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第20話: 条件は、もう一つありました

 持ち場は、月ごとに替わる。


 近衛の配置は、月の替わる前に紙で下りてくる。大広間。南回廊。西の門。東棟の階。


 名の下に日が並ぶ。その月のあいだ、自分の立つ場所はその紙が決めた。


 落とす場所も、それに従って替わった。


 拾える場所であること。人の通る場所であること。その月の自分の持ち場から、遠くない場所であること。


 条件は、初めのうちはそれだけだった。


 一年目の五月は南回廊。六年目は西回廊。十年目の三月は、西回廊の噴水の縁。


 昨日、その三つを机の向こうから言われた。自分の配置の紙にも、同じ順で並んでいる。


 並べたことは、十年で一度もなかった。




 五月の二日になった。


 宿は替えていない。荷方は毎晩入れ替わるので、隣の鼾は毎晩違う音だった。


 女将は椀を置く前に、窓の外の列を数える癖がある。


「今日も、行かれるので」

「はい」

「昨日は、日の落ちる前に戻られた」

「用が、半分残っております」

「幾日お泊まりで」

「決めておりません」

「決めん客は、勘定が長うなります」


 外の列は、昨日より二台多い。女将は数え終えてから、椀を置いた。


「峠は、十月の末まで開いていると伺いました」

「開いておっても、九月を過ぎれば誰も越えません」

「なぜです」

「途中で降られたら、越えた先で越えたことを悔やみますので」


 女将は膳を下げずに板場へ下がった。戸口で足を止めて、もう一度外を数えている。


 十月の末までは、半年に足りない。自分は、明日より先を一日も数えていない。




 昨夜は、荷札の裏へ書いた。荷方が置いていった木札の控えの、裏が白かった。


 十年ぶんの場所を、出てくる順に書き出した。初めの三年は出た。南回廊。南回廊。南の階。


 西の門に配置が替わった年から、月と場所が離れ始める。六年目の秋がどこだったか、二度書いて二度消した。


 書けたのは三十二だった。百二十のうちの三十二だ。落とした本人から出てくるのは、四分の一ほどでしかない。


 あの人は昨日、帳面を見ずに三つ言った。帳面は宰相府にある。


 紙は畳んで上着へ入れた。留め金の当たる側とは、逆の内側だ。




 王都を発つ前の日——四月の十九日に、下町へ降りた。三年ぶりの道だった。


 城の門から下町の坂までは、千二百歩ある。三年空けても、坂の下で数が合った。


 合ったのは歩数だけだ。途中の店は三つ替わっていた。


 工房の間口は変わっていない。炉に火が入っている。台の木目に入り込んだ金属の粉も、三年前と同じ色をしていた。


 細工師は手の中の物を台へ置いてから、顔を上げた。


「……お久しゅう」

「久しい」

「三年でございますな」

「三年だ」

「注文は、あれきりで」

「そうだ」


 細工師は奥の抽斗を引いた。布の包みが二列に並んでいる。


「潰す、と申し上げました」

「聞いた」

「潰しておりません」


 数える必要はなかった。数えた。


「幾つある」

「三十五でございます」


 細工師の指は、三年前より節が太い。炉に当てすぎた手だ。布を解く手つきだけが、十年変わらない。


「三年ぶんだな」

「月の一日に、一つずつ拵えました」

「注文は出していない」

「出ておりません」

「では、なぜ作った」

「十年、途切れなかった注文でしたので」


 包みを一つ取り上げた。結び目は二つある。三年前と同じ結び方だった。


「潰した物には、誰の落とし物にもなれん。そう言ったな」

「申しました」

「これは、まだなれるのか」

「落とす方がおいでなら」


 銅貨を数えて台へ置いた。三年ぶんある。細工師は数えずに端へ寄せた。


「お持ちになりますか」

「……いや」

「置いていかれる」

「置いていく」

「では、こちらで預かります」

「潰さんのか」

「預かるだけでございます」


 包みを抽斗へ戻した。抽斗は最後まで閉まらず、細工師が手の腹で押し込んだ。


 落とした一つ目から数えれば、百二十二から百五十六までになる。百二十一個目は、上着の内側にある。


「一つ、伺ってよろしいですか」

「言え」

「三年前のは、渡せましたか」

「……いや」

「留め金は、あれのままで」

「そのままだ」

「十年、こちらは一度も替えろと申しませんでした」

「……ああ」

「替えろと申された方が、どこかにおいででしょう」


