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第22話: お返しします、と城が言った

 壁の向こうの読み上げが、名を一つも読まずに止まった。


 門番が声を出すのは荷を連れた者のときだけだ。荷のない者は、名簿に載らない。


 五月の半ばは、一日に二十を越える。荷の数も、綴りに増える行の数も同じだけ増える。


 十一日前に引いた五本目の線の紙は、去年の綴りのあいだに挟んである。挟んだまま、まだ動かしていない。


「ヴァレンティ様」


 ネリーが札の束を抱えたまま立った。


「代官殿が、こちらへ」


 ハルトマンは扉を三分の一だけ開けて、中へは入らなかった。


「王都からのお客人でございます」

「どちら様でしょう」

「……お名乗りになりません」

「荷は」

「ございません。馬が四頭と、紙が一つと伺いました」

「四頭で、お一人でございますか」

「お三方は、馬から降りておいでになりません」


 紙が一つ、と代官は言った。この人は物を数える言い方しかしない。




 外套の裾に八日ぶんの土がついていた。乾いて、粉になりかけている。


 脱いで腕にかけたところで、下の襟が見えた。三年前、二段高い壇の上で横から見ていた縫い方だった。


「殿下」


 膝を折りかけて止めた。ここは土間だ。折れば膝に土がつく。


 止めた形のまま、頭だけ下げた。


「そのままでいい」


 ハルトマンが扉を閉めていった。閉めるとき、こちらを一度見た。


「代官殿は、中をご存じですか」

「知らない」

「使いを出せば、使いは中身を知らずに運ぶ」


 彼は机の前に立ったまま座らなかった。座る椅子が一つしかないことに気づいた顔ではない。


「私は、知っている」




 紙が机の上に置かれた。


 王都の紙には、麻の筋がない。指の腹をどこにも引っかけずに滑っていく。


 厚手だった。裏へ字の抜けない紙だ。抜けては困る用にしか使わない。


 三年前にも、同じ選び方をした者がいたことになる。


 四列がある。


 日付。時刻。場所。拾った者の名。


「……遺失物の書式でございます」

「そうだ」

「どちらが、お書きになりました」

「宰相府だ」


 列の下に、書式にない一行が足してあった。


 右の品を、規則により持ち主へお返しいたします。


 指が止まった。


 その下に、欄が一つ空いている。


 受け取った者の名。


 十年、人に書かせてきた欄だった。差し出して、ここへどうぞと言い続けた欄だ。


 右下に判がある。押し跡へ指を置いた。縁が、右下だけ薄い。


「宰相閣下の判でございますね」

「そうだ」

「……はい」




「品は」

「あの十冊だ」


 指の腹が、紙の縁で止まった。止めたまま、次を待った。


「監査の、最後の争点になった」

「争点でございますか」

「財務府の書役が申し立てた。あの十冊は公爵家の私物であって、城の記録ではない」

「……ヴェルナー様でございますか」

「書役の名まで知っているのか」

「五年目の二月に、一度お目にかかりました」


 財務府の書役が一人、北棟の十九段を上がってきた日がある。片方だけの手袋を尋ねに来た人だ。日と場所を仰せになれなかったので、お返ししていない。名の欄にも、何も書いていただけなかった。


