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第21話: 十年で、四回

 墨の点は、四方へ細く伸びたまま止まっていた。


 記録所の机の向こうに、彼女が座っている。こちらは壁際に立ったままで、机までは四歩ある。


 この人は消さない。いまここで言ったことは、言った分だけ紙の側に残る。


 羽根ペンが軸受けへ戻された。音は一度だけ落ちた。


 彼女が先に口を開いた。


「もう一つ、と仰いましたか」

「はい」

「落とす場所のことです」

「場所は、月ごとに替わったと伺いました」

「替わりました」


 彼女が続けた。


「持ち場が替わりますので」

「……四度だけ、替えませんでした」


 彼女の指が、頁の下三分の一から離れた。


「四度」

「十年で、四回です」

「同じ場所へ、ということでしょうか」

「同じ場所です」

「どちらでしょう」

「北棟の階段の、踊り場です」


 彼女が椅子の背から離れた。離れた分だけ、机の向こうが近くなった。


「あの人の部屋の、真下です」




 一度目は、四年目の六月だった。


 その月の持ち場は西の門だ。西の門から北棟の階段まで、三百十歩ある。


 落とす条件のうち、持ち場から遠くない場所であること。それが最初に壊れる。


 順に話した。


「四年目の五月に、掃除方の刻に十九段を上がった者がおりました」

「掃除方は、朝でございます」

「朝です。上がったのは掃除方ではありません」

「……」

「三日続きました。月の終いの三日です」


 掃除方の割り当ては詰所にも回る。北棟三階は月に一度だ。


 三日目の夜に、詰所で束を借りて半年ぶんを並べた。どの月も一度きりだった。返したとき、月が替わるまで一晩しかなかった。


「その月の配置の紙に、北棟三階の用は一つも書かれておりませんでした」

「用のない方が、上がられた」

「そうです」

「わたくしは、その方に会っておりません」

「昼に、あの部屋の扉は開いております」

「開けております」

「開いている部屋に上がった者が、開けずに降りたことになります」


 彼女は指を綴りの背へ当てた。当てただけで、繰らなかった。


「六月の一日は、西の門ではございません」


 頷いた。


「北棟の階段の踊り場でございました」

「そうです」

「鐘が四つ鳴った後。拾った者、宮内府のリンド」


 その名は自分の口から出ていない。


「三百十歩です」

「歩数を」

「非番の朝に歩きました。落として、門へ戻りました」


 六月の朝の踊り場に、日は差さない。窓は一つきりで、明るさだけが降りて、十九段の下までは届かない。


 包みを板の縁へ置いた。板は湿っていて、指の腹が離れるまでに一拍かかった。真ん中に置けば、上がる者の足が先に触れる。触れれば蹴る。


 四段降りて、見上げた。板の色に紛れていない。三百十歩を戻った。




 二度目は、五年目の二月だった。その月の持ち場は南回廊だ。


 書役が二度上がった話を詰所で聞いたのは、一月の末だ。月が替わるまで、二日あった。


 月の名から言った。


「五年目の二月です」

「……五年目の二月」

「その月の持ち場は、南回廊でした」

「南回廊から、北棟の階段まで」

「二百四十歩あります」

「非番の朝に」

「歩きました。持ち場の近くには落としておりません」

「遠うございます」

「遠い場所です。人の通りも、多くありません」

「三つのうち、二つ」

「二つ壊しました」


 二月の踊り場は乾いている。板は冷たいだけで、置いた指の腹はすぐに離れた。


 縁へ置いて、階段を降りた。降りてから、二つ目を壊した意味に気づいた。


 人の通らない場所へ置いた物は、誰にも拾われない。拾われなければ、行は一つも増えない。


 増えない行のために、二百四十歩を歩いたことになる。


「掃除方があの階を上がるのは、月に一度でございます」

「その一度は、前の月に済んでおりました」

「では、あの朝は」

「昼まで、誰も通りませんでした」

「その月の一日も、踊り場でございました」

「……」

「鐘が三つ鳴った後。拾った者、アーレンス」


 自分で落として、間を置いて、自分で拾った。十九段を上がった四十一回のうちの、一つがそこにある。


 落ちておりました、と言った。落ちていた場所だけは、本当のことを言った。


 届けた朝は、書き終わるまでの間がいつもの月より長かった。


