第14話: 私は選ばされていた
「殿下。日付を一つ、頂戴いたしたく存じます」
「何の日付だ」
「殿下がご婚約を解消なさった日でございます」
儀典長は紙を胸の高さに持ったまま動かない。マティアスと同じ持ち方だ。この城の者は、答えを持たない相手の前ではこうして立つ。
鐘は四つ鳴り終わっている。窓の下で、庭師が砂利を掻く音がしていた。
「書記官が書いたはずだ」
「書きましてございます。日の欄だけが空でございます」
「なぜ空だ」
「殿下が、好きに書けと仰せになりましたので」
「なぜ今になって日が要る」
「解消の頁が閉じられませんと、その年の綴りが一冊ぶん閉じられません」
「一冊」
「儀典の綴りは年ごとでございます。今年の分が、まるごと開いたままでございます」
覚えている。あの書記官は羽根ペンを握り直すのに二度失敗した。日付と場所を問われて、私は知るかと答えた。
その一言が、この紙の空欄になっている。
「では、日を言え」
「殿下から伺うために参りました」
「私にか」
「あの晩、壇の上においでになったのは殿下でございます」
顎を上げた。上げてから、それが顔に出る角度だと気づいて戻した。
何月の何日だったか。
叙勲の話の前だった。改修の音が響き始める週の話をした。杯が鳴って、拍手が起きて、人垣が崩れた。順番は並ぶ。日が出てこない。
「儀典長」
「は」
「その紙は置いていけ。追って伝える」
「畏れながら、日は出ております」
儀典長は脇に抱えていた綴りを机へ置いた。表紙に近衛の紋がある。
「宮内府が式次第の控えを直しますのに、近衛から借りてまいりました」
「近衛の日誌か」
「あの晩、広間に誰が立っていたかを突き合わせております」
開かれた頁に、細い字が並んでいた。
四月一日。持ち場、大広間。立哨、アーレンス。
その右に、もう一つ欄がある。異変の有無、と刷ってある。
無し。
一字だけ入っていた。
「四月一日か」
「さようでございます」
「これは、誰が書いた」
「立哨に立った者かと」
「無しと書いてある」
「近衛は剣を抜いた者があったかを書きます。それ以外は書きません」
私が十年の婚約を切った晩は、この城では一字で足りていた。
印章を出させ、日の欄へ自分で押した。判は右へ傾いた。
傾いた判を直す手立てはない。この城の紙は、間違えたところを消さずに残す。誰かにそう教わったことがある。誰にかは出てこない。
儀典長と入れ替わりに、マティアスが紙を持って入ってきた。
「殿下。この紙は、どちらへ回しましょう」
「何の紙だ」
マティアスが一度目を上げた。中身を聞かれたのは初めてのはずだ。
「街道の通行手形の伺いでございます。ヴァレンティ公爵家、家人一名。北方街道」
「いつ発つ」
「十日でございます」
「明後日か」
「明後日でございます」
「宰相府が押すものだろう」
「宰相閣下の印章が、また見当たらぬそうでございます」
「では誰が押す」
「……存じません」
紙を机の右の端へ置かせた。置いた場所に、朝の日はもう当たっていなかった。
「マティアス」
「ここに」
「四月一日の綴りを持ってこい。宮内府の分だ」
「日にちが」
「四月一日だ」
マティアスの喉が動いた。この一月、私がこの男に日を言ったのは初めてだった。
半刻で綴りが来た。日が分かれば紙は出てくる。昨日まで一枚も出てこなかったのは、私が日を持っていなかったからだ。
夜会の招きの控えが十七枚。席次の伺いが一枚。式次第が一枚。
どの宛名の下にも決裁の判がある。私の判だ。
「この名は、誰が挙げた」
「書役が写しましてございます」
「写す前は」
「回ってまいりました紙に、そう書いてございました」
「どこから回ってきた」
「その紙は綴られておりません」
「なぜだ」
「決裁を要する事案ではございませんので」
判は十七ある。名は一つもない。押した跡だけが私のもので、書いた手は誰のものでもない。
「一月の綴りを出せ」
「日にちが分かりませんと」
「もういい。戻せ」
紙が日で綴じてあるなら、日は紙の外から取るしかない。
