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第18話: 頼まれておりません

 免除の札には、縄が通っていない。


 交易の割り符は木札に麻縄を通してあるが、普請の荷へ出す札は穴だけが開いている。縄がなければ撚りも読めない。


 指で回せない札は、番号を読むよりほかにない。


 普請の荷は割り当てに入らない。詰所が札を出して、そのまま通す。記録所は数えない。


 こちらへ回ってくるのは控えだけだ。日付。荷主。荷の数。今年からその隣に、記した者の名を書く欄が付いた。


 交易期の三日目になる。


 初日と二日目で、荷は百に届いた。三日目は落ちる。峠で待っている東の二つが着けば、また上がる。


 朝のうちに、北の関所の綴りの読めない字を三つ書き直した。二つはこちらの字だった。


 二重線を引いて、その下へ日付と名を入れる。消す手はこの綴りにもない。


 書き直した頁は、他の頁より厚く感じる。字を足した分だけ、指の腹に段が当たるようになる。


 最初の隊商は、鐘が二つ鳴る前に着いた。番頭は札より先に苦情を出した。


 「街道で四半刻待たされた」

 「石の車でしょうか」

 「北へ上がる列が切れん」

 「今年から、請けた家が替わりました」

 「去年の倍は通っているぞ」

 「数えておられましたか」

 「数えん。待たされた刻で分かる」

 「札を四枚お預かりします」


 番頭は荷の列へ戻っていった。石の車は記録所を通らない。待たされた刻だけが、こちらへ苦情の形で届く。


 「ヴァレンティ様。免除の分は、綴りを分けますか」

 「分けます」

 「去年は、交易の綴りに混ぜてございました」

 「混ぜると、荷の数が二重になります」

 「二重に」

 「割り当てを見る方が、二度数えます」

 「……分けます」


 ネリーが控えの束を運んできた。三日ぶんある。詰所の紙はこちらのものより厚い。角が立ったまま揃っている。


 「この順で預かってまいりました」

 「そのまま置いてください」

 「揃え直しましょうか」

 「揃え直すと、預かった順が分からなくなります」


 番号は詰所が打つ。出した順に増える。増える順に綴じておけば、あとで繰る指が迷わない。


 札の番号を、上から爪の先で当たっていった。


 四十二。四十三。四十四。


 二十九日の分は四十二から始まっている。前の日の最後が四十一だった。


 五十七で、指が止まった。


 次が五十二とある。


 五十六から当たり直した。同じだった。五十七の下に五十二が来ている。


 番号は数字だ。読み違えようがない。読み違えたとすれば、こちらの指の方になる。三度目は爪を立てて当たった。やはり五十二だった。


 同じことが、あと二つあった。同じ日の六十九の次に六十四。今日の分の八十九の次に八十一。


 三つとも日を跨いでいない。一日のうちに、同じ番号の札が二度控えられている。


 記した者の欄を見た。五十二はハウク。六十四はレンツ。八十一はヴィム。三つとも違う名だった。


 三人が申し合わせて同じ番号を打つのは難しい。番号が三度戻るのなら、打った手より札の方に理由がある。


 綴りを閉じた。


 窓の外を、石を積んだ車が北へ上がっていく。轍が深い。数えるのは詰所だ。


 「ヴァレンティ様」

 「はい」

 「手が止まっておいでです」

 「紙を数えておりました」

 「お茶をお持ちしましょうか」

 「結構です」


 紙は数えた。数えた後のことを言わなかっただけだ。


 十年、この言い方で通してきた。




 鐘が四つ鳴る前に、詰所の小者が新しい札の束を置いていった。


 「明日の分です」

 「幾つでしょうか」

 「三十で足りると伺いました」

 「控えは」

 「昼過ぎにお持ちします」

 「二十九日の分は、揃っておりますか」

 「揃っております」


 小者は壁の向こうへ戻っていった。扉は開けたままにしていく。三日目になっても、閉める習いがつかない。


 揃っていると言われた分の中に、同じ番号が二度ある。


 尋ねられたのは日付だけだ。番号のことは尋ねられていない。


 十年、あの部屋でも同じだった。扉ごしに日を尋ねられた。答えると、みな帰っていった。


 尋ねられなかった日付は誰にも渡していない。渡す用がなかった。


