第15話: 開く前に
「今日、あれを取りに行く」
「あの部屋の帳面でございますか」
「そうだ」
「何と書いて、お出しになります」
それが決まらないので、朝からこの紙が白いままだ。
窓寄りの床の山は、昨日から一枚も減っていない。減らないものは、そのうち家具の顔をする。
返せと書くには、あれが城の物だと書いた紙が一枚は要る。宮内府にも宰相府にもない。あの部屋は営繕の割り当てにさえ入っていなかった。
十年のあいだ品として数えた者がいないものを、十年目になって城の物だと言い出す紙はどこにもない。
「借用では、いかがでございましょう」
「借りた物は返す」
「はい」
「返す先はどこになる」
「……あの部屋かと」
「あの部屋に、預かる者がいない」
ヨナスは黙った。この男は答えを持たないときに相槌を打たない。
城には、持ち主の分からない物を扱う書式が一つだけある。あの部屋の書式だ。
日付。時刻。場所。拾った者の名。
「遺失物の書式で書け」
「……帳面を、でございますか」
「帳面をだ」
「拾った者の名の欄は」
「私の名を入れろ」
「閣下のお名前が、残ります」
「残す」
誰の失点であっても記録には残す。三十年、私はそう言って人に書かせてきた。自分の名で書かせるのは初めてになる。
紙は薄手をやめさせて、厚手を出させた。薄手は急ぎの用の紙だ。裏へ字が抜ける。この一枚は抜けては困る。
「誰に持たせます」
「宮内府は駄目だ。あの部屋を営繕の割り当てにも入れなかった府だぞ」
「近衛では」
「近衛が公爵家の門を叩けば、取り立てになる」
「では」
「宰相府の書役だ。名を名乗れる者を一人」
「書役は、字の達者な者から回しておりますが」
「字はいい。門で自分の名を言える者にしろ」
屋敷までは馬で一刻、荷を積んで戻れば二刻かかる。
その二刻のあいだ、あの十年ぶんはどの府にも属さない。城の物でもなく、公爵家の物でもない。手にした者の物になる。
「もし、道で失くしましたら」
「私の名を書いた紙だけが残る」
「……それだけ、でございますか」
「それだけだ」
書き上げた紙に判が要る。抽斗の匣を引いた。
蓋が下りていた。
「ヨナス。匣が空だ」
「お開けになりましたか」
「蓋が下りている」
「三日前に、閣下ご自身が下ろされました」
蓋を上げた。印章は中にあった。
三十年、この匣の蓋は開けたままにしてきた。三日前に、初めて下ろした。下ろした匣を、私は空だと読んだ。
書いていない紙を無いことにするのと、同じ手つきだ。
「本日は、まだ一度目でございます」
「数えるな」
「帳面がございますので」
判を押した。押した跡の縁が、右下だけ薄い。手の力が抜けていた証拠になる。
「街道の手形は」
「殿下の判が昨夜のうちに回ってまいりました。名を添えて今朝、関所へ出しております」
「明日だな」
「明日でございます。ヴァレンティ公爵家、家人一名」
左の束から一枚減った。減った紙は右へ移らず、そのまま門の外へ出ていった。三十年、宰相府の紙に宰相府以外の判が押されて出たことはない。
紙は二枚ある。同じ刻に門を出れば、二枚は一つの話になる。
「使いは、手形が門を出てから半刻置いて出せ」
「同じ刻ではいけませんか。人手が二度になります」
「同じ刻に着けば、引き換えに見える」
「……引き換えに、見えますでしょうか」
「先方がそう読めば、そういう話になる」
半刻と決めるまでに、指が机を二度叩いた。置いたところで読む者は読む。
儀典長が上がってきたのは、使いが門を出てすぐだった。
「宰相閣下。日が一つ出ましてございます」
「どの日だ」
「殿下がご婚約を解消なさった日でございます。四月一日」
「どこから出た」
「近衛の日誌でございます」
「近衛か」
