第8話: 十年、毎月
上着の内側に、片方だけの耳飾りが入っている。
この月の一日から、そこにある。落とすはずだった日に落とせず、そのまま持ち歩いていた。
北棟三階、階段の裏。扉から三歩。六日目の朝も、自分は同じ位置に立っている。
窓は一つきりで、朝の光は踊り場までしか降りてこない。五月の朝にしては冷える。
階段を上がってくる足音がした。伝令の近衛だ。
「アーレンス副団長。団長より言伝です。扉を壊す許可は、今日も下りません」
「理由は」
「誰の決裁で壊すのか、決まらないそうです。宮内府は宰相府だと言い、宰相府は宮内府だと言っています」
「分かった」
「宮内府の書役が申しておりました。壊した後に中の物をどう扱うかも、まだ決まっていないと」
「中の話は、まだ早い」
「……いつまで待つのでしょうか」
「聞いていない」
「自分がお伺いしたのは副団長のことです。いつまでここにお立ちになるのか」
「同じことだ」
伝令は一礼し、扉の脇の包みへ一度だけ目をやってから階段へ引き返した。
この階段は十九段ある。十年、上がるたびに数が体へ入った。数えた覚えの方が、どこにもない。
この月の一日は、聖ミルダの日だった。落としたものを数える日だ。今年は、城の誰も数えなかった。数えた先を書き留める部屋が、閉まっている。
扉の脇の包みは、朝のうちに五つのままだった。日付も場所も名も、どれにも記されていない。
指を、上着の内側へ入れた。留め金は、心の臓から指三本ぶん外側にある。
百二十一個目だけが、まだここにある。
初めに落としたのは、返してもらった耳飾りの対になる方だった。
十年前の五月の一日。あの部屋で片方を返してもらった、その日のうちだ。
階段を降りながら、もう次のことを考えていた。あの部屋に用のある人間は、二種類しかいない。落とした者と、拾った者だ。上がって半年の新参が他の用であの扉を叩く理由は、どこにもなかった。
対の片方は、詰所の私物入れにあった。対で買って片方だけを耳に通していた。残りは布に包んだままだった。
日が傾いてから南回廊へ出た。
敷石の目地に、それを落とした。落としてすぐに拾えば、拾った芝居にならない。持ち場を一周してから戻ると、耳飾りは同じ場所に同じ向きで落ちていた。
十九段を上がる足が、剣の稽古を丸一日やった後より重かった。
扉を叩くと、昼と同じ声が「開いております」と返った。
机までは五歩。詰所の板張りと違って、この部屋の床は足音を吸う。体一つぶんの間合いで止まった。
「拾得物です」
「いつ、どこで」
「南回廊。鐘が五つ鳴った、少し後です」
「拾われた方のお名前と、所属を」
「近衛騎士団、アーレンス」
「……昼にも、同じ名を書きました」
「……はい」
彼女は耳飾りを受け取り、指の腹で留め金をなぞった。それから一度だけ、顔を上げた。
「昼にお返しした物と、同じ癖の留め金です」
「……はい」
「これは、お返しする物ですか」
喉の奥が詰まった。五歩の間合いがその時だけ半分になった気がした。
「……いえ。拾い物です」
嘘だった。十年で、はっきり嘘をついたのはこの一度きりだ。あとは全部、手続きにした。手続きの形にしておけば、嘘にはならない。そう決めた。
彼女はそれ以上を聞かなかった。頁を開き、日付と場所を書いてから台帳をこちらへ回した。
「届出人の欄は、拾われたご本人が」
「……は」
五歩のうちの三歩を詰めた。羽根ペンを受け取るとき、指は触れそうで触れなかった。アーレンス、と書いてペンを置き、三歩退がった。書いているあいだだけ、間合いは二歩になる。
「お預かりします。持ち主が名乗り出られたら、お返しします」
「……は」
「名乗り出られなかった場合は、一年で処分できる決まりです。ただ、わたくしは処分しておりません」
「……なぜ」
「探しに来られる方がおいでかもしれませんので」
名乗り出る者は来ない。来るはずがない。
階段を降りながら、来月のことを考えていた。
次の一月は、他の道を探すのに使った。
当番表を見に行き、遺失物保管室は近衛の受け持ちではないと知った。詰所で拾得物の届け出を引き受けようと申し出たら、それは下働きに回すのが決まりだと言われた。
「北棟の警備に替えてもらえませんか」
「北棟の三階に、守るものがあるか」
「……いえ」
「なら、替える理由もない」
用のない場所に近づく手立てはない。近衛の仕事は、決められた距離に立ち続けることだ。十九段のぶんだけ、自分には立つ理由がなかった。
残ったのは、月の一日だけだった。聖ミルダの日。落としたものを数える日なら、落とし物が一つ増えても誰も数えた先までは見ない。
下町の細工師のところへ通うようになったのは、その月からだ。
工房は間口が狭く、奥の炉の火だけが明るかった。台の木目には金属の粉が入り込み、拭いても落ちない色になっている。
「片方だけ、ですか」
「片方だけでいい」
「対で作った方が、手間が同じぶん安くつきますが」