「通った」


 彼は言い足さなかった。言い足さない言い方をする人ではなかったはずだ。


「城には、あれが城の物だと書いた紙が一枚もない」

「……」

「三年前、宰相閣下は遺失物の書式であれを取り寄せられた。拾った者の欄に、ご自分の名を入れて」


 紙を裏返して、彼が四行を読んだ。


「五月九日。鐘が四つ鳴った後。宰相府執務室。ギルバート・ハーゼル」


 その日は、麻布と縄で荷を括っていた。縄は台帳の綴じ糸とまるで違う手触りで、指の皮が二日ひりついた。


「遺失物は、名乗り出た持ち主に返す。それが規則だ」

「わたくしは、名乗り出ておりません」

「そこも争われた」

「……」

「十冊目の最後に、署名がある」


 喉の奥が浅く鳴った。


「十年分あります。全部わたくしが書きました」

「あれが、名乗りだと読まれた」


 名乗り出た持ち主に返す、と規則は書いてある。十冊の終いに名を書いた者が、その持ち主として読まれたことになる。


 次に来る者が困らないように、手順を三行書いた。四行目に名を書いたのは、訂正の署名と同じ書き方をしただけだ。


 書いた。書いたものは、書いた通りに読まれる。十年、そのつもりで書いてきた。


「宰相閣下は、何と」

「規則が通っている、と」

「……」

「止める紙を書けば、それも記録に残る」


 右下の薄い縁へ、指がもう一度いった。


「あの方は、ご自分で書いた四行を消せない」




「受け取れば、どうなりますか」

「十冊が私文書になる」

「三年、あの行を証しに使ってきた。その日その場所にいた者を、行から引いて呼び出した」

「……」

「呼ばれて名を書いた者が、二百七十一人いる」

「名を、伺えますか」

「全部か」

「三つで結構でございます」


 彼は紙の裏の控えへ目を落とした。字が小さい。


「洗い場のグレーテ。灯り係のミヒェル。宮内府のリンド」

「一番でございます」

「何がだ」

「グレーテの名は、一番に出てまいります」


 銀の匙一本。十三年前の四月十四日。鐘が三つ鳴った後。西回廊の階段の下。拾った者、洗い場のグレーテ。


 口に出してから、机の上を見た。何も引いていない。


「……見ずに言うのか」

「はい」

「二百七十一の署名は、私文書からは引けなくなる」


 その二百七十一の一つが、灯り係のミヒェルだ。五年目の十一月十九日に、南回廊で片方だけの手袋を拾って、十九段を上がってきた少年だ。


 日付と場所と自分の名を書いて、降りていった。書いた者の名から根が抜ければ、書かれた日も一緒に落ちる。


 二百七十一は、名を書いてから三年、それぞれの持ち場に戻っている。書いた紙が何になったかを、まだ誰も知らない。


「受け取らなければ、どうなりますか」

「別の申し立てが立つ」

「どのような」

「公爵家が、城の物を十年持ち出していた」

「……一度でございます」

「一度でも、十年ぶんだ」


 紙の端を押さえた。押さえた指の下で、紙が一度も鳴らない。力を足しても、同じだった。


「ヴァレンティ家に累が及ぶ。北の遠縁もだ」


 指の下で、紙はまだ鳴らない。


「それから、この領の交易許可の更新がある」

「フェルデンの」

「更新の決裁は宰相府が出す。出所の争われている紙が絡めば、その年は出ない」


 交易期は雪で街道が閉じるまでだ。半年で三百に近い隊商が越える。越えられなければ、越えない。


「どなたが、損をなさいますか」

「関所と荷主と荷方だ。宿もだろう」

「詰所の者も入ります」

「……そうだな」

「十冊は、今どちらに」

「宰相府だ。机の上ではない。閣下の背の棚に、三年ある」

「……はい」

「受け取ると書けば、六月のうちに荷が出る」

「荷でございますか」

「十冊だ。両手のいる荷になる」


 机の右手に、今朝数えた割り符が積んである。木札に麻縄を通しただけの札だ。


 一枚が一つの荷で、一つの荷に人が三人から六人つく。


 指が、上から順に札を数えはじめていた。数えても仕方のないものを数えていた。


