第19話: 五月一日
柵の杭から記録所の扉まで、十一歩ある。
三日前の夕方に一度数えた。昨日も同じだった。歩幅は変わっていない。
変わったのは、その十一歩のどこで止まればいいかを決める者がいないことだ。
近衛の立つ位置は規則が決める。要人から三歩。決まっている場所になら、十年でも立っていられた。
その規則を、今年の二月に返した。
規則を返しても、体の方は残る。物を受け取る者からは三歩。渡す者からは二歩半。廊下ですれ違う相手が要人なら壁側へ半歩。十年で肩と踵が覚えた数だけが、まだ勝手に働く。
働いたところで、当てはめる相手がいない。
五月の一日になった。
宿は街道の南に一つある。交易期のあいだは荷方で詰まる。三日いて、同じ寝台に二度寝た者は自分だけだった。
夜は、寝台に仰向けのまま歩数を数えた。宿の戸口から窓まで、九歩のはずだった。目でなぞる九歩の方が、体で歩く九歩より長かった。隣の部屋から荷方の鼾が壁越しに近づいて、間合いを詰めてくる分だけ肩に力が入った。数え終える前に、三日とも眠りへ落ちた。
この土地では、失せ物の守り手より雪の方が近い。月の一日にできることは、荷を一つ多く積むことだけになる。
王城なら、今日は朝から包みが上がる。あの机の端に、昼までに三つか四つ並ぶ。
三日前、南の街道から関所へ入った。
八日かかる道の最後の二日を、荷を持たずに歩いた。歩けば、着く刻をこちらで決められる。
門番が綴りを開き、羽根ペンをこちらへ回した。王城の物より軸が太い。
欄は四つある。日付。どこから来たか。名。荷。
「どちらから」
「南の街道です」
「荷は」
「ありません」
「お手ぶらで八日は、珍しゅうございます」
「馬は途中で売りました」
「石工の口でしたら、詰所が別に伺いますが」
「違います」
「では、どなたかを訪ねて」
「……そうなります」
「名は、ご自分でお書き願います」
アーレンス、と書けば足りる。十年、届出人の欄はその五文字で足りていた。
あの五文字は近衛の名だった。名乗る先が職務であるなら、姓だけで用が済む。
五文字の前に、もう五文字足した。
テオドール・アーレンス
「長いお名前で」
「そうでしょうか」
「この欄は、姓だけの方が大方でして」
「……はい」
「ご用向きは……いや。伺わない決まりでした」
門番が綴りを閉じると、背の綴じ目が鳴った。
用向きを書く欄は、四つのどこにもない。あったとして、何と書いたかは分からない。
その日の夕方、記録所の柵まで行った。
窓は三つある。いちばん右の内側に、机が一つ見えた。
そこで足が止まった。十一歩は、一歩も減らなかった。
左の耳へ指が上がって、そのまま下りた。穴は十三年空のままだ。次に上着の内側へ触れて、また下りた。
日が落ちる前に街道の南へ戻った。
三年前の五月十日、持ち場を解く紙が来た。あの階段に立って十四日目だった。
翌月から宰相府に呼ばれた。近衛の日誌十年分と、あの帳面を突き合わせる用だ。誰がいつどこに立ち、誰が持ち場を離れたか。並べ直すのに二年かかった。
二年のあいだ、あの帳面の頁は毎日開いた。
繰る速さは頁の厚みで変わる。冬の頁は字が太い。指がかじかんだ者の線だ。
四十一の行に自分の名がある。書役はその行を数えなかった。監査に要るのは金の側の日付で、片方だけの耳飾りは誰の勘定にも入らない。
開いた者は自分で、書いた者はもうそこにいない。
辞めたのは今年の二月だ。
団長は綴りを閉じずに聞いた。
「どこへ行く」
「決めておりません」
「北か」
「……」
「お前は十年、間合いを外さん男だった」
「外さずに済む相手としか、向き合っておりませんでした」
「それは去年も聞いた」
「今年も同じです」
「直っておらんな」
「は」
「近衛の名も返すのか」
「返します」
「その名で通る場所は、外にないぞ」
「承知しております」
「なら、止めん」
団長は一度止めた。二度は止めなかった。
三年前にあの紙を返してから、立つ場所を自分で決める稽古をしてきた。うまくはならなかった。二月に名を返したのは、その稽古の終いだ。
三十日は街道の橋まで歩いて戻った。橋から記録所の屋根までは、数える気になれば数えられる距離だった。数えなかった。
その日の昼過ぎ、杖を突いた男が記録所から出て詰所へ入っていった。門番が二人、詰所の前で札を数え直していた。
何かが起きた日だと、外からでも分かる。中で何が起きたかは分からない。十年、同じ場所からそれを見ていた。
行く日を自分で決めるより、決まっている日に従う方が体は動く。それも稽古のうちには入らない。
東の峠越えの二つが朝のうちに着いて、昼を回ると荷の列が切れた。
