第5話: 最後の落とし物
東棟の客間へ移ってから、四週間が過ぎた。寝台の脇には、荷造り用の麻布と縄がひと束、初めて積まれている。触れると、台帳の綴じ糸とはまるで違う、粗く硬い感触が返ってきた。
北へ発つ日は、もう来月ではない。今月の十日。指を折っても、十日に満たない。
昨日、ハインツが荷の目録を届けに来た。持っていく物、置いていく物を、二列に分けて記す様式だった。「置いていく」の列に、鏡台の抽斗が一段まるごと入っていた。台帳の置き場は、その列にはなかった。
午後になって、その目録を取りに戻ってきた。
「北へお持ちになるのは、今のところこれだけで」
「増えるかもしれません」
「今日中に、確かめておきたく」
「分かりました」
「よろしくお願いします」
「はい」
「かしこまりました。追って、お聞きします」
それだけ言うと、背を向けて下がっていった。足音が階段の方へ遠ざかるまで、目録の余白を指でなぞっていた。空欄の方が、まだ多かった。
窓の外が白みきる前に、目が覚めた。癖のように、耳朶の下へ手が動く。そこに、何もなかった。
十年、欠けたことは一度もなかった。数えて確かめたことはないが、指の記憶にそう刻まれている。去年の大雪の朝でさえ、届いていた。今日のような晴れた日に届かない理由は、指のどこにも見当たらなかった。今日がその日だと、目が覚めた瞬間に分かっていた。
台帳の記録になら、いつどこで拾われたかまで浮かぶ。先月は、北棟の階段の踊り場で拾われた、とだけ記されていた。今日は、そのどちらも要らない。届かなかった、それだけだった。
廊下を行く足音の間隔にも、扉の軋み方にも、もう驚かなくなっている。慣れた自分に、少し戸惑った。
軽い足音を探して、廊下に耳を澄ませる時間が増えた。この家の使用人の歩みは、どれも重い。探している音とは、違う。
屋敷のどこか遠くで、婚礼の支度らしい物音が続いている。板を運ぶ音、布を広げる音。日ごとに、その数が増えている。
窓枠に手を置く。木目はもう、掌に馴染んでいる。洗面台の水差しに、ひびが一つ増えた。四週間でこの部屋に残った変化は、それだけだった。
昼前の鐘が鳴った。手が、扉の方へ動きかけて止まった。叩く音を、その日は聞かなかった。
午前も半ばを過ぎ、遠くで鐘が二つ鳴った。庭師が生垣を刈る音だけが、規則正しく続いている。
抽斗を開けて、また閉じた。そこに何を仕舞うつもりだったのか、指先だけが忘れていた。
鏡台の隅、布に包まれた台帳の角だけが、いつもの位置で待っていた。
昼を過ぎた頃、水差しを返しに階下へ向かった。
踊り場まで来たところで、玄関の扉を叩く音がした。
足が、そこで止まる。
この家の扉を叩く音には、慣れたはずだった。それでも今日の音だけは、耳に刺さるように届いた。
ハインツの声が、玄関の方から届いてくる。石造りの壁が、声を思ったより遠くまで運んだ。使者の靴音は、湿った布のような重さで床を打っていた。
「旦那様は、城からの使いはお取り次ぎしないとのことで」
「承知しております。それでも、少しだけお尋ねしたく」
「何をお尋ねに」
「前に北の使者団が着いた日が分からず」
「記録は、そちらの手元にあるはずですが」
「その控えが、順に揃っておりませんで」
紙を繰る、乾いた音が挟まった。
「献上品を渡した日付の控えも、見当たりません」
「日付だけで、よろしいでしょうか」
「それが分かれば、あとは辿れます」
「それは、こちらでは分かりかねます」
「左様ですか」
「捜し物は、どちらのものでしょうか」
「宮内府の、備品の件です」
「詳しくは、伺えませんか」
「今は、まだ」
「急ぎの用向きでしょうか」
束の間、声が途切れた。
「上からは、そう急かされております」
「では、後任の方に伺えば」
「後任の方も、まだ日が浅く」
「困りましたね」
「まことに」
「宮内府の帳面ごと、確かめてはおりますが」
「見つかりませんか」
「今のところは、まだ」
「そうですか」
男の声には、焦りより苛立ちに近い響きがあった。
「今日中に、片付けたいのですが」
「それは、こちらでは何とも」
