第16話: 四千二百八十一件
「表紙に、何も書いてございません」
管理官が十冊を一冊ずつ返して、それだけを言った。
年も、題も、持ち主の名もない。革は張っていない。厚紙に布を貼っただけの表紙だ。
「では、外からは中身が分からんな」
「分かりません」
「開けるまで、誰にも分からなかったわけだ」
三十九日かかった。
私は指をひと拭きしてから表紙へ手をかけた。三十年、指のインクを気にしたことはない。今日だけは、まだ乾いていない気がした。
「読み上げてくれ。私が繰る」
「はい」
「ヨナス。数えろ」
「何を、でございましょう」
「行だ」
一枚目に、見出しが一行だけあった。
誰が、いつ、何を落としたか。
その下から頁が始まる。頁の頭に品が一行。その下に四列。
日付。時刻。場所。拾った者の名。
「一番。銀の匙一本。十年前の四月十四日。鐘が三つ鳴った後。西回廊の階段の下。拾った者、洗い場のグレーテ」
二番。三番。四番。
管理官の声は速くない。区切りの取り方が、番号を読んだときと同じだった。四日前に一度読んだだけで、この男は読み方を体に入れている。
私は繰った。紙は薄い。一件に一枚を使っているから、厚みの割に頁の数が多い。
「三十二番。片方だけの耳飾り。十年前の五月一日。鐘が五つ鳴った後。南回廊。拾った者、アーレンス」
「三十三番」
繰る手を止めた。
「戻れ」
「三十二番でございますか」
「その下だ。場所を、もう一度」
「南回廊、でございます」
南回廊は財務府と宰相府をつなぐ。あの刻に誰が通るかは決まっている。
「その日、南回廊にいた者が一人分かるわけだ」
「拾った者でございますから」
「落とした者は」
「書いてございません」
書いていない。
だが物には持ち主がいる。持ち主は、その物を落とした場所にいた。
「ヨナス」
「は」
「私の眼鏡は、この帳面のどこかにあるな」
「六十一ございます」
「六十一の日付と、六十一の場所があるということだ」
返事がない。答えるときは必ずこちらを見る男が、帳面から目を上げなかった。
私は頁を戻した。見出しの一行をもう一度見た。
誰が、いつ、何を落としたか。
十年、この城の誰もがそう読んできた。私もそう読んだ。落とし物の帳面だと読んだから、決裁の対象ですらなかった。
同じ四列を、置き方を変えて読む。
日付があり、時刻があり、場所があり、そこにいた者の名がある。
「……これは、落とし物の記録ではない」
「閣下」
「誰が、いつ、どこにいたか。それが十年ぶん並んでいる」
管理官が控えから顔を上げた。
「そのように読める、ということでございましょうか」
「そうとしか読めん」
「書いた者は、そのつもりで」
「そのつもりなら、こんな書き方はせん」
告発する気があれば、落とした者の欄を作る。名を書く欄を作る。
この帳面には、その欄がない。あるのは物を拾った者の名だけだ。誰かを指すために作られていない。
指せてしまうだけだ。
二冊目の半ばで、扉が二度叩かれた。儀典長は入ってくる前から口を開いていた。
「宰相閣下。北の使者団の席次でございますが」
「前の例の日は」
「それが、まだ」
「言え。前の使者団は何を落とした」
儀典長の口が半分開いた。
「……落とし物、でございますか」
「三十人が城へ入って、一つも落とさずに帰ったか」
「いえ。手袋を、確か」
「片方か」
「片方でございます。あのとき随分お探しになって」
管理官が三冊目を繰った。四冊目の中ほどで止まった。
「七年前の九月二十二日。鐘が六つ鳴った後。東棟の客間の前。拾った者、宮内府のリンド」
「その日だ」
「……その日でございます」
儀典長は席次の写しを三通とも机へ広げた。広げ終える前から、手は真ん中の一通の上に置かれていた。九月二十二日で辻褄の合う欄があるのは、その一通だ。
分かっていたのだ。日が入らなければ、分かっていると言えなかっただけだ。
「これが最新でございます」
「三十九日、どれが最新か分からんと言っていた紙だな」
「……手袋で、決まりましてございます」
儀典長の口の端が動いた。笑い方を忘れた顔で笑うと、こうなるらしい。
叙勲の順も出た。前の年の日付が、砕けた腕輪の一件で決まった。婚約の解消の日は四月一日で既に入っている。日が入れば、綴りは芋づるで出る。
