第7話: あの日の耳飾り
扉から三歩。
近衛の規則が定める間合いを、自分は今日も守っていた。守ったところで、扉の向こうにはもう誰もいない。
北棟三階、階段の裏。窓は一つ。断罪の夜から、ひと月が過ぎていた。
板戸が開かなくなったのは、その翌週のことだ。最初の鍵匠が来て匙を投げ、次の鍵匠が来て同じ音を立てて帰り、三人目もまた同じ結果だった。この一月のあいだ、代わる代わる呼ばれては、誰も錠を回せずに帰っていった。
自分がこの階段の番についてから、今日で五日になる。
五日目の今日、四人目が呼ばれている。
鍵匠は道具箱を提げて階段を上がり、扉の前に膝をついた。金属のこすれる音が二度、三度と続き、やがて止んだ。
「……これは、駄目です。仕掛けそのものが、普通の錠とは違います。こんな錠は、長く鍵匠をしていても見たことがありません」
「駄目、か」
「中の仕掛けが、外からとは違うのかもしれません。壊してみなければ、確かなことは言えません」
「三人が同じ言葉を残していったと、聞きました。自分も同じことを言うのが、情けないです」
「分かった」
鍵匠は道具を仕舞い、額の汗を拭ってから頭を下げた。来た時よりも重い足取りで、階段を降りていった。
「アーレンス副団長。交代の刻限です」
若い近衛が、決められた位置まで来て足を止めた。自分と同じ、三歩の間合いだった。
「もう半刻いる」
「今、階段ですれ違いました。あれで、四人目ですか」
「そうだ」
「駄目でしたか」
「回らん」
「回らないと、皆言っています。五日目ともなれば、詰所でも口さがない者が出ます。早く元の当番に、戻りたいのだと思います。自分も、正直そう思っています。詰所の空気も、あまりよくありません。陰では、色々と言われています」
「そうか」
それから若い近衛は、同じ調子で三つ答えた。宰相府からはまだ何もない。後任の管理官は匙を投げたと聞いた。他に変わったことは、特にない。三つとも、収穫のない答えだった。
「分かった。下がっていい」
若い近衛は敬礼だけを残し、持ち場を離れた。足音が、階段の向こうへ消えていく。
自分は扉に向き直った。板戸の節目の位置は、もう覚えてしまった。
途中、書類を抱えた文官が階段を上ってきて、扉の前で足を止めた。
「先月の届出の写しを。急ぎの用向きです」
「開きません」
「……そうですか」
文官は扉を一度見上げてから、書類を抱え直して降りていった。同じ顔を見るのは、この五日で四度目だった。四度とも、こちらの答えは変わっていない。
昼過ぎ、宰相府の使いだという恰幅のいい男が、初めて見る顔で階段を上ってきた。
「宰相閣下の使いです。中の様子を、確かめに参りました。急ぎ確かめよとの、仰せです」
「開きません」
「存じています。それでも、扉越しに分かることもあるかと。宰相閣下は、それほどにお急ぎです。儀典の支度も、待ったなしなのです」
男は板戸に耳を寄せ、長く口を閉ざした。廊下には、沈黙だけが続いている。
「……何も、聞こえませんね」
「当然です。誰もいません」
「これは、困りましたね。儀典長も宰相閣下も、そろって頭を抱えておいでです」
「困っている、と聞いています」
「叙勲の順が、決まらんのです」
「順、ですか」
「どなたが何をお納めになったか、この城ではあの部屋の帳面にしか残っておりません。閣下の手元にあるのは、控えの控えです。日付が、どれも合いません」
男はそれから、同じ嘆きを言い替えながら並べた。儀礼の日取りが組めない。誰が何を持ち出したかも辿れない。儀典長までが頭を痛めている。
答えは、最後まで変わらなかった。
「そうですか。……致し方ない」
男は懐から手帳を出し、何かを書き付けた。手帳の紙は薄く、頼りない。あの部屋の台帳の重みには、遠く及ばない。書き付けを畳んで懐へ戻すと、男は自分の名も告げないまま階段を降りていった。
「団長がお呼びです」
伝令の近衛に告げられ、詰所へ向かった。団長は書類の山の向こうで、顔も上げずに言った。
「北棟の立哨、他の者と代われるか」
「いえ」
「理由は」
「持ち場に、誰よりも詳しいので」
「五日も詰めていれば、誰でも詳しくなる」
「……自分が、適任と考えます」
