第8話 上位個体
下水路の空気が変わった。
それは温度でも湿度でもない。
もっと本能的な何かだった。
生き物が危険を察知したとき、
理由もなく背筋が冷たくなる。
あれと同じ感覚だ。
「……来る」
キアランが低く言った。
彼の杖――レグルスの先端が、わずかに震えている。
怜は息を止めた。
暗闇の奥。
そこに。
何かがいる。
水音が止んだ。
それまで絶えず流れていた音が、
まるで誰かに掴まれたように消えた。
次の瞬間。
地面が、軋んだ。
ゆっくりと。
重いものが。
動いた。
闇の中から現れたのは――
巨大な影だった。
高さは、人間の二倍近い。
体表は黒く硬質で、まるで鎧のような外殻に覆われている。
四肢は異様に太く、先端には刃物のような爪。
そして。
目。
赤ではない。
青
怜の背筋が、ぞくりとした。
この色。
見たことがある気がした。
だが。
思い出せない。
(違う)
これまでの個体とは。
まったく。
違う。
「歪体」
ブリギットが言った。
一拍。
「上位個体だ」
その声は、静かだった。
だが。
周囲の空気が張り詰める。
ドナルが前に出る。
拳を握る。
「俺が行く」
短い言葉。
ブリギットは一瞬だけ彼を見た。
そして。
小さく頷いた。
「任せる」
それだけ。
次の瞬間。
ドナルが踏み込んだ。
床が砕ける。
石が跳ねる。
空気が裂ける。
拳が放たれる。
直撃。
鈍い音。
だが。
動かない。
歪体はわずかに揺れただけだった。
怜は息を呑んだ。
(効いてない)
次の瞬間。
歪体の腕が振り下ろされた。
速い。
ドナルが腕で受ける。
衝撃。
床が陥没する。
「……っ」
彼の足が滑った。
完全には耐えきれない。
そのとき。
キアランが動いた。
レグルスが閃く。
槍の軌跡。
歪体の脚に命中。
硬い音。
わずかに体勢が崩れる。
だが。
倒れない。
「硬いな」
キアランが言った。
その声は落ち着いている。
だが。
わずかに真剣だった。
そして。
ゆっくりと。
ブリギットが前に出た。
金色の髪が揺れる。
彼女は剣を構えた。
その瞬間。
空気が変わった。
重さが消えた。
代わりに。
圧倒的な静けさが満ちた。
怜は理解した。
(この人が)
(本気を出す)
ブリギットが一歩踏み出した。
雷が。
落ちた。
閃光。
轟音。
衝撃。
剣が走る。
空気が裂ける。
歪体の外殻に、初めて。
亀裂が入った。
乾いた音。
蜘蛛の巣のように、
ひびが広がる。
歪体が吠えた。
初めて、苦痛の声を上げた。
ブリギットは止まらない。
二歩目。
踏み込み。
横薙ぎ。
閃光。
外殻が。
割れた。
黒い煙が噴き出した。
その形を見て。
怜の胸が、強く跳ねた。
――この消え方。
やはり。
どこかで。
見たことがある。
だが。
思い出せない。
最後の一撃。
縦。
一直線。
音が消えた。
次の瞬間。
歪体は。
崩れた。
煙になって。
消えた。
何も残さず。
ただ。
焦げた匂いだけが残った。
沈黙。
水音が戻る。
ぽたり。
ぽたり。
まるで。
何もなかったかのように。
ブリギットは剣を払った。
それだけ。
戦闘は終わっていた。
怜は動けなかった。
ただ。
消えた場所を見ていた。
胸の奥に。
小さな違和感が残っていた。
(あれは)
(本当に)
(初めて見たものなのか)
彼女はまだ知らない。
最初の戦闘で。
すでに。
同じ存在と戦っていたことを。