「儀典長」
「は」
「今日、幾つ持って帰れる」
「三十一枚のうち、二十六枚は」
机の隅に置きっぱなしになっていた束が、五枚になった。
窓寄りの床の山からも、日付待ちの分が抜けていく。あの山が低くなるのを見るのは初めてだ。
目方を当てる癖で持ち上げてみた。当たらない。この束はもう、日数で数えるものから外れている。
「ヨナス。行はいくつになった」
「まだ四冊目でございます」
「見当でいい」
「見当は申し上げません」
この男は、そういう男だ。
昼を回って、十冊目の最後まで管理官の声が続いた。私の指はその間ずっと紙の上にあった。
ヨナスが帳面を閉じた。
「四千二百八十一でございます」
「もう一度」
「四千二百八十一件。指輪が二百九十六。手袋が六百九十四。封を切っていない手紙が二十三。片方だけの耳飾りが百二十」
「耳飾りだけ、片方か」
「片方でございます」
聖ミルダの日の届けだ。月の一日に落とした物を数える習わしがある。この城には、そういう習わしを律儀に守る者が幾らでもいる。
「四千二百八十一」
声に出してみた。数としては大きくない。財務府が一年で動かす紙の枚数の方が多い。
だがこれは枚数ではない。四千二百八十一の刻がある。四千二百八十一の場所がある。四千二百八十一人ではないが、名は四千二百八十一回書かれている。
十五年、財務府に監査は入っていない。あの府の中で書かれた紙は、あの府の中でしか読めない。
府の外から日付を差し出せる帳面は、この城にこの十冊しかない。
日が真上を過ぎた。廊下の音は聞こえなかった。扉が開いてから、財務卿だと分かった。
「宰相閣下。開かれたそうで」
「昨日、朝に聞けと言った」
「朝のうちに一巡いたしましたので」
この男は今日も、椅子に手も触れずに机の前へ立った。十冊は机の上に開いたままにしてある。目は動かない。首だけが半分回った。
「一枚、足りないと伺いました」
「誰からだ」
「書役でございます」
指が止まった。
一枚足りないと言った日、この男は階段の下にいた。あの番号を聞いた者は、あの階段に五人しかいなかった。宰相府の書役は一人もいない。
「どの一枚だ」
「さて」
「さて、では困る。足りないと言ったのはあなただ」
「足りないと伺った、と申し上げました」
言い直しが速い。この男の言い直しは、いつも一拍早い。
「番号の札で、抽斗が引ける」
「ほう」
「昨日まで引けなかった。番号から中身を引く先が、この机の上にある」
管理官を北棟へやった。四半刻で降りてきた。手の中に、油紙の包みが一つある。
「千八百二十四番でございます」
紐を解いた。
片方だけの手袋が出た。羊の革だ。右手。指の腹のところだけ革が伸びている。物を強く握らない手の伸び方だった。
「片方だけの手袋でございますな」
「六百九十四ある」
「では、何も分かりますまい」
「そうだな」
私は手袋を机へ置いた。甲を上にした。
「わたしのものではございません」
私は誰の物とも言っていない。
「財務卿」
「は」
「今、何と言った」
「……わたしのものではない、と」
「誰も、あなたの物だとは言っていない」
「紋がございましょう」
部屋が静まった。ヨナスの指が帳面の上で止まった。
手袋は甲を上にして置いてある。紋は見えていない。
私は手袋を裏返した。
手首の内側の折り返しに、糸が三色使ってある。侯爵家の紋だ。目の悪い私が眼鏡を下ろして、ようやく形になる大きさだった。
「見えていたか」
「……」
「あなたの立っている位置からは、革の裏しか見えん」
この男は答えなかった。答えない代わりに頷いた。私が言い終える前ではなく、言い終えた後に頷いた。
「六年前の話でございましょう」
誰も年を言っていない。
「五年目の綴りを」
管理官が五冊目を引き出した。私は綴じ目に指を入れた。
糸の結び目が二つある。一度解いて、結び直してある。
別綴の背に見たのと同じ結び方だ。癖まで同じだった。同じ手が同じ日に、二つとも解いている。
「千八百二十三番から読め」
「千八百二十三番。銀の飾り鋲一つ」
「次は」
管理官の声が止まった。控えの数字と目の前の頁の隅を、二度見比べた。
「……千八百二十四番でございます」
「あるか」
「ございます」
