました」

「私は何と答えた」

「何も仰いませんでした」

「一度もか」

「一度も」

「いつのことだ」

「……秋の終わりごろかと存じます。日はお答えできません」

「なぜだ」

「私が廊下で伺ったことは、どこにも書きませんので」


 昨年、この部屋で、誰かが私の前に言葉を置いた。置かれた日を引く先が、どこにもない。


 置いた者は、それを知っていて置いたことになる。


「他にもあるか」

「……」

「あるなら言え」

「紙は紙だ、と殿下は仰います」

「それも侯爵か」

「あの晩、広間で。侯爵様がお先に仰いました」

「他は」

「国は急いでおる、と。財務卿が宰相閣下に仰ったものを、書役が笑い話にしております」

「もういい」


 自分で作った言い方を一つ探した。出てこなかった。


 この十年、私は断言してきた。断言は迷いを見せない。迷いを見せない者の言葉は、どれも誰かの口を通ってから私の口へ来ていた。


「マティアス」


 マティアスの踵が揃った。


「私は、あの言葉を信じていたか」

「……」

「言え」

「殿下は、お信じになる必要がございませんでした」

「なぜだ」

「あの方が北棟で何をしておられるかを、殿下は一度もお尋ねになりませんでしたので」


 椅子の背に背骨が当たった。当たってから、自分が寄りかかったことに気づいた。


 侯爵は、私の中へ何かを押し込んだのではない。空いている場所へ置いただけだ。


 その場所を十年かけて空けたのは、私の方だ。


 窓へ寄った。中庭を挟んだ向こうが北棟になる。三階の窓は一つきりで、北を向いている。日の当たらない側だ。


 階段の下に人が立っていた。包みを両手で抱えている。壁が肩に当たるたび、体を斜めに入れ替えて上がっていった。


 昨日は私が同じ段を上がった。十年で一度だ。運ばれているものは、運ばれているものだった。誰が運んでいたのかを、私は昨日まで見たことがない。


 今日は行かない。行って開けさせたところで、私が返せる物は一つもない。




 昼を過ぎて、財務卿が来た。この男は取次ぎを待たない。


「殿下。宰相府が街道の手形で難儀しておられるとか」

「早いな」

「関所の実入りは財務府へ参ります。手形の話は、金の話でございます」


 侯爵は椅子の背に手をかけ、引かずにそのまま立った。私が言い終える前に頷いた。


「殿下。差し出がましいことを一つ」

「言え」

「ヴァレンティ家の手形でございます。判が下りませんと、あの家は北へ発てません」

「知っている」

「宰相府は押せずにおります。押せる印章がございませんので」

「それで」

「殿下がお決めになれば、下ります」

「決めろと言うのか」

「わたしが決めることではございません」


 ——待て。


 それは、私が言ったことか。


「殿下。お決めになるついでに、一つお求めになってはいかがでしょう」

「何をだ」

「あの部屋の帳面でございます。宰相閣下は、ヴァレンティ家にあるとお考えのようで」

「手形と引き換えにか」

「そうは申しておりません」

「今そう聞こえた」

「殿下がそうお聞きになったのでしたら、殿下のお考えでございましょう」


 同じ形だ。


 この男は私の前に問いを一つ置く。答えを持たない場所へ置く。私はそれを拾って、自分の口から出す。出したものは、私が決めたことになる。


 四月一日の広間で組み立てられたものと、部品が一つも違わない。


「侯爵」

「は」

「あの帳面には、何が書いてある」

「紙でございます。ただの紙です」

「では、なぜ片づける」

「城の物が城の外にございます。それだけのことでございます」

「ただの紙が、城の外にあると困るのか」


 侯爵の頷きが、一度遅れた。


 この男は人の話の途中で頷く。話し終える前に頷く男が、私の問いの後で頷いた。


「殿下。あの帳面を、ご覧になったことは」


 この男が私に何かを尋ねたのは、初めてだった。


「ない」

「さようで」

「侯爵」

「は」

「昨年の秋、この部屋でお前は私に何を言った」

「さて。この部屋へは年に幾度も上がっております」

「城の者がそう申しております、と言ったな」

「城の者は、いつでも何かを申しております」

「誰だ」

「城の者でございます」


