第1話: 落とし物は、いつも私のところに来る
王城で落とされたものは、すべてわたくしのところへ来る。十年で、四千二百八十一件。
そのうち百二十件は、同じ人が同じ日に落とした、片方だけの耳飾りだった。
今朝は、扉の外の気配がいつもと少しだけ違った。
先月は、歯の一本欠けた銀の櫛だった。触れると、欠けた場所だけがひときわ滑らかだった。
遺失物保管室の朝は、指先から始まる。
セラフィナ・ヴァレンティは引き出しの鍵をつまむ。金属の冷たさが指の熱に馴染むまでの間だけ目を閉じる。
それから板戸を押し上げると、朝の光より先に埃の匂いが動いた。
北棟三階、階段の裏。棚と台帳と鍵のかかる引き出しが一つ。十年、変わらない部屋だった。
結い上げた髪を覆う布の位置を直す。執務机の椅子に腰を下ろす。
台帳の綴じ糸の縁は、指の腹でなぞるとわずかに毛羽立っている。
新しい頁は滑らかで、古い頁は紙が薄く波打っていた。
頁の隅には通し番号が振られている。日付順に綴じられ、後から挿し込むことはできない。
北向きの窓一つの部屋は湿気に弱い。冬の間に書かれた行だけ、字がわずかに震えているのも分かる。
棚に並ぶ引き出しの取っ手はどれも同じ形をしているはずだった。
それでも、二段目の左から三つ目、留め金が少し緩い抽斗だけは、目を閉じても指が迷わなかった。
台帳の見出しは、開室した日からずっと同じ書式だった。
誰が、いつ、何を落としたか。
日付。時刻。場所。拾得者の署名。それだけの四列が、十年分四千二百八十一行続いている。
日に一件か二件。多い日は五件を超える。
読む者にはただの帳面に見える。セラフィナも十年、そのつもりで開いてきた。
棚の下段には、十年分の綴りが年ごとに並んでいる。指輪、手袋、封を切っていない手紙。
持ち主の名を記せない品ほど、綴りの隅で長く眠っていた。
三日前に削ったばかりの羽根ペンを取る。右手中指の第一関節にできた古いペンだこの上に置き直す。
書き始める前の、いつもの癖だった。
朝の書き物が一段落した頃、洗濯場を仕切る年配の女官が顔を出した。
棚の当て布を新しいものに替えに来たのだという。
「相変わらず、隅々まで綺麗にお使いですね。次の管理官も助かりますこと」
「次の、ですか」
「いずれは、という話です。手順さえ分かれば、誰にでも務まる部屋ですもの」
「そうかもしれません」
女官に悪気はなかった。セラフィナも、その通りだと思っている。
台帳の書き方も拾得者への応対も全て頁のどこかに書いてある。自分でなくても回る仕事だった。
「そうですね。手順は、全部帳面に残しています」
「そういえば、今年は夜会の支度が例年より早いとか」
「存じません。ここには届きませんので」
「そういうものかもしれませんね」
「当て布、また汚れたら仰ってくださいね」
「助かります」
「今日は、これで三部屋目です」
「お疲れさまです」
「では、これで」
「はい」
女官が去ると、当て布の埃っぽい匂いだけが残った。
本当にそう思っているのか、突き詰めて考えたことは一度もなかった。
十年、そう思う理由を探したことさえなかった。
今日に限って、自分がいなくなった後のことまで、考えかけている自分に気づいた。
今日に限って廊下を行き交う足音がいつもより慌ただしい気がした。理由は分からないままだった。
昼前、若い侍女が扉から顔を覗かせた。
「先日お預けしたハンカチを、取りに参りました」
「お名前と、失くされた日を」
侍女が答えると、セラフィナは台帳の頁を繰り、指先で行を這わせた。
刺繍の縁の粗い感触を覚えている頁だった。
「刺繍は、白い薔薇でしたか」
「はい、祖母の形見です」
「大切なものですね」
「はい、とても」
「祖母は、これを縫っている間だけ機嫌が良かったのです」
