第4話: 十年分の台帳
生家の門をくぐるのは、十年ぶりだった。
出迎えの灯りは、いつもより二つ少なかった。
馬車が車寄せに着いても、しばらく扉は開かなかった。従僕が一人、ようやく歩み寄ってくる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
声をかけたのは、幼い頃から知る執事のハインツだった。目元だけが、記憶より深く落ちくぼんでいる。
「ハインツ、久しぶりです」
「お荷物は、それだけで」
「これだけです」
腕の中の布包みを、ハインツの目が一瞬だけ辿った。
玄関ホールへ入ると、大理石の床は記憶より冷たく感じられた。
保管室の埃とインクの匂いは、もうどこにもない。かわりに、蜜蝋と磨き粉の匂いが鼻を突いた。
柱の陰に飾られた肖像画の並びが、一枚増えている。見覚えのない誰かの顔だった。
「奥様は」
「お加減が、すぐれないとのことで。今日は、部屋からお出になりません」
それ以上、尋ねる言葉が見つからなかった。
婚約破棄の噂は、もう屋敷の隅々まで巡っているのだろう。
「旦那様が、書斎でお待ちです」
「今から、ですか」
「到着次第、とのことでしたので」
「参ります」
休む間もないことは、見て取れた。分かっていて、驚きはしなかった。
階段を上がる。手すりの艶が、目に馴染まなかった。踏み板の軋み方まで、記憶のものとは違う。
——十年前、同じ場所を駆け下りたことがある。王城へ上がる朝、急いた指先がこの手すりを弾むようになぞっていった。
今の指は、確かめるようにしか動かなかった。手すりの木目だけが、あの朝と同じ位置で節くれ立っていた。
二階の廊下で、見覚えのない侍女とすれ違った。相手は目を伏せ、足を止めずに通り過ぎていく。
書斎の扉の前で、ハインツが頭を下げた。
「ここから先は、わたくしめは」
「分かりました。ありがとうございます、ハインツ」
「お加減が優れないのは、奥様だけではございません。旦那様も、あまり」
「そうでしたか」
「差し出がましいことを、申しました」
「いいえ」
「……失礼いたしました。お待ちです」
短いやり取りだけで、彼は階下へ戻っていった。足音が遠ざかるまで、扉の前で腕の包みを抱え直した。
扉を叩くと、低い声が応えた。
「入れ」
書斎の中は、記憶よりも書物が多かった。窓辺の机に、父が座っている。
顔を上げないまま、羽根ペンを置いた。
「戻ったか」
「はい、ただいま戻りました」
「立ったままでいい。長くはかからん」
遠くで、鐘が二つ鳴った。
窓から差す光は、白く硬かった。
机の端に、革表紙の帳面が積まれている。領地の収支を記す父の帳面だと、扉を入った時から知れた。
綴じ方も紙の質も、保管室の台帳とは似ても似つかない。
父は、帳面の頁を一枚捲った。乾いた紙の音だけが、しばらく間を埋めた。
「昨夜のことは、もう城中に知れ渡っている」
「申し訳ございません」
「詫びる話ではない。起きたことは、起きたことだ」
父は、帳面の余白に印を一つ押した。娘と目を合わせる気配は、どこにもなかった。
「殿下との縁が切れた以上、お前に政略の値打ちはない」
「……」
「良い縁談も、当分は望めまい」
印肉の匂いが、束の間だけ書斎に広がった。
「噂が収まるまでは、屋敷で大人しくしていろ」
「かしこまりました」
「客からは、遠ざけてもらう。夜会にも、当面は出さん」
「承知しました」
「城からの使いが来ても、取り次がん。お前もその方が、気は楽だろう」
「使用人にも、口止めしてある」
「はい」
答えは、求められている気がした。頷くだけにとどめた。
「母上に、ご挨拶をと思っておりましたが」
「今は、控えろ。気を揉ませるだけだ」
「はい」
「悪気があるわけではない」
「存じております」
父は帳面を閉じ、脇の茶器へ手を伸ばした。一口だけ含み、また頁を開く。
「北の遠縁に、話は通してある」
「……」
「リーゼの婚礼が済み次第、お前はそちらへ移る」
「時期は、もうお決まりなのですね」
「来月の十日だ」
「支度は」
「屋敷の者に、すべて任せろ」
「分かりました」
父の指が、帳面の角で止まった。いつもより長く、そこに留まっていた。
「それまでは、客間を使ってもらう」
客間、という言葉が、耳の奥に残った。
「以前の部屋は」
「お前の妹が、もう使っている。縁談が調ったばかりでな」
「そうですか」
「異存は、ないな」
「ございません」
「よろしい」
言葉は、それだけで十分だった。
父の目が、ようやく腕の包みへ動いた。
「それは、何だ」
「保管室の台帳です」
「なぜ、そんなものを持ち帰った」
答えは、すぐには出てこなかった。理由を、自分でもまだ言葉にできずにいた。
「規則では、部屋に残していけばよいものです」
「ならば、なぜ持ってきた」
「……分かりません」
父は、片眉を上げただけだった。羽根ペンの先が、机の上で軽く一度弾んだ。
「あの部屋の仕事は、誰でもできる」