 見に行けば、見に来た用を言うことになる。


 書役が三度目に上がったのは、落とした後だ。彼女が言った。


「二月の三日に、書役の方が品をお尋ねに参りました」

「伺いました」

「落とされた日と場所を、仰せになれませんでした」

「はい」

「お返ししておりません」


 あの帳面の、片方だけの手袋の行の下に小さく足された字と、一字も違わない。


 置いた側の行は、どこにもない。




 三度目は、十年目の十二月だ。


 その月の持ち場は東棟の階だった。東棟の階から北棟の階段の下まで、三百八十歩ある。


 十二月に、配置の紙が替わった。紙のことから言った。


「その月の紙から、北棟三階の巡回が消えました」

「消えた」

「前の月まで、日に二度でした。十二月は一度も入っておりません」

「どなたがお書きになった紙でしょう」

「書いた者の名は、配置の紙に入りません」


 人が上がってきた月なら、その人を見ればいい。人が減った月は、見る相手がいない。


「紙が下りたのは十一月の末です。三日、迷いました」

「三日」

「十二月の一日の朝に歩きました」

「三百八十歩を」

「凍っておりました。東棟から北棟までの渡りは、日の当たらない側だけが白くなります」

「……」

「手袋を外しました。外さなければ、結び目が解けません」

「……あの月の頁は、字が太うございました」

「先刻、伺いました」


 同じ朝に、机の両側で指が同じだけ固まっていたことになる。


 こちらの指は、あの帳面のどこにも出ない。


「落として拾われなければ、何も起きません。拾われても、行が一つ増えるだけです」

「増えます」

「増えた行を繰って場所が違うと気づけば、その月は扉を余分に見る。そう考えました」


 そこまで口にしてから、机の上を見た。彼女は何も書いていない。


「十二月の一日でございます」

「はい」

「北棟の階段の踊り場。鐘が二つ鳴った後。拾った者、アーレンス」

「……はい」

「あの月に、余分な扉を見た覚えがございません」

「……」

「見る用が、ございませんでしたので」


 人を引いた紙は、あの部屋の中からは見えない。見えない物を見ろと、板の縁に置いた。




 四度目のことを、順に話すつもりで来た。


 昨夜、荷札の裏へ書き出した三十二の場所から、四つの月だけを指で押さえた。押さえるまでは、四つとも同じ形をしていると思っていた。


 並べてみると、三つ目までが揃っている。人が上がる。人が上がる。人を引く紙が出る。どれも十九段の話だ。


 四つ目だけ、階段が出てこない。紙から話した。


「四月一日の配置の紙は、二月のうちに下りました」

「早うございます」

「大広間の立哨が、いつもの月の倍でした」

「……」

「何のための夜会かは、当日まで誰も申しません」


 紙に出るのは人数と刻だけだ。数が倍なら、人が集まる。


 誰が何を言うかは、紙のどこにも書かれていない。


「四月一日。持ち場、大広間。立哨、アーレンス」

「……お書きになった行でしょうか」

「日誌の欄です。自分の字です」

「はい」

「大広間から、北棟の階段の下まで四百二十歩あります」


 三つの条件のうち、二つ壊した月が三度あった。四度目も同じ数だ。


 違うのは、その日に限って同じ道を二度歩いたことだ。


「それでも、そこへ落としました」

「四百二十歩を」

「朝に歩きました。昼を過ぎて、もう一度戻りました」

「二度」

「拾われるまでを、見ておりませんでしたので」

「見届けに」

「夕刻から、大広間です」


 あの朝、十九段の下で一度足を止めた。上がるか、踊り場までにするか、決めていなかった。決めていない足は、踊り場で止まった。


 そこから上は十四段だ。十年、下から数えた段だった。


 板の縁へ置いて、上を見た。扉の下から灯りは漏れていない。日の高い刻に灯りを点ける人ではない。


 彼女は綴りの角を揃えた。指が二度、同じ縁をなぞる。二日、この人が黙るときは必ずこれをする。


「四月一日でございます」

「はい」

「片方だけの耳飾り。四月一日。鐘が六つ鳴った後。北棟の階段の踊り場。拾った者、記載なし」

「……記載なし、です」

「字を書けない者がおります」

「下働きの少年です」


 昼を過ぎて戻ると、包みは板の縁にあった。窓は腰の高さから上が抜けていて、踊り場と十九段の上半分が見える。


 鐘が四つ鳴った。五つ鳴った。窓の下から動かなかった。