「そうですか」
「もう七年前に亡くなりました。形見だと誰かに言ったのは、今日が初めてです」
「頁には、そこまで書けません」
「書いていただかなくて、結構です」
棚の抽斗からハンカチを出す。渡す。侍女は両手で受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。もう戻らないと諦めていました」
「半月と四日です。三月十三日、王妃の間の前の廊下で」
侍女は目を丸くした。
「そこまで覚えていらっしゃるのですか」
「帳面に書いてありますので」
侍女の頭が上がるまでの間、セラフィナの指先は羽根ペンの軸に触れたまま止まっていた。
次に返す言葉が見つからなかった。見つからないまま、いつもの一言に戻る。
「落とし物ですので、持ち主にお返ししただけです」
「それでも、忘れずにいてくださって」
「忘れているのは、こちらではなく持ち主の方です」
「厳しいのですね」
「事実を申し上げただけです」
侍女はハンカチを胸に抱いた。
「では、また何か失くしましたら」
「いつでもどうぞ。ここは、動きません」
同じ言葉を、十年で何百回と口にしてきた。抑揚をつけたことは一度もない。
扉を叩く音がしたのは、侍女が去ってすぐだった。
「開いております」
革靴の音で、近衛の誰かだと分かる。歩幅が広く、踵を強く落とす。
入ってきたのは西回廊を持ち場にする男で、片方だけの革手袋を握っていた。
「噴水の縁で拾いました。持ち主は分かりません」
「時刻は」
「分かりません。見回りの途中で見つけただけです」
「そこに日付と場所とあなたの名を」
男が台帳に名を書き終えると、セラフィナは指の背でインクの盛り上がりを確かめてから引き取った。
急いで書かれた字は、指に引っかかる。今日の字はなめらかだった。急いでいない証拠だ。
「あなたの名は、この帳面で二十三度目です。拾い物の多い方ですね」
男は片眉を上げた。
「そんなに、ですか」
「西回廊の警備は、日に何度も屈む姿勢を取ります。無理もありません」
「見つける方が、性に合っているのかもしれません」
「性分は、台帳には書けません」
「それは、残念です」
男は棚の下段に目をやった。
「古い抽斗が、随分とありますね」
「八年前の綴りです。その手袋と対の品も、そこに眠っています」
男が眉を寄せた。
「対の品、ですか」
「八年前、同じ噴水の縁で拾われました。届出人の欄は、それきり空白のままです」
「……持ち主は」
「分かりません。見つかる見込みは、もうありません」
男は何か言いかけて、口を閉じた。
「それでも、置いておくのですね」
「名乗り出るまでは、誰のものにもなりません」
「規則では、一年で処分できるはずでは」
「規則は、そうです。わたくしは、そうしません」
「それでは、帳面はいずれ厚くなるのでは」
「名乗り出ない頁だけは、糸を解いて別に綴じております」
「そういう決まりが」
「探す時に、その方が早いのです」
男は手袋を握り直した。
「上には、咎められませんか」
「咎められたことは、まだありません」
男は窓の外に目をやった。
「持ち主が、もう王城にいないとしても」
「それでも、待ちます」
「変わった人だ」
「よく言われます」
「頑固な方だ」
「否定はしません」
男は少し黙ってから、もう一度棚の下段に目をやった。
「見つからないと分かっていて、待つのは辛くありませんか」
「辛いかどうかは、台帳には関係ありません」
「関係なくても、感じるものでしょう」
「感じても、書く欄がありません」
男は小さく笑った。
「持ち主が見つかったら教えてください」
「承知しました」
「よろしく」
それだけの用件だった。男が去ると、セラフィナは棚の下段の抽斗をそっと押し戻した。
