第6話: 誰も知らない部屋
荷造りの麻布が、また一束増えていた。
北へ発つ日まで、指を折れば五日しかない。
東棟の窓に、朝の光が白く差し込む。寝台の脇に積まれた包みの角は、昨日より一段高い。
鏡台の抽斗を、開けて確かめる。中は空だ。何を探していたのか、思い出す前に忘れている。
髪を覆う布へ、手が伸びかけて止まった。もう、覆う必要はない。十年で覚えた仕草は、用のない今も指先から離れずにいた。
脱いだままの詰襟が、寝台の隅に畳んである。北へ着ていく服は、もう別に用意された。生地の張りも、袖の長さも、指にはまだ馴染まない。
十年前、初めて詰襟へ袖を通した朝も、同じ違和感が肩にあった。あの時は、母が襟元を直した。今日、直してくれる手はどこにもない。
卓の隅に、干した押し花が一枚挟まっている。いつ、誰から貰ったものかは思い出せない。それでも、捨てる決心はまだつかない。
荷造りの手を止め、寝台の縁に腰を下ろす。木の軋む音が、いつもより大きく響いた気がした。窓の外の光は、もう昼に近い色へ変わっている。
鏡台の隅で、台帳の包みはいつもの位置を保っている。角を一度なぞると、布の目の粗さが指の腹に返った。
手が、返したはずの鍵の重みを探しかける。掌には、何もなかった。窓口の台に置いてきた鍵の冷たさが、記憶の指先にまだ残っている。
窓辺に、書き損じの紙が一枚、取り残されている。北へ持っていく物の目録を、途中まで書きかけたものだ。数え終える前に、指が止まっている。
インク壺の蓋は、まだ開けていない。この部屋に来てから、ペンを取る用は一度もない。
窓の外は、王都のある方角だ。壁の連なりは、ここからは見えない。それでも、目だけが同じ方を向くことがある。
窓の外で、鐘が二つ鳴る。
支度は屋敷の者に任せると、父は言った。荷は、もうほとんど纏まっている。
残っているのは、この台帳だけだった。
扉を叩く音に、束の間、息が止まった。
「お嬢様、失礼いたします」
ハインツの声だった。
「どうぞ」
応えると、白い封書を両手で捧げた姿が現れる。目の下の翳りは、この数日でひときわ濃くなっていた。
「王城より、旦那様宛てに書状が届きました。お嬢様にも、お伝えするようにとのことです」
封蝋の紋章は、宮内府のもの。封の厚みだけで、紙質のおおよそが知れた。厚みのわりに、紙は軽い。急いで認めた手紙だと、その軽さがまず告げていた。裏写りを気にせず走り書きできる、薄手の一等品——保管室で幾度も扱った、急ぎの用にしか使わない紙だ。
「今、拝見しても」
「まだ、旦那様のお目通しが先かと」
中身を検める許しは、まだない。代わりに、ハインツが要点を語った。
保管室の錠は、返却の際には確かに動いていたと記録にある。それが今は、どの鍵匠に頼んでも回らない。四人替えても、答えは同じだったという。合鍵の手がかりがあるとすれば室内の台帳の中だろうが、その室内へは誰も入れずにいる。
合鍵の話は、初耳だった。十年、鍵は一つしか持っていない。控えを作る理由も、機会もなかった。
別の言葉が、口の中で形になりかける。棚の抽斗、二段目の左から三つ目。留め金の緩み方までなら、目を閉じても言えた。
尋ねられていない答えだ。声には出さない。
「お嬢様になら心当たりがあるはずだと、下働きの者たちも噂しております」
「わたくしには、分かりません」
「余計なことを、申し上げました」
小さく、首を横に振るだけに留めた。
「錠前ごと、扉を壊すことも検討されているそうです」
「他に、手立てがないと」
「そのようです」
ハインツの手が、書状の角を確かめ直す。紙の擦れる音が立った。
「棚に残った品々は、どうなるのでしょう」
「まだ、どなたにも手をつけられずにおります」
ハインツが、一拍置いた。窓の外で、何かが軋んだ。
「いずれは、処分されるのでしょうか」
「そこまでは、まだ決まっていないそうです」
届出人欄が空白のままの品々を思う。指輪、手袋、封を切らない手紙。持ち主の来ない棚は、今も同じ形で残っているはずだった。
