第88話 想定外は礼を知らない
——地下・護送区画。
配膳用の台車が静かに止まり、リディア・カーヴァー伍長は無駄のない手つきで食器を並べていく。
第一師団所属、守衛兼拘束対象の管理補助。任務は単純で、感情を挟む余地はないはずだった。
だが、頭から離れない言葉がある。
——上に気をつけなさい。
(上……?)
ここは地下だ。構造物に囲まれ、ヴェイルは侵入できないとされている。理屈は理解している。それでも、あの男は迷いなくそう言った。
リディアは一瞬だけ手を止め、天井へ視線を向ける。異常はない。石材は均一で、ひび一つない。
その時、警報が鳴り響いた。
「敵襲! 戦闘配備!」
空気が一瞬で張り詰め、廊下を兵が駆け抜ける。リディアも即座に武器を取る。
その背後。
椅子に拘束されたままのバルドルが、わずかに顔を上げた。
両腕は固定され、動けない。
それでも——
姿勢は崩れていない。
「始まりましたね」
穏やかな声だった。
——
——屋上。
夜風が吹き抜ける開けた空間で、空中が歪み、裂ける。そこから現れたヴェイルは着地と同時に踏み込み、一直線にドナルへと迫った。
衝突は轟音とともに起きる。だがドナルは退かない。真正面から受け止め、その場で完全に止める。
「……いい」
フィン・オドハーティ大佐が低く笑う。
「壁は機能してる」
別の個体が跳び、キアランへと襲いかかる。だが術式が即座に展開され、見えない壁に弾かれる。
その瞬間、横から吾郎が踏み込み、斬撃を入れる。
浅い。
「浅い」
動かずにいたマーラが言い放つ。
「踏み込みが甘い」
吾郎は歯を食いしばる。
「わかってる」
「わかってないから浅い」
即座に返される。
その横で彰が間合いを詰め、連撃で体勢を崩す。だが軌道が甘い。決定打にならない。
「遅い」
短い指摘。
次の瞬間、マーラが動く。わずか一歩で距離を消し、ヴェイルの腕が宙を舞った。斬撃は見えない。結果だけが残る。
「見て覚えろ」
冷たい声。
「死ぬ前に」
二人の表情が変わる。再び踏み込み、今度はわずかに深く入る。
「……少しマシ」
厳しいが、見ている。
その間にも、空間はさらに歪み、追加のヴェイルが現れる。戦場は一気に膨れ上がっていく。
——
——地下。
警報は鳴り続けている。
リディアは武器を構えたまま、再び天井を見た。違和感が消えない。むしろ、強くなっている。
その時、微かな軋みが走った。
石材が沈む。
「……!」
ひびが走る。
次の瞬間、天井が内側から砕けた。
土と石が崩れ落ちる中から、腕が現れる。
天井から、這い出る。
続いて顔。
ヴェイル。
全身が土と石に覆われている。
地属性。
構造物を侵食し、内部から“上”を作って侵入してきた。
リディアの呼吸が止まりかける。
だが——
動く。
ヴェイルはそのまま身を引き抜き、静かに着地する。そして迷いなく、椅子に拘束されたバルドルの正面へと進んだ。
「……なるほど」
バルドルは視線だけでそれを追う。
身体は動かない。
だが、声は落ち着いている。
「地を使って“上”を作ったわけですか」
わずかに感心する響き。
その前に、リディアが踏み出す。
一歩。
構える。
「ここは、通さない」
短く、強い。
ヴェイルが動く。
速い。
リディアも反応し、受け、弾く。
重い。
押される。
だが——
退かない。
その背後。
動けないはずの男が、静かに言った。
「……見事だ」
穏やかな声。
視線だけが、戦いを追っている。
その中に。
確かな評価があった。
次の瞬間。
別の足音が、区画へと踏み込む。
戦いが、もう一段階引き上げられる。
——