「上役にも、そう申しておりまして」
「ご苦労なことです」
「後任の方は、いつ頃お着きに」
使者の声が、一段低くなった。
「一月ほど前と、聞いております」
「まだ日も浅いのですね」
「それゆえの、行き違いかもしれません」
「旦那様に、直接伺うことは」
「本日は、お目にかかれません」
「左様ですか」
「では、書付だけでも残していただけますか」
「持ち帰り、整えます」
床を踏む音が、小さく動いた。
「宰相府にも、伺ってみます」
「それが、何より」
「お手数をおかけしました」
「いいえ」
「新しい方が、まだ慣れていらっしゃらないのでは」
「そうかもしれません」
「お邪魔いたしました」
「いいえ」
答えは、喉より先に浮かんだ。十年、そういう順で物を覚えてきた。
使者団が着いたのは、七年前の九月二十二日。献上品を渡したのは、その二日後。書式の順も、体が覚えている通りだった。
水差しの取っ手の上で、指が日付を書き留める形に動いた。軸の太さまで掌が覚えているのに、羽根ペンはどこにもない。
それを誰かに告げる場面は、遠い話のままだった。頼まれていないことは、言わない。十年、そう決めてきた。答えを渡す立場に、もう自分はいない。今はただ、聞いているだけの人間だった。
困ればいい、と思いかけた。
思いかけたことは、どこにも書かない。
水差しを持つ手に、力がこもった。喉の奥が、浅く鳴った。それだけを、階段の途中で確かめた。
窓の外で、馬車の車輪が石畳を鳴らして過ぎていった。
部屋に戻り、水差しを卓へ置いた。水面は、しばらく揺れ続けた。
卓の下で、指を組む。誰にも見せない仕草だ。
夕刻、鐘が三つ鳴った。数える手が、迷わず動く。慣れてしまった自分に、指が先に気づいた。
扉を叩く音に応えると、盆を捧げた同じ侍女の姿があった。蝋燭の灯りが、盆の縁で小さく揺れていた。
盆を卓へ置きながら、小さく言う。
「昼間、城のお使いがいらしたそうですね」
言葉はそこで止まらなかった。旦那様がけんもほろろだったこと、日付が分からず困っていたお使いの様子、新しい管理官もきっと大変だろうということ。盆の位置を直しながら、侍女は独り言のように続けた。
答える間は、与えられなかった。相槌の代わりに、匙を手に取る仕草だけを返した。皿の湯気が、侍女の声より先に鼻先へ届いた。
湯気の向こうで、声だけがしばらく行き来した。窓の外の暗さが、少しずつ深くなっていく。
「城の方々も、何かと慌ただしいご様子とか」
それにも、頷くだけで済ませた。
匙を持つ手が、一瞬だけ止まった。答える言葉を選ぶのに、いつもより間があった。
「そうだと、良いのですが」
短く返した一言だけが、その夜、自分の声で発した最初の言葉だった。
侍女は盆の位置を直しただけで、それ以上は口を閉ざした。
「支度も、そろそろとのことです」
「存じております」
「十日は、あっという間ですから」
「そうですね」
「荷の目録も、今日お戻ししたとか」
「はい、渡しました」
「何か、お手伝いできることがあれば」
「今は、結構です」
「馬車の手配も、進んでいるとか」
「初耳です」
「明日にでも、確かめておきます」
「お願いします」
「他に、何か」
「今は、それだけです」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
匙を取る。冷めきらないうちにと、すすめられた通りに。
温かさが、掌にだけ伝わった。舌には、味がうまく乗ってこない。
匙を置く。皿には、半分ほどが残った。残った皿は、そのまま卓の上に置かれた。
窓の外は、もう暗い。誰かの足音を待つ時間は、とうに過ぎている。
寝台の脇の麻布は、朝より嵩を増している。
鏡台の台帳へ、手を伸ばす。綴じ糸の凹凸を、指がなぞった。感触は、いつもと変わらない。
抽斗の掛け金へ、指を伸ばす。指先が、空を探った。指を離す。それだけの動作に、少し長く時間がかかった。
窓辺に立ったまま、爪の先まで冷えていくのを感じていた。
遠くで、婚礼支度の物音が一つだけ、まだ続いていた。
届くはずのものは、今月もまだ、何一つ届いていない。