団長はようやく顔を上げ、しばらく黙って見返した。
「テオドール」
「……は」
「好きにしろ。……ただ、お前らしくない拘り方だとは思う」
「は」
それだけで、話は終わった。詰所を出る背に、団長の視線がまだ張りついている気がした。
理由を、自分でも疑っていた。持ち場に詳しいのは事実だ。それだけが理由かと問われれば、答えに詰まる。
職務と私情を混ぜない。十年、それだけを一線に守ってきたつもりだった。この立哨を自分から望んだ時点で、その一線がどこにあるのか、もう自分でも分からない。
指を剣の柄にかけたまま、五日、同じ姿勢を保っている。護衛対象のいない立哨は、初めてだった。誰を守っているのか、今の自分にはよく分からない。
左耳の穴を、廊下の風が撫でていく。十年、何も通していない場所だ。
十年前も、五月の初めだった。
自分はまだ近衛に上がって半年の新参で、要人の背に張り付いて歩くことしか教わっていない。間合いという言葉の意味も、まだ剣の稽古でしか知らずにいた。
回廊の角で誰かとすれ違い、肩が触れた拍子に、耳元で小さな音がした。振り返っても、相手の背はもう遠い。
気づいたのは、詰所に戻ってからだ。左耳が、軽い。鏡もない詰所では、確かめる術はそれしかない。
「片方だけ落としたのか。締まりのない」
「拾得物は、北棟の保管室へ届けろ」
「新入りの通り道だな」
先輩の近衛たちに囃されながら、詰所を出た。あの階段を上ったのは、その日が初めてだった。
階段は狭く、踏み板が一段ごとに軋んだ。踊り場の窓から差す光が、埃を白く浮かび上がらせている。上ってくる者は自分の他に誰もいない。五月の光にしては、妙に冷たい階段だ。
扉を叩くと、「開いております」と、思ったより低い声が返った。
扉を開けた瞬間、目に入ったのは机までの距離だった。五歩ある。近衛の詰所より、よほど静かな五歩の間合いだ。
中には、少女が一人。詰襟の袖に、埃よけの当て布。髪は布で覆われ、年の頃は自分よりずっと下に見えた。机の上の台帳は、まだ厚みが薄い。
体一つぶんの間合いを取って立ち止まると、少女は顔も上げずに言った。
「そこまで下がらずとも」
「……失礼」
促されて一歩詰めても、まだ落ち着かなかった。剣を構える相手でもないのに、間合いの計り方が分からない。
「失くし物です。片方だけの、耳飾りを」
「いつ、どこで」
「……分かりません。回廊のどこかだと思います」
「時刻は」
「鐘が三つ鳴った、少し後です」
「西回廊か、南回廊か」
「南、だったと思います」
「お名前と、所属を」
「近衛騎士団、アーレンス」
問われるたびに、答えが一拍遅れた。剣の間合いなら即座に答えられる自分が、この部屋でだけ言葉に詰まる。
少女は棚の下段まで手を伸ばし、抽斗を一つ引いた。中に、耳飾りがあった。
「先ほど、別の近衛の方が届けてくださいました。留め金が緩んでいたと」
「……自分の物、ですか」
「南回廊、鐘三つの少し後。他に該当する届出はありません。記録と符合する物だけを、お返ししています」
差し出された耳飾りを、両手で受け取った。少女の指は、書き物で荒れていた。年に合わない荒れ方だ。
「次からは、留め金を替えてください」
「……はい」
「この形は、すぐに緩みます。同じ物を、また探しに来ることになります」
言い方に、飾りがなかった。近衛の誰よりも、命令に近い声だ。それでいて、押しつける響きはない。
少女は帳面を開き、日付と場所と名を記した。羽根ペンを持つ手つきに、迷いがなかった。振られた数字は、まだ三桁に届いていない。
台帳の綴じ糸は、硬い。指で触れずとも、新しい紙の匂いで分かる。後で聞けば、この部屋を任されたのは、その年の春だという。
頁を閉じる前、少女の視線がわずかにこちらへ動いた。
「何か」
「……いえ」
「何か、おありなら」
「……何も。失礼した」
少女は小さく頷き、また頁に目を落とした。それ以上は、何も聞いてこなかった。
「他には」
「……いえ、以上です」
「では、これで」
礼を言って、階段を降りた。扉を閉める前、少女はもう次の頁に目を落としていた。
詰所に戻ると、先輩の一人がにやついた顔で待っていた。