柵の杭を七本目まで数え、そこから十一歩を歩いた。
扉は開いていた。
叩く物がないと、手の置き場が余る。唾を飲む音が、自分の耳にだけ大きく届いた。
入ってすぐ、手元が見えた。
羽根ペンを持った右の手。中指の関節が、初めて見た年より高い。
紙を押さえた左の指は、頁の下三分の一に置かれている。あの部屋でも同じ場所を押さえていた。
顔が上がるより先に、その手が止まった。
息を吸う途中で、肺が止まった。三年、この人と同じ部屋の空気を吸っていない。
「検めでしょうか」
手前の机から、若い娘が札の束を抱えて立ち上がっていた。
「いえ」
「では、お預かりする物でしょうか」
「……あります」
「ヴァレンティ様」
彼女が顔を上げた。
「アーレンス——」
三文字が消えた。消えた分だけ、呼び名が短くなった。
「アーレンス様」
「は」
十年、その返事で通してきた。近衛の返事だ。喉の途中で直した。
「……はい」
「いつ、こちらへ」
「二十八日です」
「三日、どちらに」
「街道の南の宿です」
「三日は、長うございます」
「日を待っておりました」
「一日でなければ、いけませんでしたか」
「十年、そうしておりましたので」
彼女は羽根ペンを置いた。置く音が、板の机に一度だけ落ちた。
「テオドール・アーレンスと申します」
名乗るのに十年かかった。あの部屋で名を書いた回数なら数えられる。四十一回ある。そのどこにも、この一言は入らなかった。
「存じております」
「……」
「昨夜、詰所の記帳簿をお借りしました」
「あの綴りを」
「二十八日の欄だけ、字が長うございました」
「……名を、書き足しました」
「初めて拝見しました」
「十年、書く用がありませんでしたので」
「近衛は、お辞めになったと伺いました」
「今年の二月です」
「お差し支えなければ、伺います」
「立つ場所を、決めてもらえなくなりました」
「……」
「近衛の位置は規則が決めます。決まっている場所になら、十年立てました」
「決まっていない場所は」
「三年、決めかねております」
「決めねば、なりませんか」
「自分で決めた場所でなければ、明日また離れます」
彼女は綴りの角を揃えた。指が二度、同じ縁をなぞった。
「あの帳面は、今どちらにありますか」
「宰相府です」
「読まれましたか」
「閣下が、十日で読み切られました」
「十日で」
「三人で開かれたと伺いました」
「……」
「自分は、その後を二年繰りました」
「十冊、ございましたか」
「十冊です」
「一冊も欠けておりませんでしたか」
「欠けておりません」
「……そうですか」
尋ねたのは冊数だけだった。中に何が書いてあったかは尋ねない。
尋ねられていないことを、こちらから言う用もない。
壁の向こうの扉が開いて、詰所の小者が控えの束を抱えて入ってきた。
体が退がった。三歩だ。物を渡す者と受ける者のあいだに、それだけ空ける。
退がる理由は、もう自分にかかっていない。三歩は規則の数であって、自分の数ではなかった。
自分の数を、まだ一つも持っていない。
娘が札の束を抱え直した。
「ヴァレンティ様。東の分を数えてまいります」
「お願いします」
娘は壁の向こうへ抜けていった。扉は開いたままになった。
机までは四歩ある。あの部屋の机は五歩だった。
布包みを出して、机の上へ置いた。結び目を解くのに、指が二度滑った。
「拾得物です」
十年、この一言で始めた。
「いつ、どこで」
順序も同じだ。日付。場所。刻。拾った者の名。四つ答えれば、頁が一枚埋まる。
答えが出なかった。
「アーレンス様」
「……拾っておりません」
「では、これは」
「自分が、落としていたものです」
彼女の指が、耳飾りの手前で止まった。留め金の側だ。触れてはいない。
「十年、毎月落としていました。全部、わざとです」
壁の向こうで門番が名を読み上げている。声は途中で切れた。
「毎月、でしょうか」
「毎月です」
「一年目の五月の一日は、南回廊でした」
「……はい」
「鐘が五つ鳴った後です。同じ日の昼にも一つ、お返ししております」
「そうです」
「六年目の分は、西回廊でした」
「……」
「十年目の三月は、噴水の縁です」
帳面はここにない。宰相府の机の上にある。
この人は、それを見ずに言っている。
覚えているのは自分だけだと思っていた。落とした側にしか用のない数だ。
覚えている者が、机の向こうにもう一人いた。
「百二十個ございました」
「そうです」
「百二十一個目を、伺っておりません」
「落としませんでしたので」
「いつの分でしょうか」
「三年前の、五月の一日です」
