第25話: 落とし物では、ありません
結び目は二重だった。
解いた指へ、締めた者の癖が返ってくる。荷の揺れる道を知っている者の結び方だ。
布を開いた。
十冊あった。
王都から街道を十八日、上ってきた荷だ。
辺境フェルデンの記録所の机に、王城の綴りが載っている。交易の割り符と関所の覚書を数える机だ。
五月に、写しが済むまでは出さないでくださいと書いて送った綴りだった。
「ヴァレンティ様。控えのどれにも載っておりません」
「荷主の欄は」
「宮内府ではございません。北棟三階と書いてございます」
「では、こちらの荷です」
一冊目の角へ指を置いた。
紙の縁が毛羽立っている。三年前、この角はまだ立っていた。
繰った指の数だけ、角は丸くなる。十年、こちらの指しか触れていない角だった。
いまは、十年ぶんより丸い。
「ヴァレンティ様。お手が止まっております」
「角を見ておりました」
「傷んでおりますか」
「繰られております」
娘は上から覗き込んで、それから息を吸った。
「……全部、どなたかがお繰りになったのですね」
「そうなります」
四冊目を開いた。開いた場所は、選んでいない。
頁の右下に、爪の跡が一つ残っている。押さえた指が食い込んで、紙の繊維が起きたままになっている。
その行の四つ目の欄に、灯り係のミヒェルとある。書いたのはあの人の手だ。五年目の冬に、こちらが台帳を回して書かせた。
字は同じ場所にある。上を押した指だけが、後から増えた。
「ヴァレンティ様。爪でございますか」
「押さえた跡です」
「拭いた方が」
「そのままにいたします」
書状が一通、十冊の上に載っていた。
封蝋は宮内府の紋ではない。北棟三階と読める。
窓辺で開いた。区切りの取り方は、六月に届いたものと同じだった。
写しは十冊とも済みましてございます。
写した手を数えましたところ、二千三百十一ございました。行の数には足りません。同じお名前が四十一度ある方と、お見えにならなかった十七人がおいででしたので。
隣の空き部屋は、扉を開けたままにしてございます。日に十人ほど繰りに来られます。四つ目の欄でご自分の名を探して、指で押さえて、それから帰られます。
押さえた跡が付きますが、拭っておりません。
原本十冊は、本日の荷でお送りいたします。
書状は、そこで一度切れていた。切れた下に、一行あけて続きがあった。
一つ、伺いたいことがございます。
十冊目の最後の頁は、番号だけが打たれてございます。四列は空でございます。
写しにも、番号だけ打ちました。四列は空のままにしてございます。
この頁を、どういたしましょうか。
署名は、六月に読んだのと同じ字だった。
エーミール・ブラント。
十冊目を手前へ寄せた。
最後の頁の次に、頁がもう一枚ある。
四千二百八十二。
隅に数字が一つある。その下の四列は、日付も時刻も場所も空だ。四つ目の欄も空だ。
打った手は、こちらの手ではない。二の払いが、こちらの書き方より短い。
頁へ指を置いた。角が立っている。
三年、誰もこの頁を繰っていない。
その前の頁は四千二百八十一で、四月一日の分だ。片方だけの耳飾り。鐘が六つ鳴った後。北棟の階段の踊り場。拾った者、記載なし。
その次の日から、あの部屋の帳面には一行も増えていない。
四月の二日から、五月の十日まで。三十九日ある。
その三十九日に、あの城で誰が何をどこで落としたかを、書いた者はいない。
同じ三十九日を、こちらは東棟の客間で数えていた。鐘の数を指で折り、抽斗を開けてはまた閉じていた。
日付を尋ねに来た使いは、玄関から先へ通されなかった。
「ヴァレンティ様。何番の頁でございますか」
「四千二百八十二です」
「……何もございません」
「ございません」
「番号だけが打ってあります」
「打った日は分かります。三年前の、五月の十日です」
番号を打たせた者は、その頁に書かれるはずだったものを知らない。知らないから番号だけ打った。
打ってから三年、この頁は誰の物にもならなかった。
定規を出した。
木の縁の角が、親指の腹に当たる。三年、この土地の紙にしか当てていない角だ。
消しはしない。定規を頁に当て、空いた四列の上に二本の線を引く。
