第23話: 四千二百八十一の手
机の右は、八日、置いた日のままだ。
王都から来た紙は、端の一つも反っていない。
指を縁へ滑らせた。今日もどこにも引っかからない。
割り符の木札は、まだその上に乗せてある。重しの要らない紙に、重しを置いている。
六月の末まで、四十日ある。
「ヴァレンティ様」
ネリーが控えの束を胸に抱えて立っていた。
「西の分でございます。四十一枚ありました」
「控えと同じです」
娘は束を左の端へ置いた。王都の紙のある側は、八日避けている。
「あの紙は、お返しになるのでしょうか」
「まだ決めておりません」
「四十日でございますね」
「数えておいででしたか」
「……朝に、一つずつ減らしております」
娘は札の束へ手を戻した。上の一枚が滑って、机の縁で止まった。
昼までに荷が七つ越えた。数の合わない列はない。
今年から、控えの様式が替わっている。日付、荷主、荷の数。その隣に、記した者の名を書く欄がある。代官が作らせた欄だ。
束を上から順に当たっていった。ハウク。レンツ。ヴィム。ネリー・ザントベルク。セラフィナ・ヴァレンティ。
欄の幅は狭い。狭いところへ字を詰める手は、癖が出る。
指の腹で、名の並びをなぞった。
「ヴァレンティ様。その欄は、書いた者の欄でございますね」
「そうです」
「わたくしの字が、いちばん丸うございます」
「読める字なら、それで足ります」
言ってから、指が止まった。
止まったのは欄の上ではない。何も置いていない木目の上だった。
十年、あの帳面には四つの列があった。日付。時刻。場所。拾った者の名。
三つは自分で書いた。どれも、聞いて書いた。
四つ目だけは、書いていない。
そこに日付と場所とあなたの名を、と言って、帳面を相手の方へ回した。羽根ペンを渡して、書き終えるまで待った。インクの盛り上がりを指の背で確かめてから、引き取った。
十年、四千二百八十一回、そうしてきた。
四つ目の欄の字は、一つとして自分の手から出ていない。
十冊目の最後に書いた四行を、そのまま思い出せる。
十年分あります。全部わたくしが書きました。
全部わたくしが書きました、は正しくない。
四つ目の欄の四千二百八十一行は、書いた本人の手から出ている。
「ネリー様」
「はい」
「三年、監査で呼ばれた方が二百七十一人おられます」
「先日のお客様が仰った数でございますね」
「城は、その二百七十一をどこから引いたと思われますか」
「……名簿でしょうか」
「行からです」
「行」
「その日その場所にいたと分かる行が、帳面にございました。行から名を引いて、呼び出しました」
「では、行がなければ」
「誰も呼べません」
娘の指が束の上で止まった。
「行は、幾つございますか」
「四千二百八十一です」
「その差は、何でございましょう」
「呼ばれなかった方です」
二つの数は、別のものを数えている。片方は人の数で、片方は行の数だ。
「同じお名前が、何度も出るのではありませんか」
「出ます。四十一度ある名もございます」
「では、人はもっと少のうございますね」
「人は少なくなります」
「……はい」
「行は減りません」
四千二百八十一の行に、四千二百八十一回、誰かが自分の名を書いた。行の数だけ、書いた手がある。
同じ名が四十一度あっても、四十一度とも日が違う。違う日に書いた手は、違う手として並んでいる。
「ネリー様。この控えは、どなたの物でしょうか」
「記録所の物でございます」
「ハウクの名の行は」
「……ハウクが書きました」
「書いた者の物でもございます」
娘が束の角を揃え直した。揃えてからも、手を離さなかった。
「あの十冊も、同じでしょうか」
「同じです」
あの帳面の持ち主は、城でもわたくしでもない。
四千二百八十一の行を書いた者たちだ。
十冊は、もう私文書になる。決まったことは覆らない。
覆さなくてよい。
「ネリー様。写しを一冊作るのに、何日かかると思われますか」
「写し、でございますか」
「手で写すよりほかにございません」
「……この控えの厚さで、三日はかかります」
「あの帳面は、一冊がその倍ございます」
「十冊で」
「一人でやれば、秋の声を聞くまで届きません」
「では、どなたかにお頼みになるのですか」
「行を書いた方に頼みます。四千二百八十一行ぜんぶです」
娘の口が半分開いた。
「お一人に、一行」
「四十一度ある方は四十一行です。ご自分で書かれた行を、ご自分の手で写していただきます」
「……写した方は、写しの側にもお名前を」
「書いていただきます」
娘は札を置いて、指を数える形に開いた。開いたまま止まった。
