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第24話: 書く欄がありません

 六月九日の荷は、鐘が二つ鳴る前に出た。


 載せたのは書状が一通きりだ。宛先は近衛の詰所気付。


 荷方へ渡す前に、封の縁を指の腹でなぞった。蝋の山が指を押し返してくる。落としてから、まだ半日と経っていない。


 街道の南へ、荷の背が一つずつ小さくなっていった。


 机へ戻ると、詰所の記帳簿が綴りの右に置いてある。月ごとに借りて、朝までに返す。四月の末から、その習いになった。


 六月の頁を繰る前に、指が四月の二十八日で止まった。


 石工の名が十一並ぶ。荷方の名はその下に、日ごとに減りながら続いている。


 荷の欄が空いている行は、この頁に一つきりだ。


 テオドール・アーレンス


 一度書いた者は、領内を出るまで書き直さない。四十二日、この人の名は記帳簿にこの一行しかない。


 毎日、街道の南から柵の内へ入ってくる。詰所の列が伸びれば端に立って人を分ける。


 荷降ろし場の三番の柱の脇で、荷方に混じって樽を降ろしている日もある。


 どの綴りにも、その名は一度も増えていない。


 三日前、荷方の頭が控えを届けに寄った。


「記録官殿。手を貸してくださる方が、うちの控えに入らんのです」

「日雇いの欄でしょうか」

「銭を受け取られん。受け取らんものは、日雇いに入りません」

「荷主の欄でもございません」

「では、どこへ書けば」

「書く欄がございません」

「困りましたな」

「困ります」


 頭は控えの束を小脇へ挟み直して出ていった。困る、と言いながら、明日も同じ人手を当てにする顔だった。


 頼まれていない者の名を書く欄は、この記録所にもない。




「ヴァレンティ様。西の分でございます」


 ネリーが束を抱えて入ってきた。角が揃っている。


「四十三枚ございました」

「控えと同じです」

「……お数えになりませんでした」

「控えを、朝に数えました」


 娘は束を机の左へ置いて、それから右の紙へ目をやった。


 三十八日、そこにある紙だ。線が五本引いてある。日付。時刻。場所。拾った者の名。その右にもう一列。


「その紙は、どちらの綴りに入りますか」

「入る綴りがございません」

「では」

「置いてあります」


 置いてある、としか言いようがない。帳面は王都にある。


「重しは、要りませんか」

「要りません」

「……端が起きております」

「起きたままで結構です」


 娘は札の束へ戻ってから、もう一度こちらを見た。


「ヴァレンティ様。四十日を数えるのは、もうやめました」

「六月の末まで、まだ二十一日ございます」

「返事は、出ておしまいになりました」

「出ました」

「では、数えるものがございません」

「札がございます」


 娘は笑ってから、数える声を壁の方へ抜けさせていった。二年と十月で、この娘は数える物を自分で見つけるようになった。




 昼を回って、列が切れた。


「ヴァレンティ様。アーレンス様がお見えです」

「お通ししてください」


 扉の外で、上着の埃を落とす音がした。二度で終わる。


 入ってくると、机まで四歩のところで止まる。三十八日、この位置は動いたことがない。


「ヴァレンティ嬢」

「テオドール様」

「荷が、南へ出ておりました」

「一通だけ載せました」

「……西回廊の方でしょうか」

「そうです」

「八日で届きます」


 この人は、道の日数を歩数と同じ言い方で言う。


「手の甲に、麻縄の跡がございます」

「……朝のうちに、樽を四十ほど」

「頭は、控えに書けずにおります」

「銭を受け取っておりませんので」

「受け取られませんか」

「頼まれておりません」


 言った本人は、言ったことに気づいていない顔をしている。


「テオドール様。列を分けておいでだと伺いました」

「詰所の門番は三人です。三人では、二列までしか捌けません」

「三列目は」

「並んだ順が崩れます。崩れた列は、戻すのに倍かかります」

「数えるより早うございますね」

「数える者は、そちらにおられますので」


 柵の外から扉まで十一歩だと、この人は先月言った。その十一歩の脇で、四十二日、誰の綴りにも載らない仕事をしている。


「テオドール様。一つ、伺ってよろしいでしょうか」

「何なりと」

「五月の十三日でございます」


 日付を言うと、この人の目が一度下がった。数える間はなかった。


「あの日、外においででしたか」

「柵の外におりました」

「馬が四頭参りました」

「見ております」

「お尋ねになりませんでした」

「……伺う用が、ありませんでした」


 同じ言い方を、この人は先月も使った。四度目の朝に階段を上がらなかった理由も、それだった。