 十年、あの部屋の代わりに差し出せる物は、鍵と自分の名前しかなかった。どちらも自分の物だから、渡すのに誰の断りも要らない。


 机の上にあるのは、そのどちらでもない。




「一つ、伝えるように言われた」

「はい」

「侯爵家のことだ」

「……」

「十一月十九日。あの一日で、十五年ぶんが繰り直しになった」

「不在と書かれた週が、十五年で二十二あった。二十二とも、決裁は次席だ」


 財務卿が城を空けた週は、次席が代わりに判を押す。綴りに残るのは次席の二字で、名は書かれない。


「次席の方は」

「二十二とも、同じ名だった」


 二十二週ぶんの判を押した名を、今日はもう一度聞いている。あの十冊を公爵家の私物だと申し立てた、財務府の書役の名だ。


「侯爵は、去年の秋に爵位を返した」

「存じております」

「残ったのは、二十二週の方だ」


 十冊が私物に落ちれば、二十二週の判は誰のものでもなくなる。




 壁の向こうから、木札の打ち合う音が近づいてきた。


 扉が開いて、ネリーが束を抱えて入ってきた。二歩入って、そこで足が止まった。


 束を抱え直す。指を組み替えて、また元へ戻した。


「……ザントベルク嬢か」

「殿下」

「ここにいたのか」

「はい」

「いつからだ」

「二年と十月でございます」


 娘は束を胸の前に持ったまま、机の端へ置かなかった。


「殿下」

「なんだ」

「一つ、お答えしてもよろしいでしょうか」

「……」

「三年前に、お尋ねになりました」

「何をだ」

「ヴァレンティ様は、お元気でいらっしゃいますか」


 彼の指が外套の裾を掴んだ。掴んで、離した。


「……言った」

「殿下は、知らないと仰いました」

「言った」

「お答えできる者が、今ここにおります」


 束の角が、娘の腕の内側に食い込んでいる。


「ヴァレンティ様は、お元気でいらっしゃいます」


 腕にかけていた外套が半分落ちた。拾い上げるまでに間があった。


 彼は何も言わなかった。言わないまま、机の上の紙へ目を落とした。


「あの席を決めたのは、私ではなかった」

「存じております」

「……」

「席を決めたのは、殿下ではありません」


 二年と十月前に、こちらがこの娘へ言った言葉だった。


 返す先が、今日決まったことになる。


 ネリーは束から控えを二枚だけ抜いて、残りを机の端へ置いた。


「ヴァレンティ様。詰所へは、わたくしが」

「お願いします」


 娘は彼の脇を通って出ていった。空けた幅は、入ってきたときと同じだった。




「もう一つある」

「はい」

「これは、紙になっていない」


 彼は机の上の紙を一寸だけこちらへ押した。押してから、手を戻した。


「宰相府が、あなたを城へ戻したいと言っている」

「……」

「記録官としてだ。北棟ではない。宰相府の中に部屋を作る」

「管理官がおいでのはずでございます」

「三年、書いている。字は達者だ」

「では」

「十年ぶんを引ける者がいない」


 彼は初めて椅子の方を見た。見ただけで、座らなかった。


「私が言うことではないと、宰相閣下は仰った。それでも私が来た」

「お断りいたします」


 自分の声が、思ったより早く出た。


「理由を聞いてよいか」

「ここは、動きません」


 彼はそれ以上尋ねなかった。


 この言い方は、十年あの部屋で使った。使うたびに、相手はいつでも来られるという顔をして帰っていった。


 今日は、行かないという意味で出ている。


「ヴァレンティ嬢」

「はい」

「私は——」


 外套を持つ手が、襟のところまで上がって下りた。


 三年前、壇の上でこの人は杯の脚を同じ場所で握り直した。あのときの手の高さと同じだった。


「……セラフィナ嬢」

「ラウレンツ様」


 十年、この方を呼ぶ言葉は二文字で足りていた。


 今日は足りなかった。


 彼は一度だけ頷いた。頷き方に、誰かの真似が入っていなかった。


「……それで、いい」




「もう一つ、頼みがある」