 六つ鳴った後で、少年が上がってきた。包みを抱えて十九段を上がっていく。板の軋む音が、上の階で止まった。


 上がる背は速い。届ければ褒められると思っている速さだ。


 名を書けない者が拾った。四つ目の欄は空いたまま残る。


 落とした者を書く欄は、初めから無い。


 空いた欄と、無い欄が、あの帳面の最後の一行に並んでいる。




 墨壺の蓋が開いたままだ。この人はまだペンを取っていない。


 ネリーが札の束を抱えて立ち上がった。控えを二枚だけ抜いて、残りを机の端へ置く。


「ヴァレンティ様。詰所へは、わたくしが」

「お願いします」


 娘はこちらの脇を二歩で通った。入ってきたときは三歩空けている。一歩詰めたのは向こうだ。


 詰めた側は、詰めたことを言わない。




 四つ目のことが、まだ半分残っている。


「四度、と申し上げました」

「はい」

「四度とも、届いておりません」

「……」

「四つ目は、間違えております」


 彼女が顔を上げた。


「あの朝、あそこではありませんでした」

「踊り場では」

「危ないのは、あの部屋ではなかった」

「……」

「あの晩、俺は大広間におりました」


 言ってから、自分の声の低さに気づいた。近衛の返事の高さではない。


「四百二十歩を朝に歩いて、夕刻に大広間へ入りました。人垣の中に、あなたがおられました」


 彼女は何も言わない。


「二歩、詰めました。三歩目は出ておりません」


 革靴の底が大理石を二度鳴らして、その音が耳へ届いてから、動いたことに気づいた。三歩目の前に、壇の向こうの近衛がこちらを見た。止めたのは自分だ。


「……存じませんでした」

「見たのは近衛だけです」


 二歩詰めても、楽と杯の音のほうが近かった。


「あの晩、あなたが何と答えられたかは聞いておりません」

「……」

「一月ほどのちに、式部官が扇の包みを持って十九段を上がってまいりました。あの方から伺いました」

「何と、伺われましたか」

「ございません、と。それだけです。一度で、はっきりと」

「……そう申し上げました」

「二歩では、聞こえません」


 彼女は綴りの角へ指を戻した。動かさなかった。


「人垣が散るとき、あなたの足元へ扇が一つ滑ってまいりました」

「覚えております」

「指が半分伸びて、そこで止まりました」

「拾えば、持ち主をその場で尋ねることになります」

「そう見えました」

「伺える場では、ございませんでした」

「三歩の位置から、止まるところまで見ておりました」


 その時、こちらの指も剣の柄の上で同じ形に止まっていた。形が同じだったことは、言わずに置いた。


 その二歩のことは、日誌に書いていない。異変の有無の欄に、無し、と書いた。


 書いた手も自分の手だ。


「あの朝の一つは、合図にはなりませんでした」

「……」

「合図になっていたところで、あの晩は変わりません」




 彼女は羽根ペンを取らなかった。取らずに言った。


「四度とも、書いております」

「はい」

「書いて繰って、また書きました」

「……」

「いつもの月と同じに書きました」


 それだけ言って、口を閉じた。


「四度とも、気づいておりません」


 言い返す言葉を探したが、この人が言ったのは事実だけだ。事実には返す用がない。


「気づかれる形にはしておりません」

「……」

「気づかれれば、警備の紙から読んだものを一人へ渡したことになります」


 十年、そこで止めた。


「アーレンス様は、四度とも一日に落とされました」

「二日でも、三日でもなく」

「聖ミルダの日です」

「あの習わしがなければ、毎月一つ落ちる物を誰かが必ず数えます」


 紛れさせるために選んだ日を、この人は十年、一つずつ数えていた。


「十年で、百二十でございました」


 数は合っている。


「そのうちの四つでございますね」

「四つのうち、二つは自分の名が入っております」

「入っております」

「四十一のうちの、二つです」


 三年前、宰相閣下に一度だけ言われた。あなたの名も、幾つも出てきた、と。


 幾つ、ではない。四十一だ。数えているのは自分だけだと思っていた。机の向こうから、同じ数が返ってきたところだ。


 その四十一のうち、伝える用のあった行は二つしかない。あとの三十九は、ただ十九段を上がった回だ。


 残りの七十九は、拾った誰かの名の下に置かれている。洗い場の者。灯り係。厨の下働き。


 どの行も、落ちていた物の話しかしていない。