「後任の管理官様も、匙を投げられたそうです」
「左様ですか」
視線が、袖口の当て布に落ちる。止める理由は、思いつかなかった。
「合鍵にお心当たりはないかとのお尋ねでした。旦那様は、ないとお答えになりました」
「わたくしも、存じません」
ハインツの声に、疲労の色が滲んでいた。
「城の方々も、随分とお困りのご様子で」
「後任の方は、まだ日も浅いとか」
「城の混乱も、長くはないと思うのですが」
ハインツの声が、一段低くなる。窓の外で、荷馬車の音が遠ざかった。答える言葉は、出てこなかった。そうであってほしいと願う気持ちに、噓はなかった。噓でないことが、かえって落ち着かない気がした。
ハインツの目が、こちらの表情を一拍だけ窺う。何も浮かんでいないと分かると、封筒を懐へ戻した。
「旦那様は、これ以上の関わりを望まれません。そのように返信されるとのことです」
「承知しました」
「長々と、失礼いたしました」
「いいえ」
一礼して、ハインツは戻っていった。扉の閉まる音が、いつもより長く尾を引く。
部屋には、封蝋の匂いが残った。嗅いだことのない、粗い蜜蝋の匂いだった。
昼を過ぎて、支度部屋の前を通りかかった。
扉の内側から、布地を叩く音が聞こえてくる。開いたままの隙間から、リーゼの背が見えた。純白の布が、卓の上いっぱいに広がっている。
「叙勲の式、また延びたんですって」
針箱の脇にいた仕立て屋の女が、糸を選びながら誰にともなく言う。
「式次第の相談に来ていたお歴々が、ぱたりと来なくなったとか」
「北棟の方でも、物々しい話を聞いたわ。扉の前に近衛が一人、立ちっぱなしなんですって」
「誰も、中に入れないからだそうよ」
「鍵屋が三人がかりで詰めているとも聞いたわ」
「それは、大ごとね」
足を止めずに通り過ぎようとしたところで、名を呼ばれた。
「姉様」
聞き慣れない呼び方だった。振り返ると、リーゼが布を抱えたまま、こちらを見ている。
「何か」
「婚礼の日取りに障りが出るのではと、母様が案じています」
リーゼが、目を伏せた。
「そう、ですか」
「母様のお加減は、いかがですか」
答えるまで、瞬きひとつ分の間があった。
「変わらず、伏せっております」
リーゼの指に、皺になるほどの力がこもっている。
「城の中で、何かあったのでしょうか」
答えを持っているとは、言えない。持っているかどうかさえ、自分でも分からなかった。
「わたくしにも、分かりません」
リーゼは、それ以上を尋ねない。布を抱え直し、視線を落とした。爪の先に、針を扱う者特有の小さな傷跡がある。
その傷を、幼い頃にも見た覚えがある。母に隠れて縫い物を覚えていた妹は、いつも指先に絆創膏を貼っていた。二人で過ごした記憶は、数えるほどしかない。
「北への道中、お寒くはありませんか」
「厚手の外套を、用意していただきました」
リーゼの視線が、布の端をさまよった。
「向こうでは、お一人なのですよね」
「じきに、慣れると思います」
答えになっていないと、自分でも分かっていた。リーゼは、それ以上を重ねようとしなかった。
「向こうの家の方々は、優しい方たちなのでしょうか」
「お会いしたことは、まだありません」
「それは、少し心細いですね」
俯いたリーゼの睫毛が、一度だけ揺れた。針を持つ指は、動かないままだった。
「そうかもしれません」
「お体だけは、大事になさってください」
リーゼの目が、一瞬だけ潤んだように見えた。それも、すぐに布地の陰へ隠れた。
「姉様も、どうかお気をつけて」
「ありがとう、リーゼ」
布を叩く音が、支度部屋の奥でまた始まる。誰かが呼ぶ声に、リーゼの肩が小さく揺れた。
「北からも、お便りをくださいますか」
「もちろんです」
「わたくしも、必ず書きます」
リーゼの手が、止まった。
「行かなくては」
「はい」
リーゼは会釈だけを残し、部屋の中へ戻っていった。
廊下に、一人取り残される。
「姉様」と呼ばれたのは、十年ぶりだ。幼い頃、階段の下で同じ声に呼び止められたことがある。今日の声の高さは、あの時とほとんど重なった。