「お前でなければならん理由など、どこにもなかった」
「後任は、もう決まっているそうだな」
「その帳面も、置いてくれば良かったものを」
何かに縋ろうとした指先が、持っていないはずの羽根ペンを探しかけて、止まった。
代わりに、腕の中の綴じ糸を探り当てる。
その一筋だけが、今も指の腹に応えた。
十年分の綴りだけが、ここにいた証だった。
声には、出さなかった。
父の目が、また腕の包みへ戻った。今度は、長く据わったままだった。
「城の品を、屋敷に置いておくわけにはいかん」
「これは」
「言い訳は要らん」
「王城の物だと、誰かに見られてみろ。持ち出したと取られる」
「置いていくのが、筋だ」
頷く代わりに、腕の中の包みを胸元へ引き寄せた。
「聞いているのか」
「……」
「そんな紙の束は、焼いてしまえばいい」
「答えろ」
口を開いたが、音にならなかった。理由も、言葉にできなかった。ただ、布の結び目を確かめる指が、緩まなかった。
「……これは、わたくしが書いたものです」
短い一言だけを返した。父は、しばらくこちらを見つめた。それだけで、何を考えているかは分からなかった。
「……好きにしろ」
それ以上、何も言わなかった。羽根ペンを取り直し、手元の帳面へ視線を落とす。
ペン先が紙に触れる前の、あの一拍だけは、彼女にも覚えのある間だった。
「下がってよい。夕餉には、呼ばない」
「かしこまりました」
一礼して、扉へ向かう。振り返らなかった。
背中に、父の声はもう追ってこなかった。ペン先が紙をこする音だけが、扉の向こうまで届いた。
廊下の角で、足音が止まった。
婚礼衣装の生地見本を両腕いっぱいに抱えたリーゼが、そこに立っている。記憶より、背が伸びている。
目が合った。リーゼの唇が、わずかに開きかけた。
言葉は、出てこなかった。
腕の包みへ、リーゼの視線が動いた。すぐに、生地見本の方へ逸れた。頬の色だけが、一段濃さを増した。
抱えた腕の中で、生地見本の束が崩れかけた。リーゼはそれを直しもせず、目を伏せたまま横をすり抜けていった。
端の一枚が、廊下の壁に触れて硬い音を立てた。
足音が、角の向こうへ遠ざかっていく。扉の閉まる音が、少し遅れて追いかけた。
音が消えても、しばらくその場を動けなかった。誰を責める理由も、見つからなかった。ただ、逸れた視線の方が、まっすぐな言葉より長く胸に残った。
案内されたのは、東棟の客間だった。窓は南向きで、北棟の保管室とは正反対だった。
寝台の脚も、鏡台の位置も、体がまだ何一つ覚えていない。
支度に来た若い侍女が、水差しを置きながら小さく言った。
「何か、ご入り用でしたら」
「今は、結構です」
「はい。……お疲れさまでございました」
その一言だけが、今日聞いた中で最も柔らかい響きだった。侍女は一礼し、出ていった。
髪を覆う布は、もう外していい。それでも、ほどく手前で指が一度だけ止まった。
鏡台の隅に、台帳を置く。布に包まれたまま、木目の上に沈むように収まった。
鍵のかかる引き出しは、この部屋にはなかった。
十年、鍵を掛けることだけは欠かさなかった。今夜は、その手順さえない。
布に包まれた台帳の角を、もう一度だけ見つめた。手放せない重さだけが、まだ腕から抜けない。
寝台に腰を下ろす。座面の沈み方も、指の記憶にはないものだった。
この家のどこにも、覚えている形が一つもない。十年前に出ていった部屋の主は、もう誰でもなかった。
扉を叩く音がしたのは、夕刻を過ぎてからだった。呼ばないと言われたはずの時間だった。
開けると、先ほどの侍女が盆を捧げ持って立ったままだった。湯気が、廊下の冷気に細く溶けていく。
「お夕食を、お持ちしました。旦那様には、まだ何も申し上げておりません」
小さく頭を下げただけで、卓の方へ体を引いた。
侍女は盆を寝台脇の卓へ置きながら、鏡台の上の包みに目を止めた。
「それは、何の帳面でございますか。……王城の、品でいらっしゃいますか」
落とし物の記録だと、答える代わりに視線を伏せた。侍女はそれ以上尋ねず、「落とし物の」と小さく呟いただけで口をつぐんだ。
「冷めないうちに、どうぞ。顔色が、優れないようです」
湯気の立つ皿へ、目だけを向けた。答える言葉は、出てこなかった。
侍女は一礼し、扉へ向かいかけて足を止めた。
「月が変わりましたら、厨房の献立も変わります。月の初めは、必ずそうなんです。……おやすみなさいませ」
返事を待たず、侍女は一礼して退がっていった。
しばらく皿には手をつけなかった。
窓辺に寄り、掛け金の形を指先で確かめる。
窓の外で、遠くの鐘が三つ鳴った。この家では、まだ聞き慣れない数え方だった。
この部屋の鍵が、どこに保管されているのかさえ、まだ知らなかった。
来月の十日。父の声だけが、はっきりと耳の奥に残っていた。
布に包まれた台帳へ、もう一度だけ目をやる。この家でそれを深く知るのは、指先だけだった。
この部屋も、長くは要らないのだろう。