「片方だけでいい」
老いた細工師はそれ以上押さなかった。台の上に並べた見本のうち、いちばん飾りの少ない一つを指した。
「毎月、形を変えてくれ」
「同じ物では、まずいので」
「まずい」
「月に一つ。何年ぶんです」
「決めていない」
「……理由は聞きません」
「助かる」
詰所では一時期、女がいるのだろうと言われていた。否定はしなかった。否定する言葉を探すと、どこかで必ず嘘になる。
落とす先は、拾える場所でなければ意味がない。人の通る場所で、その月の自分の持ち場から遠くない場所。条件は、初めのうちはそれだけだった。
落としてから拾うまでには間を置く。当番の割り振りで夕刻まで戻れない月もあった。
戻ると、無いことがある。
誰かが先に拾い、北棟へ届けている。届出人の欄には、その誰かの名が入る。下働きの中には字を書けない者もいて、そういう月は欄が空のまま残る。
十年で、百二十個。そのうち自分の手であの十九段を上がれたのは四十一回だ。
あとの七十九回は、別の誰かが先に拾った。
七十九回、階段の下から見ていた。包みを抱えた下働きの少年が、軋む板を踏んで上がっていく。自分は上がらない。三歩どころか、一段も動かない。踊り場の窓の下で剣の柄にかけた指を握り直し、力が抜けるまで待った。
一度だけ、夕刻まで誰にも拾われなかった月がある。雨で回廊を通る者が少なかった。日が落ちてから拾って上がると、扉の下から灯りが漏れていた。
「まだ、おいででしたか」
「あと二行です」
「……出直します」
「今、承ります」
「濡れています。台帳に落ちます」
「では、そちらで拭ってからお渡しください」
彼女は羽根ペンを置かずに手を伸ばした。指の関節に、乾ききらない墨が乗ったままだった。あの部屋の灯りが何刻まで点いているのかを、自分はその日に知った。
「雨の日は、遅くなるのですか」
「増えますので」
「増える」
「傘と、手袋です。人は、濡れた物から先に手を放しますから」
四十一回。一度あたり、二十を数えるほどで終わる。あの部屋にいた時間を全部足しても、半刻には足りない。
十年で、半刻だ。
そのうち間合いが二歩になっていたのは、届出人の欄に名を書くあいだだけだった。十を数えるほどの長さを、四十一回。
奥歯を噛んだ。息が浅くなって、吸う間隔だけが短くなる。
その半刻のために、百二十個落とした。初めの一つだけが自分の物で、あとの百十九個は落とすためだけに作らせた物だ。
半刻のあいだに知ったことなら、いくつか言える。台帳の厚みが、年に指一本ぶん増えること。袖の当て布が、季節ごとに一度替わること。冬のあいだだけ、字の線がわずかに太くなること。羽根ペンを三日で削り直す人の、削り口の角度。
それだけだ。好きな菓子も、非番の日に何をしているのかも、十年一度も知らないままだった。
彼女は王太子の婚約者だった。十年前から、ずっとだ。
職務と私情を混ぜない。自分の一線はそこにある。だから何も言わなかった、と言えば聞こえはいいが、順序が逆だ。言わないと先に決めていたから、落とすほかにできることが残らなかった。
六年目の、ある月のことだ。階段を上がる前に、言う言葉を決めていた。二十を数えるあいだに収まる長さで、職務の話に聞こえない一文だ。詰所を出てから南回廊を回るまでに、口の中で三度繰り返した。
扉が開き、机まで五歩。
「いつ、どこで」
「西回廊。鐘が二つ鳴った、少し後です」
「拾われた方のお名前と、所属を」
「近衛騎士団、アーレンス」
「お預かりします」
二十を数えるより早く終わった。決めていた言葉は、口の中に残ったままだった。
階段を降り、詰所の井戸で顔を洗った。何を言うつもりだったかは、翌月にはもう思い出せなくなっていた。
二月は、誰かに先を越された。
三月は、上がれた。
「いつ、どこで」
「西回廊。噴水の縁で、鐘が三つ鳴った頃です」
「拾われた方のお名前と、所属を」
「近衛騎士団、アーレンス」
「お預かりします」
顔を上げた彼女の目の下に、翳りがあった。夜通し書いた者の顔だ。それを尋ねる理由を、自分は持っていない。
「他には」
「……いえ。以上です」
それだけだ。十年、同じ形で四十一回繰り返した。
四月の一日は、下働きの少年が先に拾った。踊り場の窓から、包みが上がっていくのを見ていた。板の軋む音が、上の階で止まった。
来月がある、と思った。
その日の夕刻、大広間の立哨に名が入った。何のための夜会かは、当日まで誰も言わなかった。
その夜が、断罪の夜だった。
五月の一日、百二十一個目を受け取りに下町へ降りた。
工房は前の月と同じ匂いがした。炉に火は入っていない。細工師は布を広げ、耳飾りを一つ台の上に置いた。
「今月のです」
「……ああ」
「あんたの注文だけは十年、一度も途切れませんでしたな」
「そうだ」
細工師は布を畳む手を止めて、こちらを見上げた。
「北棟の話は、下町にも降りてきます。あの部屋、閉まったままだとか」