 叙勲の順を組んでいた書役が、前の年の日を尋ねに来たことがある。答えた。その次の年の分は尋ねに来なかった。こちらから届けに行くことはしない。


 そうやって十年、答えだけを正しく置いてきた。置いた場所へ誰も来なくなっても、置き方は変えなかった。


 新しい札の束を、番号の若い順に並べ直した。


 順を直したところで、控えの三つは減らない。減らないものを見ずにおくには、綴りを開かなければよい。


 明日も同じだけ札は出る。出た分だけ、控えは厚くなる。




 昼を回って、ハルトマンが来た。


 「ヴァレンティ殿。東の分の割り当てを預かります」

 「三枚あります」

 「早い」

 「荷主ごとに分けてありますので」

 「辺境伯へは明日出します」


 ハルトマンは三枚を懐へ入れて、それから帽子へ手を伸ばした。


 言う用はない。免除の札は詰所の分だ。この机には、綴じる用で回ってきているだけになる。


 十年、頼まれた分だけ書いた。頼まれない分は指の中へ置いた。あの部屋で誰にも気づかれずに済んだのは、そのためだった。


 気づかれないことと、無いことは違う。


 三年前の四月一日の夜も、こちらからは何も言わなかった。言わずに済ませたことなら、今でも一つずつ数えられる。


 数えたところで、行き先はどこにもない。


 指先が、羽根ペンを探した。


 空を探らなかった。机の一本へ、指の方が先に届いていた。削り口の角が親指の腹に当たる。三日で削り直す軸を、今朝削ったばかりだった。


 三年、探す形だけが残っていた。今日は握っている。


 「代官殿」


 ハルトマンの手が帽子で止まった。


 「一つ、申し上げます」

 「割り当ての件でしょうか」

 「免除の札の控えです」

 「あれは詰所の分でございます」

 「はい」

 「あなたに頼んだ用ではございません」


 「頼まれておりません」


 ハルトマンがこちらを見た。眉が動かなかった。


 「十年、どなたにも頼まれておりません。——ですから、今日は自分で申し上げます」


 喉の途中で、一度つかえた。


 「……伺います」

 「北の関所の免除の札です。二十九日の五十七の次が、五十二でございます」

 「戻っている」

 「同じ日の六十九の次が六十四。今日の八十九の次が八十一です」

 「三つか」

 「三つです」

 「番号を戻す打ち方は」

 「詰所ではなさいません」

 「では、同じ札が二度」

 「そう読めます」

 「誰が書いた」

 「三つとも違う名です」


 ハルトマンは杖を壁へ立てかけて、控えの束へ手を伸ばした。


 「どこを見れば分かりますか」

 「番号だけを、上から順に」

 「目で追って分かるものですか」

 「爪で当たった方が早うございます」


 ハルトマンの指が束の上を降りていった。二度目で止まった。止まった場所は正しかった。


 「三つとも、同じ日ではありませんね」

 「二十九日が二つ。今日が一つです」

 「明日は」

 「明日の控えは、まだ出ておりません」


 「石は何車入ることになっておりますか」

 「覚書では三百二十です。雪までに」

 「三日で幾つ出ました」

 「札は九十四枚出ております」


 ハルトマンは答えなかった。手の甲に、筋が浮いている。


 「ヴァレンティ殿。これは、どういうことになりますか」

 「わたくしには分かりません」

 「分からない」

 「合っていないことだけが分かります」


 誰が二度通したのかは、この控えに書いていない。書いてあるのは番号と日付と、書いた者の名だけだ。


 そこから先は、この机の上の用ではない。


 「詰所には」

 「申し上げておりません」

 「先に言う相手は、あちらではありませんか」

 「控えを綴じる用は、こちらで承っております」

 「……なるほど」


 壁の向こうで、門番が誰かの名を呼んだ。返事は聞こえない。


 「この部屋の扉は、開いたままですな」

 「小者が開けたままにしてまいります」

 「閉めておきましょうか」

 「開けたままで結構です」


 「なぜ今日、言われました」

 「昨日は、まだ二つでした」

 「二つでは足りませんでしたか」

 「二つでも足りません」

 「では、なぜ」

 「三つ目を数えた指が、閉じませんでした」


