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第2話: 婚約は、記録に残らない

 十年、この広間に呼ばれたことは片手で足りる。今夜で、指が全部埋まった。


 絹の手袋の内側で、指先だけが取り残されている。何も、教えてくれない手袋だった。


 案内の声が、広間の奏でる楽の向こうで彼女の名を呼んだ。


 両開きの扉が左右に開く。楽の音より先に、視線の束が肌に触れた。


 扉の向こうから、大勢の話し声が波のように押し寄せてきた。


 蜜蝋の匂いと、大勢の吐息の熱が混ざって漂っていた。詰襟の廊下では嗅いだことのない匂いだった。


 式部官が、朗々と声を張った。


 「ヴァレンティ公爵家、セラフィナ嬢」


 広間中の視線が、一斉にこちらへ向いた。


 「ヴァレンティ嬢、こちらへ」


 案内係に導かれ、広間の中央を横切っていく。


 入り口の脇に、近衛が一人立っていた。定位置から三歩は下がる、と聞いたことのある規則だった。


 薄い靴底の下で、大理石の冷たさが尖って感じられた。詰襟に慣れた足には、この靴も借り物のようだった。


 すれ違う誰かの香が、鼻先を掠めて消える。楽団の弦の音が、床板越しに指先へも届いていた。


 燭台の数は、去年の式典の時より二つ多い。数えたわけではないが、指先が並びの間隔を覚えていた。


 垂れ幕の金糸の房も、一つ増えている。誰に問われたわけでもないのに、手が確かめるように空を辿った。


 階段の手すりは、行事のたびに磨き上げられている。指の滑りの良さだけが、いつもと同じだった。


 殿下の隣、二段だけ高い場所へ上がる。詰襟の重みとは違う絹の裾が、膝の辺りで揺れて落ち着かない。


 隣に立つラウレンツは、正面を向いたまま目だけをこちらへ寄越した。


 近くでこの目を見たのは、数えるほどしかない。


 「遅かったな」

 「支度に、これだけの時間をいただきました」

 「そうか」


 殿下の視線は、もう正面へ戻っている。婚約者の顔より、広間の入り口を気にしていた。


 「新年の叙勲の順は、変わっていませんか」

 「三日前に確認しました。変わっていません」

 「それでいい」


 「宰相府への使者は、来月も同じ日取りで」

 「分かった」

 「南棟の改修は、来週から音が響きます。前もってお耳に」

 「聞いておく」


 杯の脚の冷たさが、指の腹に張りついたまま動かなかった。


 「東棟の客間は、まだ改装中で」

 「知っている」

 「客間の割り当ては、例年通りで」

 「ああ」

 「北の使者団は、今回も同じ棟へ」

 「好きにしろ」


 短い返事を重ねてから、ラウレンツは何も付け加えなかった。十年、それで通ってきた。


 それきり、会話は途切れた。途切れた分だけ、周囲の視線が忙しく動いた。


 絹の手袋越しに、扇の骨がこすれる音が幾つも重なって届いた。


 「あちらが、婚約者様?」

 「十年前からのお話とか」

 「今夜、初めて見た気がするけれど」

 「殿下にも、婚約者がいらしたのね」

 「随分、地味な装いね」

 「それも仕方ないでしょう、あの部屋暮らしでは」


 誰の声かは分からない。装いを検分する目の群れが、二人の間を埋めていく。


 人が多いほど、声は輪郭を失う。それでも、その一つ一つが彼女の背筋に触れていくようだった。


 式部官の声が、楽の音を割って広間に通った。


 「両陛下より、祝いの言葉を賜ります」

 「婚礼の日取りは、近く改めてお披露目を」


 陛下が短く杯を掲げ、一言だけ声をかけた。


 「息災であれ」

 「ありがたきお言葉です」


 杯を掲げる硝子の音が、一斉に鳴った。十年、婚約者として名を呼ばれたことは、一度もなかった。


 拍手が広がる中、ラウレンツは杯を掲げただけで、こちらを見なかった。


 どこかで、誰かが小さく囁いた。


 「ようやく、正式に」

 「あの方も、報われるのね」


 楽団が次の曲へ移る合間、人の輪が崩れて隙間ができた。


 その隙間から、撫でつけた灰色の髪が現れた。


 ロートベルク侯爵は膝を軽く折った。礼の形だけは完璧だった。


 「殿下。ご婚約者様も、今宵はいつにも増してお美しい」

