第7話 境界の滲出
王都南区画の下水路は、古い都市の記憶そのものだった。
石を積み上げて作られた壁面は黒く湿り、長年の水と蒸気に晒された結果、ところどころが滑らかな光沢を帯びている。天井は低く、灯された魔導灯の光が水面に反射し、頼りない揺らぎを作っていた。
水の流れる音が絶えず続いている。
遠くで、ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。
その単調なリズムが、逆に神経を逆撫でした。
怜は無意識に肩をすくめ、周囲を見回した。
地下の空気は冷たく、わずかに鉄の匂いが混じっている。
――その匂いに。
怜は、ほんのわずかに眉をひそめた。
覚えがある。
だが、思い出せない。
それは、彼女がこれまで退治してきた「あやかし」と同じ匂いだった。
だが、決定的に違うものもある。
――重さ。
この場所には、見えない圧力のようなものが満ちていた。
「……ここが」
思わず呟く。
「現場、ですか」
前を歩いていたブリギットが振り返った。
金色の髪が、灯りを受けて静かに揺れる。
その横顔には、余計な感情が一切なかった。
「境界の滲出地点だ」
淡々とした声。
怜はその言葉を頭の中で反芻した。
境界。
滲出。
どちらも聞き慣れないが、意味は直感的に理解できた。
「別の世界との境目が、薄くなることがある」
今度はキアランが説明を引き継いだ。
彼は杖――レグルスを軽く地面につき、周囲を観察している。
「完全に開くわけではない。だが、わずかな歪みが生じる。その隙間から、向こう側の存在がこちらへ滲み出してくる」
「それが……敵?」
怜が訊く。
キアランは頷いた。
「我々はそれを」
一拍置く。
「ヴェイルと呼んでいる」
その単語は短かった。
だが、不思議な重みがあった。
「種類はいくつかあるが、今回確認されているのは最も単純な個体だ。知性はない。群れで動き、目に入ったものを襲う」
背後で、軽い声がした。
「要するに、数が多くて面倒なやつ」
マーラだった。
彼女は肩に小さな革袋を提げ、壁にもたれかかるように立っている。
まるで散歩に来たかのような気楽さだ。
「新人ちゃん、あんまり難しく考えなくていいよ」
彼女は笑った。
「噛まれないようにしてれば、そのうち終わる」
「縁起でもないことを言うな」
ドナルが低い声で言った。
マーラは両手を上げる。
「はいはい」
だが、その仕草のわりに、彼女の目は周囲を細かく観察していた。
水の流れ。
壁の亀裂。
灯りの届かない影。
怜は、その視線の鋭さに一瞬だけ違和感を覚えた。
だが、それはすぐに消えた。
そのときだった。
キアランの杖が、わずかに震えた。
「反応あり」
静かな声。
空気が変わる。
それまで雑談をしていたドナルが、自然に一歩前へ出る。
ブリギットは既に剣を抜いていた。
動作は無音。
無駄がない。
怜の喉が乾く。
水音とは別の音がした。
擦れるような音。
爪が石を引っ掻く音。
闇の奥が、動いた。
最初に現れたのは――
四足の影だった。
灰色の皮膚。
異様に細長い前脚。
裂けた口から覗く、針のような牙。
目は赤い。
一体。
次に。
二体。
三体。
そして。
さらに奥から、ぞろぞろと現れる。
「多いな」
ドナルが呟いた。
ブリギットは短く答えた。
「問題ない」
その声には、迷いがなかった。
次の瞬間。
ヴェイルの群れが、一斉に跳躍した。
速い。
怜が反応するより早く。
雷が走った。
轟音。
閃光。
衝撃。
空気が震えた。
一体のヴェイルが、空中で弾け飛んだ。
黒い煙が立ち上った。
その形を見て。
怜は、息を止めた。
――この消え方。
どこかで、見たことがある。
だが。
思い出せない。
ブリギットは剣を軽く振り払っただけだった。
それだけで、敵は消えた。
残りの個体が、わずかに後退する。
本能的に理解したのだ。
この相手は危険だと。
だが、すぐに別の個体が突進してくる。
今度はドナルが動いた。
踏み込み。
拳。
鈍い衝突音。
ヴェイルの体が壁に叩きつけられ、動かなくなる。
「次」
ドナルは短く言った。
キアランが杖を振る。
小さな光が弾け、敵の動きが鈍る。
派手ではない。
だが確実。
その間に、マーラがナイフを取り出した。
ひゅん。
一本目。
かすめた。
「ちょっとズレた」
二本目。
今度は命中。
ヴェイルの首元に刺さり、個体が崩れ落ちる。
「よし」
マーラは満足そうに頷いた。
その様子は、特別でも何でもない。
ただの、慣れた戦闘員。
怜は思った。
(この人たち)
(強い)
だが。
同時に。
(……何かがおかしい)
この配置。
この人数。
この戦力。
見学任務にしては。
あまりにも。
重い。
そのとき。
遠くの闇が、大きく揺れた。
低い唸り声。
これまでとは違う。
重い。
深い。
圧がある。
ブリギットの表情が、わずかに変わった。
「上位個体」
短い言葉。
全員の姿勢が変わる。
そして。
怜の背筋に、冷たいものが走った。
――これは。
ただの見学ではない。
彼女はまだ知らない。
この場に、これほどの戦力が集められた理由を。
王都は。
すでに。
彼女を守る準備を始めていた。
それは。
自分自身のためだった。