 ハルトマンはしばらく黙っていた。


 「これは、こちらで持ちます」

 「お渡しします」

 「辺境伯へは、この三つの番号だけを申し上げます」

 「畏まりました」

 「あなたの名は控えに残ります」

 「構いません」

 「残らない書き方も、こちらにはございます」

 「残る方でお願いします」


 書いた者の名を残す欄を作ったのは、この人だ。作った当人が、最初にそれを外そうとしている。


 外す理由も分かる。分かるが、外れた欄は次の年も外れたままになる。


 ハルトマンは帽子を被った。被ってから、まだ出ていかない。


 「ヴァレンティ殿」

 「はい」

 「その三日に領内へ入った者を、詰所の記帳簿と突き合わせてください」

 「頼まれた用として、でしょうか」

 「頼みます」

 「承知しました」


 十年、頼まれてから引き受けてきた。今日は順序が逆になった。


 ハルトマンの足音が、壁の向こうの詰所で止まった。声は聞こえない。


 羽根ペンを置いた。軸に指の跡が付くほど握っていたわけではない。それでも置くときに、机が思ったより近くにあった。


 ネリーが札の束を抱えたまま、扉のところに立っていた。


 「ヴァレンティ様」

 「はい」

 「今の……頼まれておりません、と」

 「申しました」

 「わたくしにも、そう仰いました」

 「一昨日のことです」

 「あれは、書かないという意味でございましたか」

 「そうです」

 「今日は」

 「違います」


 ネリーは束を机の端へ置いて、指を組み替えた。それから元へ戻した。


 「わたくしは、どちらを覚えておけばよろしいでしょうか」

 「両方です」

 「両方」

 「言わない日の方が、これからも多くなります」

 「言う日は、どうやって分かるのでしょう」

 「分かりません」

 「……はい」

 「今日も、分かってから言ったのではありません」


 ネリーは返事の代わりに札を数え始めた。数える声は速い。二年と十月で、詫びる前に指が止まるようになった。




 記帳簿は、日が傾いてから届いた。運んできたのは朝の小者だった。


 「代官殿から、三日ぶんと伺っております」

 「二十八日からで結構です」

 「日の暮れるうちにお戻し願えますか」

 「明日の朝までお預かりします」

 「詰所の綴りは、外へ出さない習いでして」

 「壁一枚です」

 「……朝までに」


 小者は今度は扉を閉めていった。


 詰所の綴りは背が固い。開くたびに綴じ目が鳴る。欄は四つある。日付。どこから来たか。名。荷。


 西日が机の右端まで届いていた。頁を起こすと、字の上へ指の影が落ちる。


 二十八日の頁から繰った。石工が十一人。荷方が二十二人。鍛冶が二人。名の下に荷の数が並んでいる。


 石工の十一人は、二十九日の頁にも同じ名で並んでいる。一度入った者は雪まで領内にいる。新しい名の方は、日ごとに減っていく。


 二十九日と今日の頁を、免除の札の日付と並べてみた。五十二と六十四の日に入った者。八十一の日に入った者。


 両方の日に名のある行は、この二枚には一つもない。突き合わせはここからになる。


 荷の欄が空いている行は、三日で四つしかない。


 一つ目は使いの者だった。二つ目は医者だ。三つ目は名の下に「戻り」と添えてある。


 その四つ目に、指が止まった。


 二十八日。南の街道。荷、無し。


 隣に、名がある。


 テオドール・アーレンス


 アーレンスの五文字なら、十年こちらから書かせてきた。届出人の欄にその五文字より多く書かれたことは、一度もない。日付を書き入れるあいだ、いつも机の前で待っている人だった。


 五文字の前に、字が足してある。


 書き癖は変わっていない。字の頭が右へ少し倒れる。あの帳面で四十一度見た倒れ方だった。


 二十八日は、交易期の初日にあたる。


 あの日の綴りはもう閉じてある。荷の数も割り符の数も合っていた。合っていた日の頁に、荷を持たない名が一つだけ残っている。


 窓の外を、もう荷は通らない。街道の土は乾いている。


 頁を押さえた指の下で、裏の頁の番号の窪みが当たっていた。


 指は、そこから動かなかった。

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