 「侯爵」


 侯爵は、まだ言い終えていない殿下の言葉に、先に頷いていた。相槌が言葉を追い越していた。


 「記録係殿にも、久しいですな」


 「……」


 「あの部屋は、今宵はお留守のようで。十年よく空けずにいらしたものを」


 「今宵は、あの部屋も静かなことでしょう」

 「……」

 「誰も気づかぬまま、回っていくのかもしれません」

 「回らぬわけがない」


 「紙です。ただの紙でしょう。誰が、そんなものを気にすると」

 「殿下は、そうはお思いにならないでしょうが」

 「侯爵の申す通り、紙は紙だ」

 「殿下は、よくお分かりでいらっしゃる」


 セラフィナは何も返さなかった。返す前に、侯爵の目はもうラウレンツへ向いていた。


 「殿下。あれは、隣に立つ器でしょうか」


 侯爵は言葉を切り、頭を垂れた。


 「——いえ、わたしが決めることでは」


 広間の音が、一段落ちた。誰かの扇が、途中で止まった。


 楽団の弓さえ、一拍だけ空を切った。誰も、身じろぎ一つしなかった。


 広間の熱気だけが、変わらず頬を炙っていた。


 セラフィナの指先は、手袋越しに羽根ペンを探し続けていた。


 持っていないと分かっていても、指だけが職務をやめなかった。


 ラウレンツの喉が、一度上下した。指が、杯の脚を強く握り直すのが分かった。


 「侯爵の言うことは、もっともだ」

 「殿下」

 「記録係の分際で、私の隣に立つつもりだったのか」


 人垣の端で、革靴が二歩だけ床を鳴らした。


 三歩目は、踏み出されなかった。


 広間にいる近衛の一人が、そこで立ち止まっただけだった。腰の剣にかけた指だけが、そのまま止まっていた。


 入り口で見た男と同じ距離を、この男もまだ保っていた。


 セラフィナの目は、その男を映さなかった。


 喉の奥で、言葉が形になる前に消えた。それだけだった。耳の奥で、自分の脈だけが大きく鳴っていた。


 誰かが、たまらず声を上げた。


 「殿下、それでは」


 ラウレンツは、その声を一瞥もしなかった。


 侯爵は肩を軽く上げ、すぐに戻した。


 「殿下のお心のままに。わたしは、何も申しておりません」


 「お前の家格に、否はない」

 「だが、記録に残らない功は王家の隣に立つ根拠にはならない」


 「殿下、それは」

 「王家は、帳面を捲る女を妃に迎えない」


 「今宵、皆の前で示す。王家に迷いはないと」

 「殿下」

 「これ以上、何を言わせる気だ」


 「十年、お前が何をしていたか知らない」

 「知らないことこそ、証拠だ」

 「見えるものだけが、王家の隣に立つ資格だ」


 「殿下、そろそろはっきりと」

 「言われずとも分かっている」

 「その通りかと。殿下のお考えは、いつも正しい」


 ラウレンツは、自分の声にだけ頷いた。杯を持つ指の関節が、白く強張っていた。


 「今日をもって、婚約を解消する」

 「ヴァレンティ嬢とは、もう何の関わりもない」


 指先の感覚が、遠のいた。手袋の中で、もう羽根ペンの形さえ探り当てられなかった。


 ラウレンツの肩が、大きく上下していた。


 言い終えた息と、言ってしまった強張りが、同じ表情の中にあった。


 広間が、大きく息を吸い込むように静まってから、一気にざわめいた。


 「まあ」

 「本当に、記録係を」

 「殿下も、思い切ったことを」

 「あちらの家は、これでどうなるのかしら」

 「気の毒に、あれでは」

 「余計なことを、お言いでない」

 「殿下のご決断、さすがだわ」

 「これで、良縁の道も開けるかもしれない」


 囁きの隙間を、衣擦れの音が遠ざかっていった。


 書記官らしき男が、恐る恐る声をかけた。


 「殿下、これは正式な記録に」

 「好きに書け」

 「日付と、場所は」

 「知るか。適当に書いておけ」

 「……かしこまりました」


 書記官は、震える手で羽根ペンを握り直した。急ぐあまり、インクの染みが指先に散った。


 王妃と思しき方向から、扇を閉じる硬い音が一つ響いた。それきり、そちらへ動きはなかった。


 式部官が、戸惑ったようにこちらを見た。


 「ヴァレンティ嬢、何か」