夕餉の前、荷を積む音が屋敷の裏手から届いた。数えるほどしか使ったことのない裏口を抜け、車寄せの脇へ回ってみる。
空の木箱が、地面に幾つも転がっていた。中身のお仕着せは、まだ半分も詰まっていない。
馬丁の一人が、書き付けの束を抱えたまま行ったり来たりしている。手にした紙の端に、判の跡がなかった。
「街道の通行手形、まだ城から下りてこないんです」
男は独り言のように呟き、束をもう一度数え直した。誰に向けた言葉でもない口ぶりだった。
御者頭の姿を探すと、馬房の奥で手綱を確かめていた。声をかけると、驚いたように顔を上げる。
「お嬢様——こんな所まで」
「様子を、見に来ただけです」
「今のところは、十日には間に合うつもりで進めております」
「くれぐれも、無理はなさらないでください」
「心がけておきます」
男の目が、擦り切れた手綱の一点に落ちていた。使い込まれた革の、掌に馴染んだ光沢だった。
「雨で、道がぬかるんでいるとか」
「幾らか、遅れが出るかもしれません」
「気をつけて、進んでください」
「心得ております」
馬房の奥、藁の上に積まれた雨具が、まだ油を引かれないまま重なっている。
「お仕着せの数も、まだ足りていないと聞きました」
「今、纏めているところです」
「同行の近衛は、もう決まっていますか」
「まだ、割り振りの最中です」
「決まり次第、教えてください」
「承知いたしました」
空を仰ぐと、灰色の雲が薄く広がっていた。王都のある方角には、変わらず壁の連なりが見えない。
「北への道は、初めてでいらっしゃいますか」
「初めてです」
「馬に、多少揺られます。ご容赦ください」
「心得ています」
それだけを言うと、男はまた手綱に目を戻した。宰相府の判が揃わない理由を、それ以上は尋ねなかった。答えを持たない者に、答えを求めても仕方がない。
通行手形一枚にすら、判が整わない。理由を、誰も知らない。
窓の外で、鐘が三つ鳴った。
窓辺に立つ。麻布の束は、もう四つに増えていた。廊下の向こうで、婚礼支度の物音がまだ続く。夜も更けたというのに、板を運ぶ音は途切れない。
幾日も前から数えていた指を、今日はもう数えない。五日後、という言葉が、頭の中でひとりでに繰り返された。
台帳の包みへ、指を伸ばす。指の腹に、綴じ糸の毛羽立ちが触れる。何百回、何千回と確かめてきた感触だった。
五日後には、これを抱えて北へ発つ。あの部屋には、もう戻れない。
鍵のかからない引き出しへ、指をかける。開けるつもりのなかった手が、ひとりでに動いていた。
掌の芯が、あの重みをまだ覚えている気がした。すぐに、それが記憶でしかないと気づく。冷たさの残像が、指先をかすめて消えた。
北棟三階、階段の裏。窓が一つだけの、あの部屋を思う。棚の当て布、留め金の緩んだ抽斗、百二十個分の冷たさが眠る小箱。あの部屋の形を、今も指先が覚えている。
十年、あの部屋の鍵は朝いちばんに自分の手で回す音から始まった。今日、その音を聞く者はどこにもいない。
もう、鍵はお返しします——窓口でそう言ったとき、指はまだ回す形のままだった。
あの部屋のことを、まだ正確に言える人間はほかにいない。それを、誰かに告げる理由も、今はまだ持たない。
鍵匠を四人替えても、回らない錠だという。合鍵の記録は、その部屋の中にしかない。誰にも、開けようがなかった。
通行手形も、判を押す者がいない。理由は伏せられたまま、扉の前には見張りだけが立てられている。
窓の外で、鐘の余韻が遠く尾を引いた。
月の光が、窓枠の影を床に長く伸ばす。その中で、台帳の包みの角がわずかに白く浮かんでいた。
台帳を、鏡台の上に戻す。鍵のかからない引き出しの前で、指がしばらく迷った。
結局、そのまま卓の上に置いた。
瞼の裏に、名も顔も知らない近衛の姿が浮かんだ。腰の剣に指をかけたまま、扉の方を向いて立っている。
振り返る者は、誰もいない。声をかける者も、いない。あの回廊を歩いた朝の、正門の近衛たちの無表情と重なった。
あの部屋の鍵は、まだ誰の手にも回らない。