「こちらも、申し上げておりません」

「四十八日ございました。一度も、申し上げませんでした」

「伺えば、あなたのお決めになる用が減ります」

「申し上げれば、あなたが背負われます」


 肩の力が抜けて、背が椅子に触れた。触れてから、背を起こした。




「テオドール様。その紙のことを申し上げます」


 この人の目が、机の右の紙へ行った。それから、こちらの手元へ戻ってきた。人を見るとき、この人は顔より先に手を見る。


「五本目を引いたのは、五月の二日でございます」

「三十八日、綴じる先が決まりません」

「では、どちらへ」

「置いてあるだけでございます」


 紙の縁を指の腹で押さえた。左の縁に、綴じ穴が一つもない。


 糸を通した紙は、通した跡が指へ返ってくる。この紙は、押しても何も返さない。


「四行とも、あなたが歩かれた日でございます」

「三百十歩と、二百四十歩と、三百八十歩と、四百二十歩でございます」

「鐘が四つ。鐘が三つ。鐘が二つ。鐘が六つでございます」


 鐘の数を言うと、下ろした手の指が動いた。数える形に折れて、すぐ戻った。


「拾った者、リンド。アーレンス。アーレンス。四つ目は記載なしでございます」


 繰らずに出てくる。十年、そういう覚え方をしてきた。覚えていたものが、どれも同じ場所の行だったと分かったのは先月だ。


「気づかなかったのは、四度だけではございません」


「十年で、百二十でございます」

「百二十のうち、こちらから歩いた分がございません」

「一歩もございません」


 あの部屋の机から扉までは五歩だった。十年、その五歩を出たのは物を届けに行くときだけだ。行く先はいつも誰かの落とし物の側で、こちらの用で出たことは一度もない。


「数が、合っておりません」

「数」

「あなたの側にだけ、歩数がございます。こちらの側は零でございます」

「合っていないものは、書いて残します。十年、そういたしました」

「この紙には、書けません」




「ヴァレンティ嬢」

「はい」

「その数は、合わせる数ではありません」

「……」

「順が、逆でした」

「順」

「気づかれない形にしたのは自分です。気づかれなかったのは、あなたの落ち度ではありません」


 四歩の向こうで、この人は姿勢を変えない。立ち方の癖は、三年前からそのままなのだろう。


「十年、そこで止めておいででした」

「そこで止めました」


 止めた、と言う。止めた側は、止めたことを外へ出さない。


「テオドール様。先ほどのお言葉は、こちらを庇うものでございますか」

「庇う用は、ありません」

「では」

「作った者と、気づかなかった者を並べただけです」

「並べていただかなくて結構でございます」

「憐れんでいただく用も、ございません」

「憐れんでおりません」

「では、何でございましょう」

「……数え違いを、直しております」


 直す、という言い方をした。この人は、こちらの合わない数を勘定の側から直しに来ている。


 庇うより始末が悪い。直された数は、こちらの手では戻せない。


「テオドール様。四度は、止まらなかった月でございます」

「四年目の六月に、あなたは西の門から三百十歩お離れになりました」

「離れました」

「持ち場を離れる用は、配置の紙のどこにも書かれておりません」

「……ありません」

「四度とも、ご自分の一線を越えておいででした」

「越えたことを、どこにも書かせておいでになりません」


「拾った者の欄に、四十一度ございます。四十一度とも、拾った方でございます」

「落とした方の欄がございませんので、越えた日は一つも残っておりません」


 この人の十年は、四十一度の署名の裏側に畳んである。表に出ているのは、いつも誰かの落とし物の話だけだ。




「テオドール様。こちらも、同じことをしておりました」

「頼まれていないことは、申しません。十年、そう決めておりました」

「尋ねられた日付だけを、仰っておいででした」

「そうです」

「答えは持っておりました。尋ねられない日付は、指の中へ置きました」


 この人の踵は、板の目一つぶんも動かなかった。


「そう決めておけば、誰にも気づかれずに済みます」


 十年、誰にも気づかれなかった。気づかれないまま、あの部屋を出た。


「形が、同じでございます」

「……」

「向きだけが違います」

「……はい」


「四月の三十日に、代官へ申し上げました」

「頼まれておりませんでした。十年で、初めてでございます」

「……存じませんでした」

「その次の日でございます」

「五月の一日です」

「あなたは、落とさずに持っておいででした」

「はい」

「一日違いでございます」


「十年、二人とも動いておりません」

「……」

「動いた日が、一日違いでございました」