「どうだった、あの部屋」
「……別に」
「別に、か」
「留め金を替えろと言われた」
「それだけか」
「それだけだ」
「変わった女だな」
「……そうかもしれん」
先輩は肩をすくめ、それ以上は聞かなかった。留め金の話しか、誰にもしなかった。十年経った今も、それは変わっていない。
階段を降り切る前に、扉の閉まる音が背中に届いた。かちり、と鍵の落ちる音。あの扉の錠は、今も同じ音を立てているはずだ。
留め金は、替えなかった。理由は、今も自分でうまく言えない。
断罪の夜、人垣の中で二歩だけ動いた。
規則にない二歩だった。三歩目は、出なかった。
その日の立哨は、広間の入り口脇だった。招かれた誰もが、香と衣擦れの音を連れて通り過ぎていく。近衛の誰もが定位置から動かず、腰の剣に指をかけたまま視線だけを配る。
広間に入る前、彼女が式部官に名を呼ばれるのを、いつもの位置から聞いていた。詰襟でない絹の裾を纏った背が壇上へ上がっていくのを、三歩の間合いの外から見ていた。それだけなら、十年、数え切れないほどこなしてきた仕事だ。
「記録係の分際で」
あの声が広間に落ちた瞬間、体が勝手に動いた。二歩。詰めた分だけ、間合いは近くなる。
三歩目に、重心が乗りかけた。爪先が床を掻いた。剣の柄にかけた指が、抜く形でも守る形でもなく、鞘ごと引き寄せたまま固まった。握り直したのではない。握ったまま、動かせなくなった。
三歩目を出せば、規則を破ることになる。護衛の任を離れ、ただの一人の男として動くことになる。
出せなかった。出していれば、何が変わったのか。十年、体に叩き込んだどんな間合いの計り方も、その先の答えは持っていない。
近くで式部官が何かを尋ね、彼女が短く答えたのを覚えている。中身までは、今も思い出せない。
三歩目を出せなかったあの場所から、いまだに動けずにいる。
団長が自ら階段を上ってきたのは、夕刻より少し前のことだ。
「明日には、扉を壊す許可が下りるかもしれん」
「……壊すのですか」
「他に手がない。台帳とやらも、もう関係ないという声もある。宰相府も、これ以上は待てんと言っている」
「それは」
「言いたいことがあるなら言え」
「……団長」
「なんだ」
「……いえ、何でもありません」
団長は自分の顔を一瞥し、それ以上は追及しなかった。足音の間隔が、来た時より速くなっていた。
言いたいことは、確かにあった。それを言葉にする資格が、自分にあるとは思えない。
夕刻、階段の下から足音が上がってきた。下働きの少年だ。
「拾い物です。……どちらへ、出せば」
少年の手に、小さな包みがある。誰の物かも、まだ分からない品だ。
「今日はもう三つ目です。厨房のおばさんなんて、拾った髪飾りを懐に入れたまま半日歩き回っていました。届け先が無いと、持っている方が落ち着かないんです」
自分は何も答えなかった。少年はそれでも構わず、続けた。
「この五日で、いくつになったかも分かりません。数えていないので」
「そうか」
「……あの部屋なら、数えていてくれたのに」
自分は扉を見た。三歩、動かなかった。
「今は、誰も受け取れない。そこに、置いておけ」
少年は息を吸って、そのまま吐いた。番はいつまでか。そう聞きたかったのが、目の色で分かった。答えは、自分にもない。
少年は包みを扉の脇にそっと置き、一礼した。何も言わないまま、足音が階段の下で小さくなっていった。
これで、扉の脇に並んだ包みは五つになる。包みには日付も、場所も名も記されない。十年欠かさず記されてきたものが、今日は何も記されないまま、扉の前に積まれていく。
いずれこの扉の前に何が積まれているか、誰も言い当てられなくなる。
自分は、また三歩の位置に戻った。三歩は、届く距離ではない。それでも、今日も動かない。
左耳の穴を、また風が撫でていった。十年前、あの階段を初めて降りた日も、同じ風が吹いていた気がする。
あの日、少女は自分の名を帳面に記した。名を覚えられたかどうかは、今も確かめていない。
明日には、この扉は壊されるかもしれない。壊してしまえば、鍵の要らない部屋になる。
鍵の要らない部屋に、あの人が戻ってくる理由はない。