「マティアス」
「は」
「ザントベルク家へ使いを出せ。宮内府の封を、届いた分だけ全部持ってこさせろ」
「封を、でございますか」
「招きの紙は先方にある。日はそこに書いてある」
使いは昼前に戻った。
男爵家は一通も捨てていなかった。箱に入れて、届いた順に重ねてある。宮内府の封が九つ。九つとも、封を切った縁が同じ角度で裂けている。同じ者が同じ手つきで開けたということだ。
いちばん下の封に、一月十四日とあった。
九つとも字が揃っている。宮内府の書役の字だ。招かれた側はこの字を九度受け取って、九度とも家の格が上がったのだと話していた。
「一月十四日の綴りを出せ」
「日にちが」
「一月十四日だ」
今度は、マティアスは聞き返さなかった。
その晩の席次の伺いが出てきた。壇の下、殿下の隣、と刷った欄がある。
欄には二重線が一本引いてある。消してはいない。この城の紙は消さない。線の下に元の家名が残っていて、その脇にザントベルクと書き足してあった。
書き足した字の下に、日付と署名がある。宰相府の書役の名だ。
「この書役を呼べ」
「宰相府の者でございます」
「呼べ」
書役は半刻で来た。若い。字は自分のものだと認めた。
「誰に言われて直した」
「回ってまいりました紙に、そう書いてございました」
「その紙は」
「直しの紙は綴っておりません」
「なぜだ」
「決裁を要する事案ではございませんので」
今日二度目だ。
私の隣に誰を座らせるかを、私は決めていない。決めた者は、名を残さずに済む道を通ってきている。
ネリーを次の夜会に招く紙は、まだ日の欄が空いたままだ。埋め方が分かったところで、私はあの娘を隣に置く理由を一つも持っていない。理由になるものなら、あの箱の九つの封の中にあった。
綴りを戻させた。戻す先も日ごとに分かれている。
机の端に、儀典長の紙が残っている。日の欄に四月一日と入った。日付が入っても、あの晩の私の声は出てこない。
紙を一枚取り、四月一日、と書いた。書けたのはそこまでだった。
場所は書ける。大広間だ。その先に何を書けばいいのかが分からない。自分が何をしたかは覚えている。何が起きたかを、私は見ていない。
「マティアス」
「は」
「あの晩、私が言ったことを言え」
「……」
「広間の外にいたのだろう」
「入り口の脇におりました」
「聞こえたはずだ」
「……」
「言え」
マティアスは紙を胸から下ろし、両手を体の脇に付けた。
「記録係の分際で、私の隣に立つつもりだったのか」
この男の声で聞くと、私の言葉に聞こえなかった。
「続けろ」
「お前の家格に、否はない。だが、記録に残らない功は王家の隣に立つ根拠にはならない」
「まだあるか」
「王家は、帳面を捲る女を妃に迎えない」
「それだけか」
「今日をもって、婚約を解消する。ヴァレンティ嬢とは、もう何の関わりもない」
一字も違っていない。私が言ったのだから違っていないのが当たり前だ。
当たり前のはずのものを、私は今、他人の声で初めて最後まで聞いた。
「あの女は、何か言ったか」
「……」
「言え」
「式部官が何か、とお尋ねになりました」
「あの女は」
「ございません、とだけ」
「他には」
「ございません」
言い返されなかった晩を、私は十年ぶん持っている。今日まで一度も数えたことがない。
「帳面を捲る女」
「は」
「私は、そういう言い方をするか」
「……」
「答えろ」
「殿下は、物の言い方をよくお覚えになります」
「覚える。誰から覚えた」
「……」
「マティアス」
「……存じております」
この男が存じませんと言わなかったのは、この一月で初めてだった。
「言え」
「昨年、財務卿が同じ言い方をなさいました。この部屋でございます」
「侯爵が、あの女をそう言ったのか」
「侯爵様は、ご自分ではそうは仰いません」
「どう言った」
「城の者がそう申しております、と」
「城の者」
「帳面を捲る女を妃には、と城の者が申しております。侯爵様は、そう仰いました」
「私は何と答えた」
「何も仰いませんでした」
