第3話: もう、鍵はお返しします
十年勤めた部屋の鍵を、今日返す。
そう決めたのは、昨夜のうちだった。
昨夜、婚約は解かれた。今朝もまだ、絹の手袋の感触が指に残っていた。
北向きの窓に、朝の光が薄く差し込んでいた。
古い紙とインクの匂いは、消えていない。
結った髪はほどけかけ、裾は昨夜のまま床に触れていた。
寝台に横たわりもせず、そのまま朝を迎えた。
詰襟に着替え、髪を布で覆う。いつもの手順だった。
昨日までと違うのは、それが最後だという一点だけだった。
棚の抽斗を、順に指で確かめる。二段目、左から三つ目。留め金の緩みは、今朝も変わらなかった。
台帳を引き出しから取り出す。表紙の角が、掌のいつもの窪みに収まった。
いつもなら、机に広げて朝の一行を書き始める頃だった。
今日は、書かなかった。代わりに、綴りを布で包んだ。
棚に戻しかけた手が、途中で止まった。
規則では、台帳は部屋に残していけばいい。次の管理官が継ぐだけの品だ。
それでも、包んだ布を腕に抱え直していた。理由を考える間もなく、指が先に動いていた。
棚の下段には、まだ持ち主の来ない品が並んでいる。指輪、手袋、封を切らない手紙。あの日と同じ並びだった。
八年前の対の手袋も、そこに眠っていた。
名乗り出るまで、誰のものにもならない。十年、そう決めて守ってきた棚だった。
小箱の蓋を開け、指を差し入れる。百二十個分の冷たさが、束になって触れてきた。
届出人の欄に名のある回とない回が、指先の記憶にはどちらも同じ重さで残っていた。
蓋を閉め、棚の一番奥へ押し込む。次の管理官が、この箱の意味に気づくかは分からなかった。
机の上に、四日前に削った羽根ペンを置いた。三日で削り直すのが習いだった。昨日、その日が来ていた。
削らないまま、次の管理官へ残す。
インク壺の蓋を閉め、位置を心持ち机の奥へ寄せた。誰かに教える必要はなかったが、体はいつもと同じ位置を選んでいた。
椅子を机の下へ戻す。座面の窪みだけが、十年分の重みを覚えていた。
当て布を棚にかける動きだけは、いつもと同じだった。空になった抽斗に、鍵をかけた。掛け金の落ちる音だけが、やけに大きく響いた。
棚を最後に見渡す。十年で、四千二百八十一件。数えたことはないが、胸の奥でその数字だけは覚えていた。
扉を叩く音がした。洗濯場の女官だった。
「おはようございます。当て布を、と思って参りましたが」
「今朝は結構です」
「そうですか。……何やら、廊下がお騒がしいようで」
女官は棚を一瞥し、それから台帳の抱えられた腕に目を止めた。
「お引っ越しですか」
「今日で、この部屋を出ます」
「まあ」
「急なことですね」
「昨夜のうちに、決めましたので」
女官の手が、当て布の束を持ち直した。驚いた様子はなかった。
「承知いたしました。では、後任の方にお伝えしておきますね」
「もう、決まっているのですか」
「話だけは、昨夜のうちに宮内府から回ってきたそうです。手順さえ分かれば、誰にでも務まる部屋ですから。正式には、これからでしょうけれど」
「そうでしたね」
以前、同じ言葉を聞いたことがあった。今日は、頷く以外の返事が浮かばなかった。
「新しい方にも、これまで通り当て布をお持ちしますね」
「よろしくお願いします」
「棚の並びは、変えない方がよろしいですか」
「そのままで、結構です」
「抽斗の鍵まで、ちゃんと掛けていらっしゃる」
女官は当て布の束を抱え直し、棚の埃を一度だけ払った。
「十年、お疲れさまでした」
返す言葉を探したが、息だけが出た。頷くことしかできなかった。
女官の足が、扉の手前で一度止まった。それだけで、また歩き出した。
「では、これで」
「はい」
扉の閉まる音を、セラフィナは腕の台帳の重みで聞いた。
止める言葉も名残を惜しむ言葉も、それきり続かなかった。
鍵の返却先は、宮内府の詰所だった。北棟三階から中庭を挟んだ棟の、一階だった。
廊下を進むたび、詰襟の袖に台帳の角が擦れた。腕の中の重みは、思っていたより軽かった。
北棟の階段を降りる途中、見覚えのある侍女とすれ違った。祖母の形見のハンカチを取りに来た侍女だった。
侍女は足を止め、台帳の包みに目をやった。
「あの、これから」
「あの部屋を出ます」
「そう、ですか」
「わたし、まだ何も存じませんで」
「今朝、決まったばかりです」
「刺繍の柄まで、言い当てられて驚きました」
「これからも、大切にいたします」
侍女は口を開きかけ、そのまま息を吸い直した。
「ハンカチ、あれから毎日持ち歩いています」
「それは、良かったです」
「祖母のことを話したのは、あの日が初めてでした」
「祖母は、この城で長く洗濯場に勤めていたそうです。顔も知らずに、話だけを聞いて育ちました」
「台帳には、届出の日付とお名前だけが残っています」
「引き止めても、意味はないのですよね」
「意味は、ないと思います」
侍女は深く頭を下げた。それだけで、人波の方へ戻っていった。
階段の下り口で、下働きの少年とすれ違った。月初めに耳飾りを届けに来る、あの子だった。
少年は台帳を包む布を見て、足を止めた。
「今日は、来るの早いですね」
「それ、今日も書きにいくんですか」
「もう、書きません。今日で、あの部屋を出ます」
「……そうなんですか」
「はい」
「僕、来月から誰に届ければ」