日付を添え、その下に自分の名を置く。定規を頁から離す。
インクの盛り上がりを、指の背で確かめた。
「ヴァレンティ様」
「はい」
「……書き入れないのでございますか」
「書く物がございません」
「では、線は」
「空いている頁だと、書いておきます」
娘は頁の上で指を止めた。触れる手前で止める止め方だった。こちらが教えた覚えはない。
「消しておしまいになったように見えます」
「二本の線は、消しません」
「……」
「引いた跡ごと残ります」
十年、この二本の線を読みに来た者は一人もいなかった。
読まれなくても、引く。引いた日が残る。
「ヴァレンティ様。空いたままにしておく頁に、線を引く決まりがございますか」
「ございません」
「では、なぜ」
「三十九日は、書ける者がいませんでした」
娘が顔を上げた。
「書かなかったのではございません。書けなかったのです」
「同じ空欄でございます」
「同じです。ですから、線を引きます」
空欄はどちらも空欄だ。指で押しても、どちらも同じ手触りしか返さない。
その二つを見分ける方法を、この帳面は持っていない。持たせるなら、こちらの手で足すよりほかにない。
「わたくしが引いたと、分かる形にいたします」
新しい紙を引き寄せた。麻の筋が指へ返ってくる紙だ。
用件は三行で足りた。
四千二百八十二番の頁は、そのままにしてください。
二本の線を引きました。日付と名を添えました。写しの分は、そちらでお願いいたします。
四列は、空のままで結構です。空いている頁も、頁でございます。
日付を入れ、その下へ署名を置いた。訂正の署名と同じ字だ。十年、この形しか書いていない。
封をして、机の左の端へ置いた。
「ヴァレンティ様。明日の荷は、二通でございますね」
「一通は北棟三階です」
「もう一通は」
「王都の、公爵家です」
「……あちらは、もう保管室と申し上げなくてよろしいのですか」
「隣の部屋には、鍵がございません」
「では、何と」
「宛先は、部屋の名で足ります」
娘は札の束を抱えて出ていった。開けたままの扉から、馬具の金具が触れ合う音が入ってきた。
十冊目を閉じた。
綴じ糸が、指の腹を一度押し返した。三年前と同じ硬さだった。
柵の杭から扉まで十一歩ある。
四月の末に数えて、それきり数え直していない。今日は荷を担いで七度通った。七度とも十一歩だった。
荷を降ろすたび、上着の内側で小さい物が肋に当たった。左の耳朶の穴には、今日も何も無い。
朝、北の街道の荷車から両手の要る荷を一つ降ろした。中身は聞いていない。
布の結び目が二重だった。王都で締めた手だ。荷方の頭が抱えて入っていくのを、荷車の脇で見ていた。
日が傾いてから、詰所の列が切れた。
扉の外で上着の埃を落とす。二度で終わる。
入ると、机まで四歩ある。二月に規則を返してから、この四歩は自分で決めた。
机の上に、十冊が積んである。朝、自分が降ろした荷だ。
「テオドール様」
「ヴァレンティ嬢」
「朝の荷を、降ろしてくださいました」
「頼まれておりません」
「存じております」
彼女は十冊の上へ手を置いた。置いてから、動かさない。
「テオドール様。一つ、お返しいただいていないものがございます」
言われて、手が上着の内側へ行った。
三年と四月、そこにある。歩けば肋に当たる。当たる場所は、日によって指の幅ぶんだけずれる。
「百二十一個目でございます」
「……はい」
布に包んでいない。三年、包む用がなかった。
机の上へ置いて、二寸だけ向こうへ押した。
「五月の一日に、こちらから同じことをいたしました」
「押し返されました」
「そのとき、申し上げました」
彼女の指が、耳飾りの手前で止まった。留め金の側だ。触れてはいない。
その位置を、十年見てきた。物と指のあいだに、いつも指一本ぶんの空きがある。
「落とし物ですので、持ち主にお返ししただけです」
十年、あの部屋で聞いた。五月の一日にも聞いた。
同じ声だ。速さも同じだった。
彼女は指を止めたまま、続けた。
「——これは、落とし物ではありません」
窓の枠が一度鳴った。北から風が来ている。鳴り止むまで、聞き直す言葉を探していた。
「……いま、何と」