「一度もか」
「一度も」
「いつのことだ」
「……秋の終わりごろかと存じます。日はお答えできません」
「なぜだ」
「私が廊下で伺ったことは、どこにも書きませんので」
昨年、この部屋で、誰かが私の前に言葉を置いた。置かれた日を引く先が、どこにもない。
置いた者は、それを知っていて置いたことになる。
「他にもあるか」
「……」
「あるなら言え」
「紙は紙だ、と殿下は仰います」
「それも侯爵か」
「あの晩、広間で。侯爵様がお先に仰いました」
「他は」
「国は急いでおる、と。財務卿が宰相閣下に仰ったものを、書役が笑い話にしております」
「もういい」
自分で作った言い方を一つ探した。出てこなかった。
この十年、私は断言してきた。断言は迷いを見せない。迷いを見せない者の言葉は、どれも誰かの口を通ってから私の口へ来ていた。
「マティアス」
マティアスの踵が揃った。
「私は、あの言葉を信じていたか」
「……」
「言え」
「殿下は、お信じになる必要がございませんでした」
「なぜだ」
「あの方が北棟で何をしておられるかを、殿下は一度もお尋ねになりませんでしたので」
椅子の背に背骨が当たった。当たってから、自分が寄りかかったことに気づいた。
侯爵は、私の中へ何かを押し込んだのではない。空いている場所へ置いただけだ。
その場所を十年かけて空けたのは、私の方だ。
窓へ寄った。中庭を挟んだ向こうが北棟になる。三階の窓は一つきりで、北を向いている。日の当たらない側だ。
階段の下に人が立っていた。包みを両手で抱えている。壁が肩に当たるたび、体を斜めに入れ替えて上がっていった。
昨日は私が同じ段を上がった。十年で一度だ。運ばれているものは、運ばれているものだった。誰が運んでいたのかを、私は昨日まで見たことがない。
今日は行かない。行って開けさせたところで、私が返せる物は一つもない。
昼を過ぎて、財務卿が来た。この男は取次ぎを待たない。
「殿下。宰相府が街道の手形で難儀しておられるとか」
「早いな」
「関所の実入りは財務府へ参ります。手形の話は、金の話でございます」
侯爵は椅子の背に手をかけ、引かずにそのまま立った。私が言い終える前に頷いた。
「殿下。差し出がましいことを一つ」
「言え」
「ヴァレンティ家の手形でございます。判が下りませんと、あの家は北へ発てません」
「知っている」
「宰相府は押せずにおります。押せる印章がございませんので」
「それで」
「殿下がお決めになれば、下ります」
「決めろと言うのか」
「わたしが決めることではございません」
——待て。
それは、私が言ったことか。
「殿下。お決めになるついでに、一つお求めになってはいかがでしょう」
「何をだ」
「あの部屋の帳面でございます。宰相閣下は、ヴァレンティ家にあるとお考えのようで」
「手形と引き換えにか」
「そうは申しておりません」
「今そう聞こえた」
「殿下がそうお聞きになったのでしたら、殿下のお考えでございましょう」
同じ形だ。
この男は私の前に問いを一つ置く。答えを持たない場所へ置く。私はそれを拾って、自分の口から出す。出したものは、私が決めたことになる。
四月一日の広間で組み立てられたものと、部品が一つも違わない。
「侯爵」
「は」
「あの帳面には、何が書いてある」
「紙でございます。ただの紙です」
「では、なぜ片づける」
「城の物が城の外にございます。それだけのことでございます」
「ただの紙が、城の外にあると困るのか」
侯爵の頷きが、一度遅れた。
この男は人の話の途中で頷く。話し終える前に頷く男が、私の問いの後で頷いた。
「殿下。あの帳面を、ご覧になったことは」
この男が私に何かを尋ねたのは、初めてだった。
「ない」
「さようで」
「侯爵」
「は」
「昨年の秋、この部屋でお前は私に何を言った」
「さて。この部屋へは年に幾度も上がっております」
「城の者がそう申しております、と言ったな」
「城の者は、いつでも何かを申しております」
「誰だ」
「城の者でございます」