 名を出さない。出さないから、引く先がない。


 侯爵は窓の方へ首を回した。日の高さを確かめる顔をしてから、また私へ戻した。戻すまでの間が、昨日より長い。


 あの部屋の何かが、この男には都合が悪いらしい。何が悪いのかは分からない。分かるための紙を、私は一枚も持っていない。


「侯爵」

「は」

「手形の判は、今日押す」

「賢明かと」

「帳面のことは言わん」

「……」

「下がれ」


 侯爵は礼をした。形だけは完璧だった。


「殿下のお心のままに。わたしは、何も申しておりません」


 その一言を、私はどこかで聞いている。


 四月一日だ。同じ言葉を聞いた後で口を開いたのは、私だった。


 扉は開いたままになった。閉めに来たのはマティアスだ。


 私は選ばされていた。


 選ばなかったのは、私だ。


 十年、あの部屋の階段を上がったことがない。上がっていれば、置かれた言葉の入る場所は残っていなかった。侯爵は空いているところを探して置いただけで、空けたのは私の十年だ。


 騙されていた、と言ってしまえば楽になる。楽になるということは、そこが逃げ道だということだ。


 壇は二段だけ高い。あの二段の上で、私は正面を向いていた。隣は見なかった。見なかったから、侯爵の問いに答えるのに何も邪魔がなかった。


 邪魔になるものを、私は十年かけて一つも作らなかった。




 印章を出させ、手形の伺いに押した。今日で二度目になる。


 印章は思っていたより重い。十年、これを持ち上げていたのは私ではなかった。


「これで発てるか」

「関所が受けるかどうかは、関所が決めます」

「宰相府へ回せ。私が押したと言え」

「かしこまりました」


 マティアスが取り上げる前に、宛名の欄をもう一度見た。


 ヴァレンティ公爵家 家人一名。


「マティアス。この、家人一名というのは」

「そう書いてございます」

「名は」

「手形に名は要りません。人の数だけで足ります」


 名を——


 言いかけて、口を閉じた。


 調べさせれば出るのかもしれない。出たところで、私にその名を持つ資格がない。四月一日に、私が皆の前でそう決めた。


 手形の紙は薄手だった。裏へ字が抜けている。急ぎの用にだけ使う紙だ。急いでいるのは、待たされている側になる。


 紙は明後日までに関所へ着く。着かなければ、家人一名は北へ発てない。それだけを今日の私はやった。




 日が傾いてから、儀典長がまた上がってきた。手には朝と同じ紙がある。


「殿下。日の欄は頂戴いたしました。あと一つでございます」

「まだあるのか」

「ご婚約が成立した日でございます。解消の頁は、成立の頁と対で綴じますので」

「十年前だ」

「年は残っております。日が」

「十年前の綴りを引け」

「日にちが分かりませんと」

「また、それか」

「……は」

「儀典長。以前は、どうしていた」

「北棟へ伺いました。扉の前で日をお尋ねすれば、その場で出てまいります」

「中へは」

「入りません。決裁を要する事案ではございませんので」


 その言い方を、私は今日三度聞いた。


 尋ねる者は扉の前で答えを受け取って帰る。受け取った答えは誰も書き留めない。書き留めなくてよかったのは、扉の内側に書いている者がいたからだ。


 儀典長は綴りを机へ置き、綴じ糸を通したまま結ばずにいた。


「結べ」

「結びますと、日の入らぬ頁ごと綴じることになります」

「解けばいい」

「解いた跡が残ります」

「では、どうする」

「日が入るのを待ちます」

「入らなかったら」

「待ちます」


 待てば出ると、この男は思っている。待って出るものなら、この一月のうちに出ていた。


 二重線を引いても、引いた跡ごと残る。この城の紙は間違いを消せない。その代わり、書かれなかったことは何も残さない。


「日が入りますまで、こちらへ置かせていただきます」


 儀典長は綴りを机の端へ寄せて下がった。廊下へ出る足音が、扉の外で一度止まってから遠ざかった。


 私は十年、この城で一人の女を隣に立たせていた。その十年が何日だったのかを、書ける者はもうこの城にいない。


 糸の端が二本、机の縁から垂れたままになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。