「宮内府に、新しい管理官が決まると聞いています」
「その人も、ちゃんと帳面に書いてくれますか」
「規則は、そのままです」
「じゃあ、いいんです」
「耳飾りの箱は、どうなるんですか」
「そのまま、置いていきます」
「箱がいっぱいになったら、どうするんですか」
「そのときは、後任の方が決めることです」
「その人にも、ちゃんと言っておいてくれますか」
「申し送りに、記しておきます」
少年は布をもう一度見て視線を落としたまま、靴の先で敷石を一つ蹴った。それきり、何も言わなかった。
「では、行ってきます」
「気をつけて、行ってらっしゃい」
少年は階段の向こうへ駆けていった。振り返りはしなかった。
中庭を、遠回りに抜ける。西回廊の縁を、朝の光が細く縁取っていた。
噴水の水音が、耳の奥の記憶をかすかに揺らした。八年前の対の手袋の綴りが、頭の隅をよぎった。
指先が、羽根ペンの重みを探りかけて止まった。腕の中の布越しに、綴じ糸の感触だけが返ってきた。
柱の陰から、囁きが漏れ聞こえた。
「あの部屋、もう空いたそうよ」
「早いこと」
「殿下のご決断ですもの。仕方ないわ」
「気の毒なような、そうでもないような」
「次に誰が入るのかしらね」
声の主を、振り返って確かめる気にはならなかった。誰かの足音が近づき、また離れていった。
角を曲がったところで、見覚えのない婦人と目が合った。何か言いたげに扇を持ち上げかけ、結局、声にはならなかった。会釈だけを返し、通り過ぎる。
誰も、引き止めはしなかった。開いた扇の骨の隙間から、まだこちらを窺う目だけが背中に残っていた。
窓口には、初老の役人が帳面を広げていた。指先に、乾いたインクの染みがある。
役人はこちらの顔を見るなり、帳面から顔を上げた。
「ヴァレンティ嬢でいらっしゃいますね。伺っております」
役人は帳面の頁を繰った。指で行を辿る途中、視線が腕の包みへ動いて止まる。何も、尋ねはしなかった。
台帳の角を、腕の中で抱え直す。綴じ糸の感触が、指の腹に強く残った。
「もう、鍵はお返しします」
鍵を差し出す。金属の冷たさが、指の熱から離れていった。
役人はそれを受け取り、台の上へ置いた。
「確かに、承りました。……ご苦労さまでした」
「ほかに、申し送りはございますか」
「棚の品は、そのままにしてあります。届出人の欄が空白のものが、まだ何十とあります」
「承知しました。後任にお伝えします」
「一年で処分できる規則です。それでも、待つ方がよろしいかと」
「そのように、記しておきます」
「長年、頁を汚さずお使いでした」
「後任も、同じように続けられると良いのですが」
「異動の届けも、こちらで承っております」
役人は帳面に何かを書きつけた。ペン先の運びに、迷いはなかった。
「返却の日付は、本日でよろしいですね」
「はい」
「時刻は」
「今、鐘が八つ鳴ったところです」
役人はそれを聞き、帳面の欄を埋めた。羽根ペンの先が紙をこする音だけが響いた。
「以上で、手続きは終わりです」
「はい」
「他に、何か」
「ございません」
役人は帳面を閉じた。もう、こちらを見てはいなかった。
次の来訪者の名を、窓口の外へ呼ばわる声がした。
セラフィナは一礼し、窓口を離れた。誰も、呼び止めなかった。
回廊を歩く。腕の中の台帳が、詰襟の胸に押し当たっていた。
すれ違う文官たちは、目礼だけで通り過ぎていく。印章を受け取りに来たあの文官の顔も、その中にあった。
昨夜の広間で見た顔とは、誰も重ならなかった。
十年、この回廊を歩くのはいつも誰かの落とし物を届けるためだった。
今は、何も届ける物がない。抱えているのは、自分の書いた綴りだけだった。
正門の手前で警備の近衛が二人、槍を立てて並んでいた。
「お通りください」
「ありがとうございます」
二人は顔を動かさなかった。台帳を抱えた腕にも、目をやらなかった。
正面玄関に近づくと、車寄せに見覚えのある紋章の馬車が一台停まっていた。
ヴァレンティ家の紋章だった。御者は、こちらへ目を向けなかった。
扉の前で、案内役の従僕が短く一礼した。
「お荷物は、それだけでございますか」
「これだけで結構です」
「畏まりました。旦那様がお待ちです」
「分かりました」
「馬車の中に、膝掛けをご用意しております」
「ありがたく、いただきます」
従僕は馬車の扉を開けた。中は、朝の光が届かず暗かった。革の匂いが、扉の隙間から流れ出てきた。
振り返ると、王城ヴァイスハイムの壁が朝の光を浴びて白く並んでいた。
十年、この壁の内側で暮らしてきた。壁は今朝も同じ高さで、こちらだけが外へ出る。
台帳を抱え直し、馬車に乗り込む。座面が、思ったより硬かった。
膝の上に台帳を置く。表紙の重みが、膝の上にじわりと沈んだ。
窓辺に肘をつく。硝子の冷たさが、絹の袖越しにも染みてきた。
従僕が扉を閉める。留め金の音が、鍵を返した時と同じ高さで鳴った。
馬車が動き出す。車輪が敷石を踏むたび、革張りの座面が小さく震えた。
窓の外を、見慣れた城壁が後ろへ遠ざかっていった。
城門の詰所で、馬車は一度だけ止まった。
「ヴァレンティ公爵家の馬車です」
「通ってよろしい」
詰所の男は窓の外の顔に気づいた様子もなく、すぐに旗を振った。
馬車は速度を上げた。窓の外の景色が、見知らぬ街道に変わっていった。
誰も、見送りには出てこなかった。




