第17話: ここは、動きません
辺境の紙は、指に逆らう。
麻の筋が漉き込まれたまま残っていて、繰るたびに指の腹が引っかかった。
記録所は関所の詰所と壁一枚を隔てて並んでいる。窓は三つとも街道を向いていて、朝は光より先に埃が入る。
四月の末。交易期の初日は、荷より先に音が来る。
車輪が石を噛む音が南から届き始めると、机の上の割り符を数え直した。木札に麻縄を通しただけの札だ。
縄の撚りが右か左かで、どちらの関所を通ってきたかが分かる。撚りの向きは、目で見るより指で回した方が早い。
交易期は雪で街道が閉じるまで続く。割り符の数と合わなければ、荷は越えられない。
去年の綴りを左へ、今年の白紙を右へ置いた。左の綴りは頁の下三分の一だけ色が濃い。同じ場所を押さえて繰ってきた跡だった。
壁の向こうで、関所の門番が名簿を読み上げる声がする。声の切り方で、どこまで進んだかが分かるようになった。
声が二度止まった。
「ヴァレンティ様。また止まりましたね」
「読めない字が三つあります」
「どちらの綴りでしょうか」
「北の関所の分です」
「書き直されますか」
「昼のうちに」
「墨は足りておりますか」
「明日の分まで」
「……わたくしの字でしょうか」
「三つのうち、二つは」
ネリーが自分の手元へ目を落とした。
この記録所で迎える交易期は、今年で四度目になる。
北の遠縁の家に着いたのは、三年前の五月の終わりだった。
馬車を降りると、門の内側に迎えが立っていた。荷を降ろす手はなかった。
食事は運ばれてきたし、冬の外套も仕立ててもらった。数えるものだけが、どこにもなかった。
朝に起きる用を、指の方が先に無くしていった。
六月の初め、辺境伯家の代官が屋敷まで来た。取次ぎを待たずに玄関の間へ立ったまま、ハルトマンは用件を三つ並べた。
「荷が数えられません」
「はい」
「関所で止まる荷が、年ごとに増えております」
「はい」
「数えられる者が北にいると、人から聞きました」
誰から聞いたのかは言わなかった。尋ねてもいない。
「お引き受けいただけませんか」
「わたくしにできるのは、書くことだけです」
「それで足ります」
「いつからでしょうか」
「交易期の前に」
「机は、どちらに」
「記録所に一つ空いております」
「支度に三日いただきます」
「お待ちします」
頼まれたから、来た。頼まれないうちは、何も言わない。十年、その順序でやってきた。順序を変える理由を、今も持っていない。
北へ発った日は五月十日だった。あと十日ほどで、三年になる。
台帳は、発つ前の日に城へ返された。父の使いが持っていった。
布の結び目だけは自分で結んだ。あの十冊が今どこにあるのかは知らない。
最初の隊商は、鐘が三つ鳴る前に着いた。
隊商の頭のヨーストは、割り符を先に出す男だ。差し出された木札の縄を指で回すと、撚りは右だった。
「東の関所ですね」
「よく分かるな」
「縄が右に撚ってあります」
「毎年、それを言われている気がする」
「今年は、去年より二日遅うございます」
「雪解けが遅かった」
荷は十四。申告と、こちらの数えた数が合った。
「頭。お預かりしているものがあります」
「何だ」
「去年の秋に、この床へ落ちていました」
抽斗から布包みを出した。柄の短い鉄の匙だ。柄の端に穴が開いていて、そこだけ縁が丸い。紐を通して首から提げていた者の摩耗だった。
ヨーストの手が止まった。
「……それは」
「九月二十九日。鐘が四つ鳴った後。荷降ろし場の三番の柱の脇。拾った者、記録所のネリー・ザントベルク」
「半年、置いていたのか」
「持ち主が決まるまで、誰の物にもなりません」
ヨーストは匙を受け取って、掌の上で二度返した。指の関節が太い。荷縄を締める手だ。
「親父のだ」
「そうですか」
「去年の冬に死んだ。どこで落としたか、最後まで思い出せなかった」
「落とされたのは、九月です」
「……そうか」
「探しておられましたか」
「死ぬまで、首元を触っていた」
「そこに提げておられたのですね」
「……ああ」
柄の穴へ、ヨーストの指が入った。穴の縁を、しばらく撫でていた。
「ありがとう」
言葉を受け取る場所が、まだうまく決まらない。十年、返す物は毎日あった。返ってくる方の言葉は、数えるほどもなかった。
ヨーストはこちらを見たまま、次の言葉を待っていた。
「落とし物ですので、持ち主にお返ししただけです」
「そういう言い方をするな」
「そのとおりを申し上げただけです」
「ありがとう、記録官殿」
ヨーストは匙を物入れへ落とし、荷の列へ戻っていった。
ネリー・ザントベルクが記録所へ入った日は、こちらとひと月と違わない。ザントベルクの家が王都を出たのは、北へ発ったのと同じ月だという。父親が交易に伝手を持っていて、家ごとこちらへ移ったのだと後から聞いた。