「原本は、お受け取りになるのですか」
「受け取ります」
「受け取れば、私文書になると伺いました」
「なります。証しには使えません」
「それでは」
「城の物であるうちは、城の決裁一つで焼けます」
「私文書になれば」
「持ち主の許しがなければ、誰も焼けません」
「三年前の行を、ご本人が今日もう一度お書きになります」
「同じことを、二度」
「二度目は、写した日の名でございます。二百七十一枚は、そこから引けます」
持ち主が一人なら、その一人に許させればいい。許さなければ、退かせればいい。
一人の書いた物は消せる。四千二百八十一の手が一行ずつ写した物は消せない。
名乗り出るまでは、誰の物にもならない。十年、そう決めて棚を守ってきた。
返す先は、行の数だけある。四千二百八十一だ。
返しに行けない。行けないなら、写しを配るしかない。
「ヴァレンティ様。お顔が」
「紙を五枚お願いします」
厚手の紙を選んだ。裏へ字の抜けない紙だ。
一枚目に、受け取ると書いた。
二枚目から、手順を書いた。六つになった。
羽根ペンを軸受けへ戻して、紙を娘の方へ回した。読み違いは読ませれば分かる。
「一つ。十冊は受け取ります。荷は、写しが済むまで出さないでください」
「二つ。四つ目の欄に名のある行を、名ごとに束ねてください」
「三つ。その方をお呼びになり、ご自分の行をご自分の手で写していただいてください。写しの四つ目の欄にも、名をお書きください」
「四つ。城におられない方や亡くなられた方の分は、代わりに写した方が自分の名を添えてください。字をお持ちでない方も同じです」
「五つ。四つ目の欄に名のない行は、こちらで写します。その分の頁の番号をお送りください」
娘の声が、そこで一度切れた。
「六つ。写しを置く部屋は……鍵のかからない部屋に、してください」
「そう書きました」
「鍵を、かけないのでございますか」
「かけません」
「誰でも入れます」
「入っていただきます」
「……持ち出されましたら」
「写しは、一冊ではありません」
娘は紙を机へ戻した。指が六つ目の行にかからない置き方だった。
着任の日に、宮内府の役人から鍵を一つ渡された。合鍵は作らないと言われた。持つ者が増えれば、預かった物が減るからだと。
十年、その通りだった。あの部屋から物は一つも減らなかった。
増えても減らないものが、一つある。
紙を引き寄せて、六つ目の下へ書き足した。
読む者が増えても、書かれた日は減りません。
三年前、宮内府の窓口で鍵を差し出したとき、金属の冷たさが指の熱から離れていった。
もう、鍵はお返しします。
あのとき返したのは、鍵一つだった。今日は、書いた紙が五枚ある。
王都の紙を手前へ寄せた。
右の品を、規則により持ち主へお返しいたします。
その下の欄は、まだ空いている。受け取った者の名。
十年、この欄は人の方へ回してきた。
回す相手がいない。
羽根ペンを取った。削り口の角が、親指の腹に当たった。
欄の左端から書いた。セラフィナ・ヴァレンティ。
訂正の署名と同じ字になった。十年、この形しか書いていない。
王都の紙は、書いても指へ何も返さない。麻の筋がないからだ。
残らなくても、字は残る。
乾くのを待って、五枚と重ねた。封蝋を落とし、荷の綴りに一行書いた。
五月二十一日。王都行き。書状一。宛先、北棟三階、遺失物保管室。
差出人の名を書く欄はない。名は、封の中にある。
昼前に、ハルトマンが記録所へ寄った。
「ヴァレンティ殿。交易許可の更新の紙が、いつ下りるかを辺境伯が気にしております」
「例年通りに下ります」
「例年通り、と辺境伯にお伝えしてよろしいか」
「お伝えください」
「王都からのお客人の用は、済んだということでよろしいか」
「今朝、返事を出しました」
「中身は」
「代官殿の用ではございません」
「……そうですな」
「一つだけ申し上げます。この領の紙は、止まりません」
「それが伺いたいことでした」
ハルトマンは口の中で数を一つ言いかけて、やめた。
「あなたが損をなさるのでしたら、辺境伯は受け取りません」
「物が一つ、わたくしの物になるだけでございます」
「増えるのですな」
「そうなります」
「北の関所の普請は、去年請けた家へ戻りました。札は番号を打ち直しております」
「控えは、こちらで綴じております」
代官は指を一本立ててから、出ていった。
王都からの荷は、十八日目の夕方に着いた。
「ヴァレンティ様。王都の分でございます」
「厚みは」
「紙の束が一つと、書状が一通きりでございます」
「封蝋は」
「宮内府の紋ではございません。北棟三階と読めます」