 紙の上で、四つの日付が並んでいる。どれも、動かなかった十年の内側にある日だ。




「テオドール様」

「はい」

「この紙に書けないものを、一つ申し上げます」

「……」

「感じても、書く欄がありません」


 十年、この一言で終わりにしてきた。十年、誰も先を尋ねなかった。


「……欄が、ないのですか」

「ございません」

「作れば」

「作りませんでした」


 言われて、初めてそこへ指が届いた。作れば作れた。作らずに済ませたのは、こちらの手だ。


「三年前の、五月の一日でございます」

「……その日は、南回廊におりました」

「存じております」

「鐘が五つで、指が開きませんでした」

「同じ日でございます」

「その朝、こちらは耳朶の下へ指をやりました」

「……」

「十年、そこに何か下がっていたわけではございません。届いた日は、指が先に覚えております」


 四歩の向こうで、手が左の耳の下まで上がって、止まった。降りるのに、間があった。


「その朝は、何もございませんでした」


 欠けたことが一度もなかったから、欠けた日は目が覚めた瞬間に分かった。理由を探した指は、どこにも見当たらないと返してきた。


 同じ刻に、南回廊で誰かの指が開かなかったとは思わなかった。思う材料が、こちらには一つもなかった。


「その日の昼に、屋敷の階下へ城の使いが参りました」


 水差しを持ったまま、階段の途中で足が止まった。石造りの壁が、玄関の声を思ったより遠くまで運んできた。


「北の使者団の着いた日を、尋ねておいででした」

「答えは持っておりました。四年目の九月の二十二日でございます。献上は、その二日後でございます」

「お答えにならなかった」

「取り次がれておりません。階段の途中で、聞いておりました」

「……」

「誰も困ればいいと思っていました。それだけは、記録に残していません」


 取っ手を握った指の形まで、まだ手に残っている。


「……」

「十年、書き換えたことはございません。書かなかったものが、一つございます」

「……」

「わたしは、あれを書きたくありませんでした」


 言ってから、一文字足りないことに気づいた。


 直さなかった。




「ヴァレンティ嬢」

「……はい」

「自分にも、一つあります」

「四月一日の日誌です。異変の有無の欄に、無しと書きました」

「……」

「二歩詰めた者が、その手で無しと書きました」


 紙の右の端が、目の隅で起きたままだった。


「三年、直しておりません」

「直りません」

「二重線を引けば、引いた跡ごと残ります」

「団長に、同じことを言われました」


 同じ規則で書いている。同じ規則の外に、一つずつ置いてある。


「一つずつでございますね」

「……はい」

「書かなかったものが、一つずつでございます」


「ヴァレンティ嬢」

「はい」

「その一つは、悪いものではありません」

「悪い者に、十年ぶんの日付は書けません」


 言い返す言葉を探した。日付を書ける手と、あの日思ったことは、別の話だ。


 別の話にこそ、返す形が要る。出てこなかった。


 喉の奥が浅く鳴った。三年前、階段の途中で確かめたのと同じ鳴り方だった。




「テオドール様」

「はい」

「立つ場所を、決めかねておいでだと伺いました」

「三年、決まりませんでした」

「今日は」

「……決めております」

「どちらでしょう」

「この机から、四歩でございます」


「近衛の間合いでございますか」

「規則は、返しました」

「では」

「自分で決めた四歩です」


 規則が決めていた四歩と、同じ長さの四歩だ。長さは変わらない。決めた者が替わっている。


 紙を手前へ寄せた。線は五本ある。見出しは四つしかない。


「テオドール様。五本目に、見出しがございません」

「……ありません」

「十年、あの帳面にも無い列でございました」

「書いていただけますか」

「自分が、ですか」

「四つ目までは、書いた方に書いていただいてまいりました」

「この列も、同じにいたします」


 羽根ペンを差し出した。削り口の角が、こちらの親指から離れていく。


 四歩が二歩になった。机の縁で、上着の裾が止まる。


 紙の上端に手を置いて、一度止まった。それから書いた。


 落とした者の名


 字の頭が右へ倒れる。関所の記帳簿で見たのと同じ倒れ方だった。


 インクの盛り上がりを、指の背で確かめてから引き取った。十年、四千二百八十一回してきた手つきだ。


 五本目の列に、字が五つになった。四つはこちらの手で、一つはあちらの手で書かれている。


 窓の外で、繋いだ馬が一度、鼻を鳴らした。それきり静かになった。


 紙は動かない。指の腹に、見出しの段だけが残っていた。

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