別綴の控えには七十二の番号がある。頁は七十一枚だった。私はそれを、一枚抜いて持ち去られたと読んだ。
抜かれていない。台帳の側に、番号の順どおりに綴じてある。
「一枚足りないのではない」
管理官が顔を上げた。
「一枚、返してある」
戻ったのは品ではなく、頁の方だ。
順序はこうだ。年の終わりに、その年で名乗り出なかった物の番号を控えへ書き写す。それから頁を抜いて、別に綴じ直す。控えの七十二はそのとき書かれた。
千八百二十四も、一度は抜かれて別綴へ移った。
それから誰かが尋ねに来た。品は渡していない。だが尋ねられた以上、名乗り出ぬ物の列からは外れる。彼女の帳面は、持ち主の決まった物と決まらない物を分けているのではない。尋ねられた物と、尋ねられない物を分けている。
だから彼女は別綴の糸を解いて頁を抜いた。台帳の糸を解いて、元の番号の位置へ戻した。二つとも結び直してある。
控えの数字は消さなかった。この帳面には、消すという手が一度も出てこない。
「読め」
「片方だけの手袋。六年前の十一月十九日。鐘が二つ鳴った後。南回廊、財務府の扉の前。拾った者、灯り係のミヒェル」
繰らずに、指で押さえた。
その下に、四列からはみ出した一行がある。字が小さい。後から足した字は、行の高さが合わないから一目で分かる。
「その下も読め」
「……五年前の二月三日。財務府の書役ヴェルナー様が、この品をお尋ねに参りました。落とされた日と場所を仰せになれませんでしたので、お返ししておりません。持ち主のお名前も伺いましたが、お答えがございませんでした」
署名がある。セラフィナ・ヴァレンティ。
「ヨナス。ヴェルナーという書役は、今も財務府にいるか」
「おります」
「知っているのか」
「昨日、名の欄を空にしたまま三度参った者でございます。顔を確かめました」
財務卿の頷きが止まらない。相槌の速さで頷く癖のある男が、誰も喋っていないところで頷いている。
「財務卿。この書役の名を、あなたは言えるか」
「……財務府の、書役でございます」
「名だ」
「名は、覚えておりません」
覚えていない。この男は十五年、人を役目でしか呼んでこなかった。
その男の名が、六年前の紙に残っている。書いたのは、この男が記録係と呼んでいた女だ。
「六年前の十一月の綴りを出せ。財務府のだ」
ヨナスが出てきて、四半刻で戻った。財務府の綴りは宰相府にも写しの届く分がある。
「十一月十六日より二十二日まで、財務卿、領地へ下向。城に在らず」
「その間に何が出た」
「十一月二十日。北の関所の普請、八百ターレル。決裁は、財務卿不在につき次席」
金の綴りには、金しか残らない。誰が出したかは残らない。不在と書いてしまえば、その一週間は誰の週でもなくなる。
その一週間の真ん中の日に、この男は南回廊の財務府の扉の前で手袋を落とした。
拾ったのは灯り係の少年だ。少年は北棟の三階へ上がって、日付と場所と自分の名を書いた。
六年、誰も読まなかった。
「焼け」
最初、誰が言ったのか分からなかった。
私が三十年この部屋で聞いてきた中で、この男が何かを命じたのは初めてだった。この男は命じない。相手が自分で決めたと思うように話す。それだけで十五年やってきた。
「焼けとは、誰にだ」
「……前例の話でございます」
「三度目だな。その言い方は」
「宰相閣下。紙でございます。ただの紙です」
管理官の羽根ペンが動いている。この男は入ってきたときからずっと控えを取っている。
財務卿がそれを見た。
「書くな」
「書きます」
管理官が顔を上げないまま答えた。
「誰の失点であっても、記録には残す」
私は言った。三十年、人にそう言って書かせてきた言葉だ。今日は自分の口から出た。
「あなたの名を、私は書かない。書くのは、あなたが今この部屋で何と言ったかだ」
財務卿は扉の方へ半歩動いた。それから止まった。止まった理由は分かる。出ていっても、この十冊は机の上にある。
「宰相閣下。あの女は」
「記録係殿、ではないのか」
「……」
「あの人は、あなたの名を一度も書いていない。四千二百八十一行のどこにも、あなたの名はない」
書いてあるのは、六年前のある日に落とし物があったということだけだ。
それを不在証明の穴として読んだのは、この男自身だった。読める者にしか読めない。読める者は、その日どこにいたかを覚えている者だけだ。