 答えなかった。指が上着の上から留め金の位置をなぞって、下りた。


 細工師は炉の方へ向き直り、それきり顔を上げなかった。


 戸口から通りまで、七歩ある。十年、月に一度その七歩を歩いた。数えていたつもりはない。体の方が数えていた。




 今日も、街道の南から歩いた。記録所の屋根より先に、詰所の前が見える。


 昨日、そこに立っていたのは門番が二人だった。今日は三人いる。


 何が起きたかは分からない。人の並びが替わったことだけが分かる。


 十年、それで食ってきた。


 儀典の支度が入れば東棟の廊下が塞がる。叙勲の月は、宮内府の使いが北棟の階を一日に何度も上がる。


 北棟三階に用のある人間は、二種類しかいない。落とした者と、拾った者だ。


 その二種類のほかに、あの十九段を上がる者がいる月があった。


 用のない者が用を作って上がる月は、配置の紙を見れば分かる。


 用があって上がる者は、上がって降りるまでが短い。


 短くない者がいた。


 五年目の一月の末から、二月の三日までだ。


 詰所では、交代のたびに前の刻の出入りを口で渡す。紙には書かない。北棟の階に立った者から、同じ話を二度聞いた。


 財務府の書役が、あの十九段を上がっている。一度目は昼。二度目も昼。月の終いの二日だ。


 二度とも、降りてきた手は空だった。


 あの部屋にあるのは、失くした物と、失くした日付だけだ。日付を取りに来た者は、日付を持って降りる。


 何も持たずに降りる者は、日付が欲しかったのではない。


 配置の紙をその月の分から並べ直した。財務府の書役に、北棟三階の用はどこにも書かれていない。


 並べ直したところで、自分にできることは一つしかなかった。


 書役が三度目に上がったのは、月が替わってからだ。


 三年前から二年、宰相府の机であの帳面を繰った。


 五年目の二月は探した。


 その月の頁に、余分な行は無い。名が出てくるのは別の頁だ。


 片方だけの手袋の行の下に、後から小さく足してある。字の高さが、上の行と合っていない。


 二月の三日。財務府の書役が品を尋ねに来て、落とされた日と場所を言えなかった。書いてあるのは、それだけだ。


 尋ねた一度は残った。尋ねなかった二度は、どこにも残っていない。


 あの帳面に、落とした者を書く欄は無い。あの冬の同じ階段に、書かれない者が二人いたことになる。




 柵の杭を七本目まで数え、そこから十一歩を歩いた。


 扉は開いたままだ。昨日と同じ角度で、同じ幅だけ開いている。


 中では、ネリーが札を数えていた。声が止まって、束を抱え直す。


「アーレンス様」

「は」


 喉の途中で直した。二日目でも、まだ直さねば出てこない。


「……はい」

「ヴァレンティ様。昨日の方がお見えです」


 昨日の方、で通る場所になっている。三年、名で呼ばれない場所にいた。


 彼女は綴りから顔を上げた。羽根ペンは持ったままだ。


「アーレンス様」

「昼を回りましたので」

「列は切れております」

「お邪魔でしたら、出直します」

「出直された分は、こちらの用が増えます」

「承知しました」

「お掛けになりますか」


 壁際に椅子が一つある。机までは四歩。座れば、間合いはそこで決まってしまう。


「立ったままで結構です」

「では、そのままで」


 彼女は綴りを右へ寄せ、束を一つこちらの側から遠ざけた。詰所の紙だ。角が立ったまま揃っている。


「昨日、詰所はお忙しいご様子でした」

「合わない番号がございました」

「札ですか」

「札です」

「では、この机には」

「綴じる用で回ってまいります」


 尋ねる用は、こちらにない。尋ねてから、そのことに気づいた。


「アーレンス様は、外を通っておいででしたか」

「街道の南から参りました」

「詰所の前を」

「通りました」

「外から、何かお分かりになりますか」

「門番が一人、増えております」

「……はい」

「昨日は二人でした。増えた一人は、札を抱えたまま動きません」

「動かないと、どうなりますか」

「札を渡す用ではない者が、そこに置かれています」

「置かれている」

「数える者を置いたのでしたら、あの立ち方はいたしません」


 彼女の指が、束の角で止まった。


「杖の方が、昼までに二度出入りされました」

「代官でございます」

「二度とも、こちらから出て詰所へ入られました」

「……はい」

「順が逆でしたら、詰所の用でした」


 彼女は何も書かなかった。門番の数を入れる欄は、その綴りのどこにもない。