三年、上着の内側にあった。布へ戻した日は一度もない。
「今日は、五月の一日です」
「はい」
「十年、この日に落としておりました」
「存じております」
「今日は、落とさずに持ってまいりました」
言い終えてから、息を継ぐ位置が分からなくなった。
窓の桟に、日が半分かかっていた。日の縁が、桟の幅ぶん動いていった。
彼女は耳飾りを取らなかった。
指の腹を留め金へ当て、机の上を二寸ほどこちらへ寄せた。
「落とし物ですので、持ち主にお返ししただけです」
この人に物を返されたのは、十年でこれが二度目になる。
一度目は十九の年だ。抽斗から出てきた片方だけの耳飾りを両手で受け取った。記録と符合する物だけをお返ししています、と言われた。あの日も、机の上を物がこちらへ動いた。
あいだの百二十個は、一つも戻ってこなかった。落とした者の名を書く欄が、どの頁にも無かったからだ。
名を言った途端に、戻ってきた。
十年ぶんの手続きが、正しく働いた。
正しく働いた末に、机の上を物が二寸だけ動いた。
窓の光が留め金の内側へ入って、そこだけ白く残った。三年、上着の裏で誰にも見えていなかった面だ。
指の先が冷えた。剣を抜く前に冷える指と同じ冷え方だ。抜く物は、もう腰に下げていない。
喉の奥で、言い返す言葉の形を探した。手続きの外にある言葉は、十年ぶん溜めても一つも出てこない。
十年、一度も違えなかったやり方で戻された。
違えてくれと頼む用は、こちらにない。
「アーレンス様」
「はい」
「これは、いつからのものでしょうか」
「三年前の五月に、下町で受け取りました」
「留め金の癖が、一年目のものと同じです」
「同じ職人です」
「一年目に、替えてくださいと申し上げました」
「……覚えております」
「理由は、伺っておりません」
答えを持っていない。三年前も持っていなかった。持たないまま、留め金だけを十年替えなかった。
耳飾りを取って、上着の内側へ戻した。留め金が布に引っかかって、一度止まった。
「ヴァレンティ嬢」
「はい」
「ここは、長いのですか」
「二年と十月になります」
「……頼まれて」
「頼まれて参りました」
「冬は、街道が閉じると伺いました」
「十一月から四月まで閉じます」
「そのあいだは」
「数える物が減ります。減った分だけ、古い頁を書き直しております」
「一人で」
「一人です」
「冬のあいだ、扉は」
「開けております」
十年、この人に尋ねた言葉は全部で四つの欄に収まる。いつ。どこで。誰が。何を。
その外側から尋ねたのは、今のが初めてになる。
娘が札の束を抱えて戻ってきた。扉のところで足が止まっている。
「……近衛の」
「今は違います」
娘の目が机の上を一度なぞって、札へ戻った。それ以上は見なかった。
札を胸の前で抱え直し、頭を下げてから机の向こうへ回る。数える声はすぐに続いた。
男爵家の令嬢だ。夜会の広間で二度見た。殿下の隣の席にいた娘で、その席を誰が決めたのかは誰も知らなかった。
「明日も、参ります」
「荷は、明日も入ります」
「何刻に伺えばよろしいですか」
「昼を回れば列が切れます」
「では、その刻に」
十年、行く日は決まっていた。明日という日を決めたのは、自分だ。
彼女は綴りへ手を戻した。頁の下三分の一に、また指が置かれる。
「アーレンス様。ここは、動きません」
その言葉なら、あの部屋で二度聞いた。どちらも扉の外の誰かへ向けたもので、抑揚は今と寸分違わなかった。
自分へ向けられたのは、初めてだった。
扉まで四歩。柵まで十一歩。
外へ出ると、詰所の前で二十八日の門番が板壁に寄りかかっていた。
「アーレンス様。もうお発ちですか」
「いえ」
「明日もこちらに」
「はい」
「では、記帳簿は書かんでよろしゅうございます」
「……」
「一度入られた方は、出るまで書きません」
「出るまで、と申しますと」
「峠を越えられるまでで」
「峠は、いつまで開いております」
「十月の末までで」
「……そうですか」
二十八日の一行は、出ていくまであの綴りに残る。足した五文字も、そのあいだは残る。
七本目の杭のところで振り返った。
扉は開いたままだ。
あの部屋の扉は、叩くまで閉まっていた。叩けば開いた。十年、そういう扉だった。
この扉には、叩く用がない。
用のない扉の前に立つ稽古は、三年やって一つも身につかなかった。
街道の土には、来た日と同じ轍が二本ある。跨いだところで歩数を数えるのをやめた。
上着の内側で、留め金が肋へ当たっていた。歩くたびに同じ場所へ当たる。
三年、そこにあった物だ。今日も持って帰ることになった。
明日、話す用が一つ残っている。