「財務府の綴りを、明日から宰相府が預かる」
「監査の決裁は、財務卿の同意が要ります」
「十五年、そう書いてあるな。書き換える」
「……閣下のご一存で」
「私の一存だ。書いて残す」
判を押した。押した跡の縁は、今日は四方とも同じ濃さで出た。
財務卿は、頷かずに出ていった。昨日と同じだ。ただ昨日と違って、扉を閉め損ねた。半分だけ動いて、そのまま残った。
部屋の音が戻るまで、しばらくかかった。
「閣下。十冊目の、最後の頁でございますが」
「まだあるのか」
「四列の下に、また字がございます」
私は十冊目を引き寄せた。
最後の頁の番号は四千二百八十一だった。
片方だけの耳飾り。四月一日。鐘が六つ鳴った後。北棟の階段の踊り場。拾った者、記載なし。
断罪の夜の、昼の分だ。彼女はあの日も、いつもどおり書いていた。
その下に、書式の外の字がある。
「読み上げてくれ」
「……閣下」
「どうした」
「これは、控えを取る側の字ではございません。読む役目が、わたくしにはございません」
管理官が控えを置いた。
一人で読めば、私が読んだとおりのものになる。三人で開くと決めたのはそのためだ。
だが、この四行を読む役は他にない。
私が読んだ。
「この帳面は、遺失物の記録です。十年分あります。全部わたくしが書きました」
声が、思ったより低く出た。
「名乗り出ていない物の頁は、別に綴じてあります。番号は消しておりません」
千八百二十四のことだ。
彼女は三十九日前に、それを書いて置いていった。読む者を宛にした四行ではない。次に来る者が困らないように、書ける手順を書いただけだ。
「棚の下段の品は、まだ持ち主のものです。処分なさらないでください」
管理官が息を吸った音が聞こえた。
「セラフィナ・ヴァレンティ」
署名は他の頁と同じ大きさだった。訂正の署名と同じ字で、同じ傾きで書いてある。
一日も欠かさず同じ書き方で十年書いた者の、四千二百八十一件目の下の四行だった。
誰も、この人に頼んでいない。
合鍵を作らせなかったのは私だ。決裁を要する事案なしと欄外に書いたのも私だ。あの部屋を、私は十年数に入れていなかった。
数に入れていなかった部屋の中で、この城の日付が全部書かれていた。
影が机の端まで伸びた頃、入り口に副団長が立っていた。手には紙が一枚だけある。
「宰相閣下。持ち場を解く紙が参りました」
「十四日だな」
「十四日でございます」
「扉の前の包みは」
「十でございます。番号を打てるようになったと、管理官から伺いました」
番号を打てば、行き先が決まる。三十九日ぶんの包みに、明日から番号が付く。
副団長は階段を降りかけて、一度だけ止まった。
「閣下。あの帳面は」
「読んだ」
「……はい」
「あなたの名も、幾つも出てきた」
この男は何も言わずに降りていった。踏み板は上から四枚目だけが鳴る。今日はそこも鳴らさなかった。
窓寄りの床の山は、今朝より低い。右の束が高くなったのは三十九日ぶりだ。
街道の手形の控えが、右の一番上にある。
北の街道。ヴァレンティ公爵家。家人一名。荷馬車一輌。出立、五月十日。
名は書いていない。手形に随行者の名は要らない。人数だけで足りる。
「ヨナス」
「は」
「今日、何刻に出たか」
「調べておりません」
「……そうだったな」
昨日、調べるなと言ったのは私だ。
十冊を閉じた。四千二百八十一行のどこにも、書いた者の名は出てこない。彼女は物を拾わない。受け取る側だからだ。
誰が、いつ、どこにいたか。それが十年ぶん残っている帳面だ。その中で、十年ずっとあの部屋にいた一人だけが、どこにもいないことになっている。
最後の頁の次を開いた。白紙だ。
「管理官」
「は」
「番号を打て」
「……何番でございますか」
「四千二百八十二」
管理官が打った。頁の隅に、数字が一つ増えた。
その下の四列は、日付も時刻も場所も空いている。四つ目の欄も空いている。
四月二日から今日まで、この城は誰が何をどこで落としたかを一行も書いていない。三十九日ぶんある。
包みは十ある。日付を知っている者も、拾った者の名を言える者も、もういない。
番号だけが打たれた頁を、そのままにして灯を寄せた。