セラフィナは自分の書いた三日前の行に目を落とした。月の数字が一つずれている。
字そのものは乱れていない。急いだのは、数字だけらしい。
消しはしない。定規を頁に当て、誤った数字の上に二本の線を引く。
日付を添え、その下に自分の名を置く。定規を頁から離す。この二本の線を誰かが読みに来たことは、十年で一度もない。
午後の初め、宰相府の使いだという若い文官が印章を探しに来た。
「宰相府の使いの方、お名前をお聞かせください」
文官が名乗ると、セラフィナは台帳の届出欄にそれを記してから、抽斗から革袋を出した。
「南回廊、一昨日の鐘が八つの頃。近衛からの届出と、紋章の羽の数が合っています」
「……早いですね」
「探す前から、分かっていましたので」
冷たい金属の縁に彫り込まれた紋章の凹凸が指に残った。
文官は検めもせず懐に落とし込み、一言だけ礼を言って踵を返した。
足音が遠ざかっていった。
同じような問答を、今日はもう幾度か重ねている。頁を探す手の動きに、迷いがなくなって久しい。
これが十年というものかもしれない、とだけ思った。
セラフィナは綴りを閉じた。その日の届出欄に「返却済み」と記した。
処分せず十年待つと決めている品は、まだ何十とある。
届出人の欄は、名乗り出ない持ち主を、それでも待ち続けるためのものだった。
誰かが取りに来るまで、その品は誰のものにもならない。
誰にも頼まれてここにいるわけではない。それでも十年、この部屋にいた。
四千二百八十一件のうち、指輪が三百近く。手袋が七百近く。開封されていない手紙が二十三通。
数えたことはないが、行を繰ればおおよその見当がつく。指先が、頁の厚みで覚えている。
午後半ば、下働きの少年が拾得物の包みを届けに来た。
毎月一日に必ず一つ、片方だけの耳飾りが拾得届と共に上がってくる決まりだった。
聖ミルダは失せ物の守り手とされる聖人だという。月の一日に、その月に落とした物を数える習わしがある。
いつ、どこで拾われたのか。届書に記されるのは、いつもその二行だけだった。
今日のものは、北棟の階段の踊り場と記されていた。
紐をほどくと、届書に包まれて耳飾りが出てくる。留め金の意匠は前回と違うが、同じ癖があった。
指の腹でなぞると、左側だけがわずかに摩耗している。左耳側だけを触る癖のある持ち主のものだ。
届出人の欄は空白だった。前回は名があった。前々回も、また空白だった。
セラフィナは抽斗の奥から小箱を取り出し、蓋を開けた。
指を差し入れると、これまでの耳飾りが粒のように指先に触れる。重なり合う感触が、わずかに湿って冷たい。
今日の一つを加えて蓋を閉じる前に、もう一度持ち上げた。これまでより心持ち重い。
数えたことはないが、指が重さで百二十個目だと教えてくれた。
よく物を落とす人がいるものだ、とだけ思った。台帳の該当欄に「聖ミルダの日・届出人不明」と書き足した。
小箱の蓋を閉める指先に、これまでの耳飾りの冷たさが束になって残った。
陽が傾きかけた頃、扉を叩く音がまた響いた。今度は靴音でなく、案内係の乾いた声だった。
「ヴァレンティ嬢。今宵の夜会に、殿下のお隣としてご出席をとのお達しです」
セラフィナは羽根ペンを置いた。ペン先が紙に触れたまま、いつもより長く止まっていた。
なぜ今夜なのか、心当たりはなかった。
「承知しました」
「ご予定は他に」
「ありません。ここにいるだけです」
「では、支度の者を差し向けます」
「お願いします」
「開始は、鐘が七つ鳴ってからです」
「分かりました」
「殿下は、もう広間に」
「わたくしは、まもなく参ります」
返事は短かった。夜会の予定は聞いていない。
だが婚約者の隣に立つことに、これまで理由を求めたことは一度もなかった。