「アーレンス様」

「はい」

「四度目の朝、あの階段を上がってはくださいませんでしたか」


 上がれば、扉を叩くことになる。叩けば、この人は開ける。


 開けた先で言えることは、十年ぶん探して一つも見つからなかった。


「……用が、ありませんでした」

「拾得物がございます」

「拾っておりません」

「では、落とし物です」

「落とした者を書く欄が、ありません」


 彼女は綴りの縁から指を離した。


 離れた指は、こちらの側へは来なかった。


「十年、その欄を作らずに書いてまいりました」

「作れば、落とされた方のお名前を誰かが読みます」

「……」

「読める帳面は、いつか誰かの役に立ちます。役に立つ帳面は、誰かを指します」


 この人が十年守った線だ。


 自分の引いた線と、向きが違うだけで同じ形をしている。


「アーレンス様」

「はい」

「四度、歩いてくださいました」

「歩いただけです」

「三百十歩と、二百四十歩と、三百八十歩と、四百二十歩です」

「合わせて千三百五十歩でございます」

「……」

「十年で、それだけでございますか」


 答えられなかった。


 千三百五十歩は、四回ぶんの往路だ。復路を入れれば二千七百になる。


 城の門から下町の坂までは千二百歩ある。往復で二千四百歩。あの坂は、月に一度、十年通った。二月も通えば、十年ぶんの四回を越える。


 あの人の側へ歩いたのは、四度きりになる。


「テオドール様」


 顔が上がった。上がってから、上げた理由が分からなくなった。


 十年と三年、この人が自分へ向けた名は五文字だった。


 いま出たのは、違う五文字だ。


 名を呼ばれた側は、退がる先が無い。要人からは三歩、物を渡す者からは二歩半。十年ぶん体に入った数のどれも、この一言には当てはまらなかった。


 机までは四歩ある。四歩のまま、間合いだけが消えた。


 息を吸ったとき、上着の内側で留め金が肋に当たった。三年、歩くたびに同じ場所へ当たってきた物だ。


 今日も、そこにある。


「……はい」


 喉の途中で直さなかった。


 十年、この返事を四十一回した。四十一回とも、その前に名は付いていない。


 四十二回目だ。数えてから気づいた。




 彼女が言った。


「一つ、お願いがございます」

「何なりと」

「昨夜、書き出されたものがおありでしょう」

「……荷札の裏です」

「拝見できますか」


 上着の内側から紙を出した。留め金の当たる側とは、逆の内側だ。


 机の上へ置いて、二寸だけ向こうへ押した。上着の内側から机を渡ったのは、これが初めてだ。


 彼女は紙を開いた。場所が出てきた順に並び、抜けた月の分だけ間が空いている。


「三十二ございます」

「百二十のうちの三十二です」

「落とされた方の記憶でございますね」

「四分の一しか出ませんでした」


 彼女は紙を机の端へ寄せ、角を綴りの角と揃えた。それから、折り目の墨の薄い場所を指の腹で二度なぞった。


「畳んで、お持ちでしたか」

「昨夜からです。宿の卓が狭うございました」

「……そうですか」


 彼女は新しい紙を一枚引き寄せた。麻の筋の粗い、この土地の紙だ。


 羽根ペンを取り、上端に線を引いた。定規を当てずに引かれた線が、机の縁と平行だった。


 列が四つできた。


 日付。時刻。場所。拾った者の名。


 手が止まらずに、五本目の線を引いた。


 線の太さは四本目と変わらない。迷った者の線は、途中で細くなる。細くなっていない。


 四つの日付を書いた。四年目の六月一日。五年目の二月一日。十年目の十二月一日。四月一日。


 時刻を書いた。場所を書いた。四行とも同じ字が並ぶ。北棟の階段の踊り場。


 拾った者の名を書いた。三行に名が入り、一行は空いた。


 五つ目の列に、同じ字を四度書いた。


 テオドール・アーレンス


 字の頭が左へ少し倒れる。関所の記帳簿で見た癖とは、逆の倒れ方だった。


 空いた欄の右に、名が入った。


 窓から入った光が、麻の筋を横に照らしている。墨は筋に沿って四方へ入らず、書いた形のまま止まっていた。


 こちらは机の前から動いていない。指が上着の内側へ行きかけて、途中で止まった。


 三年、そこへ手をやる癖がついた。今日は、出す用が無い。


 墨が戻らなくなるまで、彼女は紙から手を離さなかった。

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