窓辺で開いた。区切りの取り方が、番号を読む人の書き方だった。
一枚目に見出しを引きました。その下に四列を引き、こちらで一行書きました。
五月二十九日。鐘が四つ鳴った後。北棟三階。拾った者、エーミール・ブラント。
指が、その四行の上で止まった。
三年、この人を呼ぶ言葉は管理官の三文字だった。
十年、四つ目の欄に名を書かせてきた。書かせておきながら、この人の名を今日まで知らなかった。
書状の続きを読んだ。
一行目から始めました。銀の匙一本。十三年前の四月十四日。西回廊の階段の下。拾った者、洗い場のグレーテ。
グレーテは十年前に亡くなっておりました。四つ目の手順に従いました。
洗濯場で尋ねますと、孫が一人おりました。ハンナと申します。奥向きの侍女で、祖母の顔は知らないと申しております。
一行を写すのに、半日かかりました。
書き終えたあと、白い薔薇の刺繍のあるハンカチを見せてまいりました。祖母の形見だそうです。三年前に一度失くして、返していただいたと申しておりました。
半月と四日だった。三月十三日、王妃の間の前の廊下。指の腹で押すと、糸の玉がひとつだけ高い。
あの侍女は、形見だと誰かに言ったのは今日が初めてだと言った。
名を聞いて、失くした日を聞いて、頁を繰った。その名を、こちらは書いていない。持ち主の名を書く列はない。
書かなかったものは、覚えていない。十年、そういう覚え方をしてきた。
四千二百八十一の行の一番に立つ名は、洗い場の女の名だった。
その行を写した手は、顔も知らない祖母の名を半日かけてなぞった。
書状は、まだ続いていた。
お呼びしても、写しにお見えにならない方が十七人ございました。理由は伺っておりません。
四つ目の欄に名のない行は、五つ目の手順のとおり分けてございます。
その分と、監査で集まった二百七十一枚の署名を、日付と場所で突き合わせております。
署名の紙には、その日その刻にどこにいたかがご本人の手で書かれております。落とした者の欄は台帳にございません。あちらの紙にはございます。
一つ、合いました。
十一年前の十月十一日。鐘が三つ鳴った後。西回廊、噴水の縁。片方だけの手袋。
同じ日の同じ刻に西回廊にいたと署名した者が、一人おりました。宮内府のリンドと申します。
対の片方も棚にあると伝えましたところ、両方とも残っていたのかと二度尋ねられました。
棚の下段は、そのままにしてございます。封を切っていない手紙も二十三通、処分はいたしておりません。
最後の頁の三行目に、そのように書いてございましたので。
奥歯が合わさっていた。合わせた覚えはなかった。
三年前の昼、西回廊を持ち場にする近衛が革手袋を握って上がってきた。名を書いた字は、なめらかだった。
あの人は棚の下段へ目をやってから、こちらへ向き直った。
持ち主が見つかったら教えてください。
承知しました、と答えた。
十年勤めて、こちらから何かを約束したのは、その一度きりだ。
書状の終いに、三行あった。
財務府の書役が、先月から出仕しておりません。二十二週の綴りは宰相府へ移りました。
宰相閣下が、十三年前の綴りの欄外へ一行お足しになりました。当該室、決裁を要する事案あり。前の一行は消しておられません。
写しの一冊目は、鍵のかからない部屋に置いております。北棟三階の、隣の空き部屋でございます。
署名は、四つ目の欄で読んだのと同じ字だった。
エーミール・ブラント。
紙を畳んだ。折り目は、届いたときと同じ位置に落ちた。
新しい紙を一枚引き寄せた。麻の筋が指へ返ってくる紙だ。
宛先を書いた。近衛の詰所気付。西回廊を持ち場にしておられた方の名を、帳面の字のとおりに写した。
四つ目の欄に二十三度ある字だ。二十四度目を、初めてこちらの手で書いた。
用件は三行で足りた。
十一年前の十月十一日に噴水の縁で拾われた片方だけの手袋の持ち主が、分かりました。宮内府のリンド様です。
対の片方は、あなたが届けてくださった品です。二つとも棚の下段にございます。
持ち主が見つかったら教えてほしいと仰いました。お伝えいたします。
日付を入れ、その下へ署名を置いた。封をした。
「ヴァレンティ様。明日の荷に、載せる分はございますか」
「一通あります」
「王都でございますね」
「近衛の詰所です」
机の左の端へ置いた。
右手の割り符の束へ、木札を一枚戻した。麻縄の撚りは右を向いている。東の関所の札だった。
「ヴァレンティ様。その札は」
「戻します。重しが要らなくなりました」
「……二十六日、あの紙の上にございました」
「数えておいででしたか」
「朝に、一つずつ」
机の上に、重しの要る紙はもう無い。