案内係の足音が階段の向こうに消えていった。
セラフィナはその日の最後の行を書き終えた。インクが乾くのを待った。半刻。
急いで閉じれば、向かいの頁に写ってしまう。
台帳を引き出しに納める。棚に埃よけの当て布をかける。指先に触れる布の粗さだけは、いつもと同じだった。
窓の板戸を下ろす。引き出しに鍵をかける。いつもと同じ手順のはずだった。
鍵の先を、鍵穴の縁のわずかな段差へ当てる。何百回と繰り返した動きだった。
だが鍵は、一度で回らなかった。二度目でようやく、かちりと音がした。
鍵を持つ指の関節に、いつもより力が入っていたことに、セラフィナは少し遅れて気づいた。
自室に戻ると、支度のために呼ばれていた侍女が待っていた。
「ヴァレンティ様、こちらの手袋のほうがよろしいかと」
「今宵は、いつもと支度が違うのですね」
「殿下のお隣にお座りになると伺いました。近頃では珍しいことですから」
「そうですか」
「ドレスも、いつもの詰襟ではありません。こちらをご用意しました」
「今宵だけの、特別な装いということですね」
「今宵ばかりは、殿下の隣に相応しい装いをとのことです」
「分かりました」
差し出された絹の手袋は、詰襟の袖に馴染んだ紙の感触とはまるで違う。
指を通すと、表面がなめらかすぎて逆に落ち着かなかった。
十年、指の腹で覚えてきたのは紙の毛羽立ちと金属の冷たさだった。この手袋は、何も教えてくれない。
指先が、自分のものでなくなったようだった。
「結構です。ありがとう」
「お加減が優れませんか」
「いいえ。慣れないだけです」
「かしこまりました」
「靴は、こちらでよろしいですか」
「それで結構です」
「装いが変わると、指先まで落ち着きませんね」
「すぐに、慣れます」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです」
侍女は一度下がりかけて、また振り返った。
「……あの、差し出がましいようですが」
「何でしょう」
「殿下の今宵のご予定、奥向きに回ってきたのは今朝だったそうです」
「いつもと違う、と言いたいのですか」
「そこまでは、分かりません。ただ、奥向きの者たちが今朝から落ち着かない様子で」
「そうですか」
「……いえ、私の申し上げることではありません。失礼いたしました」
「分かりました」
セラフィナは扉を閉め、夜会の支度に向かう回廊を歩き出した。
広間に近づくにつれ、弦を合わせる楽団の音が壁越しに響いてきた。
すれ違う侍女たちがいつもは向けない目でセラフィナの装いを見る。
詰襟でない自分の輪郭を、彼女自身もまだ持て余していた。
誰かの忍び笑いが、着飾った一団の陰から楽の音に紛れて耳を掠めた。
何を笑われているのか、振り返っても分からないまま広間の扉が近づいてくる。
回廊の曲がり角で、男とすれ違った。
装飾の重い礼装、撫でつけた灰色の髪。財務卿、ロートベルク侯爵だった。
男は歩みを緩めず、間合いを一歩分だけ多く詰めてきた。すれ違う空気が、いつもより重く粘った。
「これは、記録係殿。ご立派なことで。あの部屋を十年、よく務まっておいでだ」
彼女が口を開くより先に、男は小さく頷いた。相槌にしては早すぎる、聞く前の頷きだった。
目だけは、何百と扱ってきた蝶番と同じ角度で止まっていた。
笑いの形を、それ以上動かす気がないというように。
答えを待たず、男はもう通り過ぎていた。
セラフィナは何も返さなかった。十年の自負を、皮肉ひとつで軽く小突かれた気がした。
指先が、持っていないはずの羽根ペンを探した。
取っ手に触れた手は、冷たさを覚える前に離れた。
十年、この部屋から出るのはいつも誰かの落とし物を届けるためだった。
今夜だけは、自分が届けられる番になる。