「あの晩の立哨の欄でございます。異変の有無、無しとだけ」
「その日誌は、今どこにある」
「宮内府でございます。近衛には戻っておりません」
三十八日のあいだ城のどこからも出てこなかった日付が、剣を抜いた者があったかどうかを書く欄の隣にあった。
書いたのは立哨に立った者だ。あの欄は、もともと一字ぶんしか刷ってない。
「日が一つ出れば、綴りは出るか」
「出ます。四月一日の綴りは、今朝もう三つ出てまいりました」
「叙勲の順は」
「前の年の日が出ませんので、まだ」
「一冊、閉じられるな」
「解消の頁は、成立の頁と対で綴じますので」
「成立は十年前だ」
「年は残っております。日が」
儀典長は残りを抱えて出ていった。日の入った紙は、そのうちの一枚だけになった。
昼を過ぎて財務卿が来た。
「宰相閣下。使いをお出しになったとか」
「早いな」
「今朝は二巡いたしました」
この男は椅子の前まで来て座らない。三度、この部屋で同じ立ち方を見ている。
口の両端は上がっている。目はその形に付き合っていない。
「明日、財務府の使いが北の街道へ参ります。関所の実入りの検分でございます。ついでがございましたら」
「ついで」
「重い物でございましょう。十年ぶんでございますから」
「目方をご存じか」
「存じません。紙は宰相府の受け持ちでございます」
「その紙には、何とお書きになりました」
「帳面、と書いた」
「帳面。城には帳面が幾つもございますな」
「幾つある」
「さて。数えたことはございません」
数えていない物は、取り違えても誰にも分からない。
「城へ入った物は、北棟の扉の前へ置く決まりでございましたな」
「決まりだ」
「あの前は、誰でも通ります」
「近衛が立っている」
「立哨の紙は、いつまで出ておりますか」
この男は決裁の要る言い方を一度もしない。三十年、私が判を押した紙にこの男の名が出てきたことがない。
「明日、北の街道へ発つ家がございますな」
「手形は今朝出した」
「存じております。関所の実入りは財務府へ参りますので」
「それだけか」
「それだけでございます」
「財務卿。焼く話は、まだ続いているのか」
「前例の話でございました」
「その前例を、明日この机の上で開く」
「では、何が書いてあるとお思いで」
「分からん」
「分からぬものを、閣下は決裁なさいませんな」
「読むのは決裁ではない」
「読んだ後には、決裁がございます」
「明日は、どなたと開かれます」
「言う必要があるか」
「宰相府のことは、朝のうちに一巡いたしますので」
「では、明日の朝に聞け」
財務卿は、私が言い終える前に頷かなかった。
この男は人の話の途中で頷く。今日は一度も頷かずに出ていった。
日が傾いてから、ヨナスが階段の下から上がってきた。
「閣下。荷が着きましてございます」
「どこへ入れた」
「決まりどおり、北棟の扉の前へ」
私は書きかけの紙を伏せて立った。
北棟の階段を上がるのは三度目になる。狭さは前の二度と変わらない。ただ、今日は先に上がった者の足音がまだ壁に残っていた。
踊り場の灯は一つ切れたままだ。石は日が落ちると冷える。踏み板は上から四枚目だけが鳴った。
扉の脇に包みが九つある。扉が開いてから三日で九つだ。番号の札が並んだ棚に、番号のない物を置く場所はまだない。
九つの手前に、布の包みが一つ置いてあった。
「副団長。まだ立っておられるか」
「持ち場を解く紙が参りません」
「扉は開いた」
「開きましたが、紙の方は開いたことを知りませんので」
この男は十三日、扉から同じ幅だけ離れて立っている。歩数にして三歩ぶんだ。
管理官が部屋の中から出てきた。手に控えを持っている。
「閣下。先ほど、財務府の書役が受け取りに参りました」