「落とし物ではございません」
「十年、その形で預かってこられました」
「番号がございません」
彼女の目が、机の上の十冊へ落ちた。
「あの帳面の最後の番号は、今日閉じました」
「……」
「二本の線を引きました。日付と名を添えました」
「では、次の番号を」
「打つ帳面が、こちらにございません」
北棟三階の帳面は十一冊目に入っている。この土地の綴りには、王城の落とし物を書く欄がない。
「番号の付かない物は、落とし物になりません」
「……では、何になりますか」
「それを、いま伺っております」
答えを持っていなかった。
十年、この物には預かる先があった。番号が付いて、頁が一枚埋まって、棚の抽斗へ入る。入れば、名乗り出るまで誰の物にもならない。
その先が今日で無くなった。無くなった物が、机の上に一つ置いてある。
十年、この人へ渡す物には全部、名前が付いていた。片方だけの耳飾り。日付。場所。刻。四つ答えれば頁が一枚埋まる。
埋まらない物を、初めて机の上に置いている。
「テオドール様」
「はい」
「五月の一日に、留め金の理由を伺いました」
「答えておりません」
「今日も、伺いません」
彼女の指が動いた。
留め金を越えて、こちらの側へ来た。
十年、この人の手は受け取る側で止まっていた。差し出された物の手前で止まり、日付を尋ね、場所を尋ね、それから抽斗を引く。
受け取る手は、机の上で止まる。物のこちら側へは来ない。
止まらなかった。
指が耳飾りを摘まみ上げて、机から離れた。
二寸ぶん、机の上が空いた。
「テオドール様。動かないでください」
彼女が立った。椅子が鳴らない。
机を回ってくる。四歩が、二歩になった。
二歩が、半歩になった。
要人からは三歩。物を渡す者からは二歩半。壁側へ半歩。十年で体に入った数のどれにも、この距離は当たらない。
半歩は剣の間合いの内側だ。近衛が人へ許す距離ではない。
体が退がらなかった。
左の耳に、指が触れた。
指が冷たい。摘ままれている金属の方が、温い。三年と四月、上着の内側にあった物だ。
十三年前、この穴に通っていた物がある。それきり、何も通っていない。
耳朶の裏へ指が回った。書き物で荒れた指の腹が、耳の後ろの皮膚を一度押した。
留め金が回った。
かちり、と鳴った。
十三年前、階段を降り切る前に背中へ届いた音だ。あの扉の錠と、同じ鳴り方をした。
指が離れた。
左だけが重い。歩けば揺れる重さだ。
「テオドール様」
「……はい」
「一年目に、替えてくださいと申し上げました」
「替えておりません」
「……そのままで結構です」
彼女はそれ以上、留め金の話をしなかった。
半歩の距離で、こちらの左耳を見ている。物を見るときだけ、この人の目は動きが速い。
十年、その速さを机の向こうから見てきた。見ている先はいつも誰かの落とし物だった。
今日は、こちらの耳にある。
「この形は、すぐに緩みます」
「存じております」
「緩みましたら、お持ちください」
「……どちらへ」
「ここは、動きません」
十年、あの部屋で二度聞いた。五月の一日にも聞いた。
四度目だ。数えてから気づいた。
「テオドール様。明日は」
「荷が三台入ります」
「では、明日も十一歩お歩きになりますね」
「歩きます」
「……こちらは、その先を数えておりません」
「四歩です」
「存じております」
彼女が机の側へ戻った。二歩。それから、椅子の前で止まった。
戻ったのは彼女の方で、こちらは半歩の場所に立っている。
退がる用が、今日はどこにも無かった。
外へ出た。
日が落ちかけている。街道の南は、もう色が分からない。
柵の杭までは十一歩ある。
風が左を通った。十年、そこは何も止めなかった。
一歩目で、金属が耳の下に触れて戻った。
二歩目も、同じ場所へ触れて戻った。
十一歩、そうやって歩いた。
柵まで来て、杭に手をかけた。木口がささくれている。三月に一度、荷方が削り直す杭だ。
次は、こちらが削ることになる。
片方だけだ。十年、そう書かれてきた物だ。
書いた者は、机の向こうで灯りを寄せている。窓の紙に、頁を繰る指の影が映った。
数えるのをやめても、耳の下は揺れていた。