名を出さない。出さないから、引く先がない。
侯爵は窓の方へ首を回した。日の高さを確かめる顔をしてから、また私へ戻した。戻すまでの間が、昨日より長い。
あの部屋の何かが、この男には都合が悪いらしい。何が悪いのかは分からない。分かるための紙を、私は一枚も持っていない。
「侯爵」
「は」
「手形の判は、今日押す」
「賢明かと」
「帳面のことは言わん」
「……」
「下がれ」
侯爵は礼をした。形だけは完璧だった。
「殿下のお心のままに。わたしは、何も申しておりません」
その一言を、私はどこかで聞いている。
四月一日だ。同じ言葉を聞いた後で口を開いたのは、私だった。
扉は開いたままになった。閉めに来たのはマティアスだ。
私は選ばされていた。
選ばなかったのは、私だ。
十年、あの部屋の階段を上がったことがない。上がっていれば、置かれた言葉の入る場所は残っていなかった。侯爵は空いているところを探して置いただけで、空けたのは私の十年だ。
騙されていた、と言ってしまえば楽になる。楽になるということは、そこが逃げ道だということだ。
壇は二段だけ高い。あの二段の上で、私は正面を向いていた。隣は見なかった。見なかったから、侯爵の問いに答えるのに何も邪魔がなかった。
邪魔になるものを、私は十年かけて一つも作らなかった。
印章を出させ、手形の伺いに押した。今日で二度目になる。
印章は思っていたより重い。十年、これを持ち上げていたのは私ではなかった。
「これで発てるか」
「関所が受けるかどうかは、関所が決めます」
「宰相府へ回せ。私が押したと言え」
「かしこまりました」
マティアスが取り上げる前に、宛名の欄をもう一度見た。
ヴァレンティ公爵家 家人一名。
「マティアス。この、家人一名というのは」
「そう書いてございます」
「名は」
「手形に名は要りません。人の数だけで足ります」
名を——
言いかけて、口を閉じた。
調べさせれば出るのかもしれない。出たところで、私にその名を持つ資格がない。四月一日に、私が皆の前でそう決めた。
手形の紙は薄手だった。裏へ字が抜けている。急ぎの用にだけ使う紙だ。急いでいるのは、待たされている側になる。
紙は明後日までに関所へ着く。着かなければ、家人一名は北へ発てない。それだけを今日の私はやった。
日が傾いてから、儀典長がまた上がってきた。手には朝と同じ紙がある。
「殿下。日の欄は頂戴いたしました。あと一つでございます」
「まだあるのか」
「ご婚約が成立した日でございます。解消の頁は、成立の頁と対で綴じますので」
「十年前だ」
「年は残っております。日が」
「十年前の綴りを引け」
「日にちが分かりませんと」
「また、それか」
「……は」
「儀典長。以前は、どうしていた」
「北棟へ伺いました。扉の前で日をお尋ねすれば、その場で出てまいります」
「中へは」
「入りません。決裁を要する事案ではございませんので」
その言い方を、私は今日三度聞いた。
尋ねる者は扉の前で答えを受け取って帰る。受け取った答えは誰も書き留めない。書き留めなくてよかったのは、扉の内側に書いている者がいたからだ。
儀典長は綴りを机へ置き、綴じ糸を通したまま結ばずにいた。
「結べ」
「結びますと、日の入らぬ頁ごと綴じることになります」
「解けばいい」
「解いた跡が残ります」
「では、どうする」
「日が入るのを待ちます」
「入らなかったら」
「待ちます」
待てば出ると、この男は思っている。待って出るものなら、この一月のうちに出ていた。
二重線を引いても、引いた跡ごと残る。この城の紙は間違いを消せない。その代わり、書かれなかったことは何も残さない。
「日が入りますまで、こちらへ置かせていただきます」
儀典長は綴りを机の端へ寄せて下がった。廊下へ出る足音が、扉の外で一度止まってから遠ざかった。
私は十年、この城で一人の女を隣に立たせていた。その十年が何日だったのかを、書ける者はもうこの城にいない。
糸の端が二本、机の縁から垂れたままになった。