 「ございません」


 それだけで、式部官は次の段取りへ、視線を逃がすように移した。


 「記録係殿、どうぞお大事に。良い記録をこれからも」


 ロートベルク侯爵は一礼だけして、人垣の中へ戻った。口角の吊り上がりだけが貼りついたまま、去り際の空気の密度を変えずにいた。




 遠くで、鐘が一つだけ鳴った。夜が、まだ半ばだと告げていた。


 楽団が、何ごともなかったように次の曲を始めた。


 人垣が崩れ、視線の群れが少しずつ散っていく。三々五々、小さな輪に分かれて話し出す声が広間を埋めた。


 誰かが、直接近づいてきた。


 「ヴァレンティ様、大変でしたわね」


 セラフィナは、小さく頭を下げ、視線を落とした。


 「……」

 「まあ、お労しい」


 それだけ言うと、扇の陰へ隠れるように離れていった。


 すれ違いざま、誰かが小さく言った。


 「哀れなこと」


 振り返っても、もう誰の背中か分からなかった。


 人垣の切れ目に、まだあの近衛が立っていた。位置は、先ほどと変わっていなかった。


 セラフィナは、その場に立ち尽くしていた。動く理由が見つからなかった。


 誰も、声をかけてこなかった。


 少し離れた場所で、若い侍女が一度こちらを見て、すぐに目を伏せた。


 見覚えのある顔だったが、名までは思い出せなかった。


 その侍女が、一度だけ足を止めた。


 「あの、失礼ですが」

 「いいのです」

 「……失礼いたしました」


 それだけで、人波の中へ紛れていった。


 広間の隅、大きな窓の外に、庭園の暗がりが見えた。


 灯りの届かない木立の影が、風もないのに小さく揺れていた。


 誰かが通り過ぎながら、聞こえよがしに囁いた。


 「これで、あの部屋も空くわね」

 「次は、どなたが」


 答える者はいなかった。二人の声は、すぐに別の話題へ移っていった。


 頭の中で、今夜の一行を書いていた。日付。時刻は分からない。場所、王城大広間。


 届出人の欄には、何と記せばいいのか分からなかった。


 誰かの扇が、足元近くに落ちた。持ち主は振り返らず、人波の奥へ遠ざかっていった。


 指先が、拾い上げようと動きかけた。十年、体に染みついた癖だった。


 途中で、止めた。今日から、それは自分の仕事ではない。


 衛兵の詰所の方から、声がかかった。


 「送りましょうか」

 「結構です。まだ、広間におります」

 「本当に、よろしいのですか」

 「よろしいのです」

 「……承知しました」


 床の隅に、誰かの手袋が片方だけ落ちているのが目に入った。


 持ち主を探す間もなく、給仕の足に蹴られて陰へ消えた。


 棚も台帳もない場所で、指先だけが、まだ何かを記録しようとしていた。


 楽団の旋律が、遠くの水音のように鈍く聞こえていた。


 柱の陰から、控えの間へ続く小さな扉が見えた。誰も通らない場所だった。


 扉には、外側に小さな真鍮の取っ手がついていた。摘まむと、いつも使う鍵穴の縁とよく似た段差があった。


 造りは違うのに、指がそう教えた。


 扉の内側は、灯りが届かず暗かった。誰かの外套と、預けられた扇が幾つか、壁際に並んでいた。


 楽の音も、そこまでは大きく届かない。


 喧騒から一歩離れただけで、耳の奥の音が落ち着いていった。


 肩から、絹の裾の重みがずり落ちそうになるのを、片手で押さえた。


 支度のときには気にならなかった重みが、今はやけにはっきりと分かった。


 少しずつ、足を動かした。広間の中央から、柱の陰へ。


 誰の目も届かない場所ではなかったが、それで十分だった。


 手が、いつの間にか腰の辺りをまさぐっていた。


 絹の下に、慣れた金属の感触があった。


 北棟三階、あの部屋の鍵だった。


 支度の合間、外すことを誰にも言われなかった。だから、そのままにしていた。


 十年、肌身離さず持っていた鍵は、今夜も彼女と共に広間に立っていた。


 鍵の刻み目を、指の腹でなぞる。何百回と繰り返してきた形だった。


 広間の灯りが、鍵の表面で小さく揺れた。

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