 外套の下から、綴りが一冊出てきた。


 布に包んでいない。裸のまま八日運んだ綴りだ。角が丸くなって、天が波打っている。


「十三年前の綴りだ」

「儀典の」

「そうだ」


 背から綴じ糸の端が二寸垂れていた。指で撚りを見た。仮綴じのまま三年置いた糸は、撚りが戻る。戻った糸は、通せば必ずどこかで折れる。


「三年、閉じられずにいる」

「……」

「日が一つ入らない。婚約の、成立の日だ」

「年は」

「年は残っている。日がない」

「儀典長様は」

「探した。宮内府にも、近衛の日誌にもない。三年だ」


 三年、この人はこの一冊を持って歩いている。


「私は今、儀典の綴りを閉じ直す役に就いている」

「……」

「十三年ぶんで、日の入っていない綴りが百四十一冊あった。今日までに百四十冊閉じた」

「どなたがお閉じになりました」

「私だ」

「自分で見つけた日は一つもない。全部、人に聞いて回った」

「王家は」

「何も仰らない。私に、これをさせておられる」

「あの晩、母上は扇を一度お閉じになった。それきりだ」


 閉じられない一冊が、最初から一冊だけ残ることになっていたのだと分かった。


「お尋ねでございますか」

「頼んでいる」


 十年、頼まれてから引き受けてきた。一度だけ、頼まれずに言ったことがある。


 今日は、頼まれている。


「十三年前の四月十四日でございます」


 彼の指が綴りの上で止まった。


「……先ほど、同じ日を聞いた」

「一番の日でございます」

「……」

「その日に、城へ上がりました。上がったその日に、最初の落とし物をお預かりしました」

「銀の匙」

「銀の匙一本でございます」

「だから、覚えているのか」

「はい」


 彼は綴りを机の上で開いた。空いた欄が一つある。頁の他は全部埋まっている。


 自分の手で日を入れた。字は速くない。日付を書き慣れた手ではなかった。


 書き終えて、糸を通した。針を使わずに指で押し込んだので、二度戻ってきた。


 結び目が二つできた。高さは揃っていない。


 指が伸びかけて、膝の横で止まった。


 この綴りは、この人の綴りだ。


「これで、閉じる」




「六月の末までに、返事をくれ」

「……承知しました」

「どちらでもよい、とは言えない」

「私は、どちらがよいかも言わない」

「……」

「それだけは、自分で決めた」


 外套を着るあいだ、裾の土がぱらぱら落ちた。落ちた分は、この土間の土と見分けがつかなくなった。


 扉が閉まった。しばらくして、馬が四頭、南へ出ていった。


 窓の外、柵の杭の外側に人が一人立っていた。荷を連れていない。門番の声に載らない者だ。


 馬の去った南を向いたまま、動かない。こちらからは背しか見えない。


 肘が一度上がって、下りた。上着の内側へ触れる高さだった。この時期、柵の外で順を待つ者は珍しくない。


 机の上の紙は、置かれた向きのままだった。指は、まだ触れていない。




 ネリーが戻ってきた。


「ヴァレンティ様」

「はい」

「……お客様は」

「お帰りになりました」


 娘は札の束を机の端へ置いて、扉の方を一度見た。誰も入ってこなかった。


 今年の荷主の綴りを引き寄せた。北の街道の分だ。


 ザントベルクの名が、四行ある。


 三年前は一行もなかった名だ。荷は麻袋と樽で、一つずつ数が増えている。


 綴りを閉じた。


 王都の紙を手前へ寄せた。


 四列は埋まっている。日付。時刻。場所。拾った者の名。


 名を書く欄が、一つだけ空いている。


 十年、この欄が空いたままの紙を人に渡したことは一度もない。渡すときは必ず、書いていただいてから渡した。


 六月の末まで、四十八日ある。


 窓から風が入って、紙の端が持ち上がった。


 割り符の木札を一枚、欄の上に置いた。


 麻縄の撚りは右へ向いている。東の関所の札だ。


 紙は、動かなくなった。

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