初めて扉を開けたとき、ネリーは名乗る前に頭を下げた。
「ヴァレンティ様」
「ザントベルク様」
「……お恨みでしょうか」
「なぜ」
「わたくしが、殿下のお隣におりましたので」
「席を決めたのは、あなたではありません」
「それでも、何も申し上げませんでした」
「申し上げる場ではありませんでした」
それだけで済ませた。以来この部屋で向かい合っている。
初めの半年は、数が合わなかった。ネリーには数えるより先に詫びる癖があって、詫びているあいだに数が飛ぶ。詫びる前に指を止めるように、と一度だけ言った。
番号を読む声は速くなった。字は、まだ丸い。
「ヴァレンティ様。今年の割り当てですが」
「どうしました」
「北の街道の荷主に、ロートベルク領がございません」
綴りを引き寄せた。
三年前の割り当てには、ロートベルク領の名が二十二行ある。去年は四行。今年の一枚には、一行もない。
「……無くなってしまったのですね」
「今年の割り当てには、無い名です」
「書き添えなくて、よろしいのでしょうか」
「頼まれておりません」
名が消えたことは、この紙のどこにも書いていない。行が無いだけだ。
「関所の覚書も、お出ししましょうか」
「お願いします」
北の関所の普請の覚書は、六年ぶん綴じてある。
「請けた家は、五年ぶん同じ名でございますね」
「今年の一枚だけが違います」
「ダールベルク。存じません」
「この土地で石を扱う家です」
「五年ぶんの方は」
「王都の家です」
五年前の一枚を、指で押さえた。八百ターレル。
「この判は」
「五年前のものです」
「奥の札を、数えてまいります」
「東の分から数えてください」
「はい」
ネリーが棚の向こうへ入った。
金額の下の余白に、王都で押された判の跡がある。羽を三枚重ねた紋だった。
押し跡へ、指の腹を置いた。縁が薄い。彫りの底まで指が沈んだ。
角の減った印章で押すと、こうなる。
今年の一枚をめくった。麦の穂を束ねた紋だ。
同じ形に指を置いた。蠟の山が指の谷へ食い込んで、押し返してくる。
二つを続けてなぞった。片方は摩耗が指へ返り、片方は返らない。
羽の紋の印章は、五年より前から押され続けていた。
指だけが、二つの縁を覚えている。
ネリーが札の束を抱えて戻ってきた。
「東の札は、四十二ございました」
「控えと同じです。ネリー様」
「はい」
綴りに書けるのは、今年通る荷のことだけだ。
「三年前の綴りは、戻しておきましょうか」
「机に置いてください」
三年前の二十二行を、番号だけ指で追った。
麦の紋の交易許可には、宰相府の書役の名が添えてある。三年前の束には、入っていない名だ。
交易許可の束を厚みで分け、麦の紋の側を右へ寄せた。
右の束の方が、今日はもう高い。
昼を回って、代官が記録所へ寄った。
ハルトマンは机の前に立つと、まず綴りの背を見る癖がある。
「ヴァレンティ殿。今年の割り当ては」
「昼のうちに出ます」
「昼のうちに」
「はい」
ハルトマンの眉が上がった。
「あなたが来られる前の年は、秋まで出ませんでした」
「行を分けただけです」
「どのように」
「荷主ごとに一枚にしました」
「それだけですか」
「それだけです」
「その分け方を、誰も思いつかなかったのです」
紙を押さえた指に、力が入った。行の分け方を人から言われたのは初めてだった。
ハルトマンは綴りの背へ目を戻した。
「去年、関所で止まった荷は幾つでしたか」
「十九です」
「一昨年は」
「四十六です」
「その二つの数を、辺境伯に申し上げました」
「数だけを、でしょうか」
「数だけで足ります」
懐から一枚出して、机へ置いた。
「今年から、割り符の控えはこの様式にします」
欄が一つ増えていた。日付、荷主、荷の数。その隣に、記した者の名を書く欄がある。
「これは」
「誰が書いたものか、後から引けるようにしておきたいのです」
「必要でしょうか」
「関所で揉めたとき、誰に尋ねればよいかが分かります」
「間違いも、引けることになります」
「そのためにも作りました」
「わたくしの名も、書くのでしょうか」
「この綴りでは、あなたの名がいちばん多く並びます」
欄の幅を指でなぞった。名を書くには、少し狭い。
「辺境伯にも、あなたの名を申し上げてあります」
「わたくしは、頼まれた仕事をしているだけです」
「頼んだ側が、そう言われては困ります」
ハルトマンは笑って、割り符の綴りを二冊抱えて出ていった。
欄に名を書いた。セラフィナ・ヴァレンティ。
十年、この形の署名を置いた場所は訂正の二重線の下だけだった。二本の線を引いて日付を添え、その下に名を書く。書いた行が誤っていたときにだけ、名が残る書き方だった。