 ネリーが札の束を抱えて、机の端へ置いた。


「ヴァレンティ様。東の分は四十四ございました」

「控えも四十四です」

「合っております」

「二枚だけ、詰所へお戻しください」

「はい」


 ネリーは束から二枚を抜いて、壁の向こうへ抜けていった。抜けるとき、自分の脇を通る。三歩ぶん空けて通った。空けたのは向こうだ。


 夜会の広間なら、この娘の側が空けさせる方に立っていた。


「アーレンス様は、そういうことをなさっておいででしたか」

「近衛の用です」

「人の並びを」

「並びと、刻です」

「城で」

「城で十年」


 彼女は札の束を左へ寄せ、綴りの背を立てた。頁の下三分の一に、また指が置かれる。


 彼女の指が、一枚ごとにわずかに止まる。止まる分だけ、自分の間合いも延びた。




 彼女は羽根ペンを置いた。置く音が、板の机に一度だけ落ちる。


「ヴァレンティ嬢」

「はい」

「昨日、申し上げそびれたことがあります」

「伺います」

「落とす場所のことです」


 彼女は綴りを閉じずに、角だけを揃えた。指が二度、同じ縁をなぞる。


「南回廊が、初めの三年に多うございました」

「初めの三年は、持ち場が南でした」

「四年目から、西が増えます」

「西の門に配置が替わりました」

「五年目の夏は、東棟の階でございました」

「東棟です」

「あの月だけ、鐘が七つ鳴っております」

「日の長い月でしたので」

「八年目の二月は、西の門でございました」

「門は寒うございます」

「あの月の頁は、字が太うございます」

「……」

「指がかじかむと、線が太くなります」

「そういうものですか」

「十年繰れば、季節が字に出ております」


 場所は全部、この人の中にある。並べれば、自分の配置の紙とそのまま重なった。


 重ならない月もある。その月は、この人の口から一つも出てこなかった。


「ヴァレンティ嬢は、なぜ場所が替わるとお考えでしたか」

「拾われた場所は、落とされた場所です」

「はい」

「落とされる場所は、その方が通る場所です」

「そうです」

「近衛の方は、月ごとに通る場所が替わります」


 十年、この人はそこまで読んでいた。読んで、書いて、それきり黙っていた。


「その月の持ち場から、遠くない場所に落としました」

「はい」

「拾える場所で、人の通る場所であることも要ります」

「一日に、一つずつ」

「一日に一つです」

「三つで、十年ぶんの場所が決まります」

「決まります」

「……よく、途切れませんでしたね」

「途切れさせない用が、こちらにありましたので」


 彼女は綴りの上へ手を戻さなかった。


「一つ、伺ってよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「なぜ、毎月落とされましたか」


 答えなら初めからある。二十を数えるあいだに収まる長さで、口の中で三度繰り返した月もあった。


 繰り返した言葉は、どれも思い出せない。


「あの部屋に用のある人間は、二種類しかありませんでした」

「落とした方と、拾った方です」

「そうです」

「アーレンス様は、拾った方でいらっしゃいました」

「四十一回です」

「四十一回、上がってこられました」

「あとの七十九回は、階段の下におりました」

「先に拾った方がおいでの月です」

「その七十九回の届出人の欄には、別の名が入っております」

「そうなります」

「名の入らなかった月もございました」

「字を書けない者がおります」


 彼女は頷いた。それから、頷いたまま何も言わなかった。


 壁の向こうで、門番が名を読み上げている。今日は途中で切れない。


「アーレンス様」

「はい」

「十年、その三つでお決めでしたか」


 机までの四歩を、詰めも退がりもしなかった。


 退がる先には壁がある。詰める先を決める紙は、もう自分に下りてこない。


 言えばこの人の立場を壊す、と十年思っていた。壊れる立場の方は、三年前に無くなっている。


 残っているのは、自分の引いた線だけだ。


 跨いだ先に何があるかは、三年考えて分からなかった。分からないまま、八日の道を歩いた。


「ヴァレンティ嬢」

「はい」

「条件は、もう一つありました」


 羽根ペンの先が、紙に触れたまま止まった。


 墨が一点、紙へ入っていく。麻の筋に沿って、四方へ細く伸びた。


 この人は、消さない。

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