「そうだ」
「隣の家の女房が、去年落とした指輪を引き取りに行けんと言っておりました。返してもらえるはずの物が、返ってこないと」
「……そうだ」
「では、これはどこへ行くんです」
「……分からん」
「来月の分は、どういたしますか」
答えなかった。細工師は布の端を揃え、二度畳んでからこちらを見なかった。
「作っておきます。要らんかったら、こちらで潰します。潰した物には、誰の落とし物にもなれませんから」
銅貨を置いて店を出た。細工師は追ってこなかった。
王城へ戻り、南回廊まで歩いた。敷石の目地は、十年前と同じ形をしている。この城で、自分の落とし物が初めて人の手に渡った場所だ。
鐘が五つ鳴った。十年前と同じ刻だ。指を開けば、あとは誰かが拾って北棟へ運ぶ。それだけの手順を、体は百二十回覚えている。
耳飾りを摘まんだまま、指を開かなかった。
握っていたせいで、金物はもう冷たくない。人の肌と同じ温さになった物は、今しがた落ちたものだと拾う側に分かってしまう。
落としたところで、拾った者は十九段を上がる。上がった先の扉は開かない。拾われた物は、扉の前に積まれるだけだ。
耳飾りを上着の内側へ戻した。爪先に体重が乗ったまま、しばらく動けなかった。息を吐いたのは、鐘の余韻が切れてからだ。回廊の端から端まで、誰も通らなかった。
それきり、耳飾りは上着の内側にある。
今日の夕刻、女官が包みを一つ提げて上がってきた。
「これ、東棟の廊下で拾いましたの。どちらへ」
「そこへ、置いてください」
「……そこ、ですか」
「今は、受け取れる者がいません」
女官は膝を折り、扉の脇の列の端に包みを置いた。それから、置いた手をしばらく引かなかった。
「わたくし、新入りの頃に拾った手巾を三日ほど袂に入れたままにしておりまして」
「……」
「あのお方は、叱りませんでした。三日ぶんの日付をこちらに全部言わせて、三行に分けてお書きになっただけです。拾った日と、持っていた日と、届けた日と」
「そうですか」
「三行も書かせてしまったと思ったら、次からその日のうちに上げるようになりました」
「そうですか」
「もう、拾っても持ってこない者がおりますよ」
「……」
「どうせ届かないのだからと。ひと月前までは、みな届けておりましたのに」
女官は袖口を握り直し、膝の埃を払ってから降りていった。これで六つになった。
半刻もしないうちに、初めて見る文官が階段を上がってきた。息が上がっている。
「今朝、東棟で印章が拾われたと聞きました。私のものです」
「その包みです」
「では、頂いていきます」
「渡せません」
文官の手が、包みの手前で止まった。
「私のものだと申し上げています」
「紋を確かめても、それがあなたのものだとは分かりません」
「見れば分かるでしょう。羽が三つです。宰相府の下で使う型です」
「羽が三つだと確かめられるだけです。あなたのものかどうかは、確かめようがありません」
文官は口を開き、閉じた。
「十年、この城ではどうしていたのです」
「あの部屋に、記録がありました。いつ、どこで、誰が拾ったか。名乗り出た方の話と記録が合えば、返していました」
「その部屋が、開かないと」
「開きません」
「では、作り直します。宰相府に再発行を願い出れば済む話でしょう」
「その決裁が、ひと月止まっていると聞いています」
「止まって」
「印章の再発行には、前に出した分の日付が要ります。日付を出す部屋が、この扉の向こうです」
文官は袖の中で拳を作り、それを解いた。
「南街道の手形に、判が要るのです。今日中に」
「今日中、ですか」
「隊商が明後日発ちます。判のない手形では、関所を越えられません」
「越えられなければ」
「次の隊商は、雨季が明けるまで出ません。南街道が乾くのは、早くて夏です」
「お渡しできません」
「では、いつなら」
「分かりません」
「その包みが、いつまでそこにあるのかも分からないのですね」
「分かりません」
文官は包みに一度も触れないまま、階段へ向かった。十九段を降り切るまで、足音の間隔が一度も揃わなかった。
扉の脇に、包みが六つ。そのうちの一つに、誰のものとも分からない印章が入っている。南街道の手形は今日も判を押されないまま、どこかの机に積まれていく。
十年、それを確かめる方法は一つだけだった。いつ、どこで拾われた物か。それと名乗り出た者の話が合えば、返せた。頁一枚ぶんの手続きだ。
その一枚が読めないだけで、隊商が発てない。
上着の内側で、指が耳飾りの縁をなぞった。十年、一度も対にならなかった片方だ。
来月の一日も、自分はこの三歩の位置に立っているのだろう。懐の一つを、まだ落とせないままで。
——あの夜、三歩目を出していれば。
喉が締まった。膝から力が抜けて、重心が後ろの踵へ落ちる。三歩目を出す形の重心では、もうない。
その先を、自分はまだ一度も、最後まで考えたことがない。