「渡したか」
「渡しておりません」
「なぜだ」
「受け取りの紙に、名がございませんでした」
「何が書いてあった」
「日付と、場所だけでございます」
「その書役は、何と言った」
「宰相府から回っていると申されました」
「回っていない」
「はい。宰相府の紙は、閣下がお持ちでございますので」
「引き下がったか」
「三度、同じことを申されました。三度とも、名の欄は空でございました」
「規則を、誰に聞いた」
「三日前に、閣下と番号を読みました」
「あれは番号しか書いていない」
「名の書いていない紙は、あの部屋では何にもならないのだと存じました」
この男は着任してから一度も部屋の中を見ていなかった。三日で番号の読み方を覚えている。
私の紙には名がある。私の名だ。
「これを持ってきたのは」
「使いと屋敷の者の、二人でございます」
「屋敷の者は何と言った」
「旦那様から、城の物を城へお返しするようにと」
「言伝は」
「ございません」
「他には」
「馬車を門で待たせたまま、荷だけ置いて帰りました」
布は一枚。結び目が二つ、同じ高さに並んでいた。
脇の九つは、括った手が九通りある。高さの揃った結び目は、この一つだけだ。
指が伸びた。結び目の手前で止めた。解くのはここではない。
「副団長」
「は」
「この包みは、いつからここにある」
「半刻でございます」
「その間、誰か手を触れたか」
「一人参りました。触れておりません」
誰が、とは聞かなかった。聞けば答えが返る。返ってきた答えを、私は今日は使えない。
十冊は片手では持てない。この階段は、片手で持てる物しか十年のあいだ上がってこなかった。
両手のいる物が降りていくのは今日が初めてになる。
「私が持つ」
「閣下」
「名を書いたのは私だ」
抱えると肘が両側の壁に触れた。踏み板の端だけを選んで降りた。
執務室へ戻り、包みを机へ下ろした。
持つ前に目方を当てるのは三十年の癖だ。北棟の階段では当たらなかった。遅れの束なら日数が出る。これは遅れではない。
肩へ来たのは日数ではなく、ただの十年ぶんだった。腕は下ろした形のまま戻らない。
これだけの目方が、この城を三十八日止めていた。持って分かるのはそこまでだ。
中の一行がどんな幅で並んでいるかは、開けなければ何も言わない。
布を解いた。綴りが十冊ある。年ごとに一冊だ。
角が揃っている。十冊とも揃っている。揃えてから包んだ手がある。
「ヨナス」
「は」
「明日の朝、管理官を呼べ」
「開かれますか」
「開く」
「灯はございます。今からでも」
「一人で開けば、私が読んだとおりのものになる」
「……かしこまりました」
「読み上げるのは管理官だ。私が繰る」
「では、わたくしは」
「数える者が要る。三人だ」
「数えるのは、わたくしでよろしいのでしょうか」
「十四年、私の失くした物を数えてきた男が他にいるか」
「……おりません」
「ヨナス」
「は」
「明日、あの家の者が北へ発つ」
「手形は今朝、関所へ出ております」
「何刻に発つ」
「……存じません」
「調べるな」
「はい」
調べれば出る。出たところで、私はその刻に何もしない。
紙を一枚取って、四行を書いた。
五月九日。鐘が四つ鳴った後。宰相府執務室。ギルバート・ハーゼル。
四行とも埋まった紙は、三十八日ぶりだった。インクが乾くまで紙は動かさなかった。
扉の前の九つのうち、三つは持ち主が名乗り出ている。三人とも今日、手ぶらで帰った。
誰の物かを引く先は、今この机の上にある。
十冊は、右へも左へも入らない。真ん中へ置いた。
三十年、私はそこに紙を置いたことがない。
灯は一つだけ残させた。紙は灯のそばに置くと反る。
布は解いてある。表紙には、まだ触れていない。