インクが乾くまで、紙を動かさずに置いた。
夕方の荷に、リーゼの手紙が混じっていた。王都から来た分だ。
北へ来てから十一通目になる。封蝋は嫁ぎ先の紋で、蠟の縁が厚い。急いでいない者の押し方だった。
窓辺で開いた。
妹の字は、城へ上がった頃より角が丸い。線の終わりが、どれも右へ流れている。
初めの半分は、子どもの歯が生えたことと梨の木のことだった。婚家の庭に一本あるらしい。読み終える頃には、紙を持つ手の甲だけが日に温まっていた。
残りは、三行だった。
『あの侯爵様が、姉様のご婚約の件を初めから仕組んでいらしたのだと、王都では申しております。財務府の綴りは宰相府へ移り、お家は爵位を返上なさいました』
『母様が、この冬から起きていらっしゃいます。姉様のことを、一度だけお尋ねになりました』
『近衛のアーレンス副団長が、職をお辞めになったそうです』
紙を膝へ置いた。
一行目を、もう一度読んだ。
指が、紙の端を握っていた。麻の筋が親指の腹へ食い込んで、そこで初めて力に気づいた。息を継ぐのを、一拍忘れていた。
三年前の四月一日に、広間で何が言われたかは覚えている。誰がそれを言わせたのかは、覚えようがない。あの夜、そこまで書ける欄はどこにもなかった。
回廊の曲がり角で、間合いを一歩多く詰めてきた人がいた。答えを待たずに頷いた人だった。あの頷きの速さだけを、指ではなく耳が覚えている。
風で紙が二度めくれた。押さえた指の下で、一行目の字だけが少し滲んでいる。妹はここを書いてから、しばらくペンを置いたらしい。
二行目は、二度読んだ。それだけにした。
紙を持つ指の力は、一行目のときのまま動かなかった。緩めれば、そこから先を考えることになる。
母の字は、この三年で一度も届いていない。庭のことは、梨の木の方に書いてあった。
手の甲に残っていた日の温みが、端の方から引いていった。引き切るまで、紙へ目を戻さなかった。
三行目で、指が止まった。
アーレンス。帳面で幾度も書いた字だ。届出人の欄に四十一度ある。片方だけの耳飾りを届けに上がってきた人で、拾い物の多い方だと思っていた。名を書き終えると、決まって三歩退がってから礼をする人だった。
指先が、持っていないはずの羽根ペンを探した。
机は三歩先にある。羽根ペンはその上に、削ったばかりのものが二本置いてある。指はそれを知っていて、それでも空を探った。
三年、探す形だけが残っている。
右手の中指の関節には、まだ古い盛り上がりがある。その上へ、この三年ぶんが重なっていた。
手紙を畳んだ。折り目は、届いたときと同じ位置に落ちた。
抽斗へ入れた。十一通が届いた順に重なっている。厚みで何通目かが分かるようになったのは、去年からだ。
日が傾いて、荷の列が短くなった。
ネリーが札を数えながら、顔を上げた。
「ヴァレンティ様。荷の多い日は、詰所の方へ机を移してはいかがでしょう」
「移しません」
「詰所なら、机も広うございます」
「広さは足りております」
「その方が、お早いかと」
「探す人が、二度歩くことになります」
ネリーの手が止まった。
「ここは、動きません」
同じ言葉を、王城でも何百回と口にした。抑揚をつけたことは一度もない。あの部屋は、言ったとおりに動かないまま閉じた。
この部屋は、まだ開いている。
窓の外を、最後の荷が通っていった。
柵の手前に、人が一人立っていた。
荷を持っていない。隊商の者は皆、何かしら手に持っている。男は上着だけを羽織って、柵まで来ずに足を止めていた。
柵の杭は、この窓から数えて七本目まで見える。男はその七本目の、さらに外側にいた。
日は男の背から差している。顔は影になっていた。
荷の列が途切れても、位置は変わらなかった。
男の手が左の耳のあたりへ上がって、そのまま下りた。それから上着の内側へ触れて、また下りた。
「ヴァレンティ様。あの方は、荷をお持ちでないようです」
「検めを待っておられるのでしょう」
この時期には珍しくない。初日は札の順を待つ者が、毎年柵の外まで並ぶ。
「ネリー様。あの方に、今日のうちに順番が来ると」
「はい」
ネリーが扉を開けたときには、柵の手前に誰もいなかった。
「どなたも、おられません」
「そうですか」
街道の土に、荷車の轍が二本ある。それをまたぐ靴の跡が並んでいた。踵の側だけ、土が深く沈んでいる。夕方の風は乾いていて、跡はまだ崩れていなかった。
跡は柵の手前で向きを変え、街道の南へ戻っていた。
その日の最後の行を書いた。日付、荷主、荷の数。四つ目の欄に、名を書いた。
インクが乾くまで、窓は開けたままにしておいた。
風が入って、割り符の縄が机の上で少し動いた。撚りは右を向いたままだった。




