第9話 崩れる均衡
雷光が地下の闇を切り裂いた。
耳を塞ぎたくなるほどの轟音が反響し、石壁が震える。
濁った水面に白い波紋が幾重にも広がり、焦げた匂いが鼻の奥に残った。
ブリギットの一撃は、確かに歪体を直撃していた。
だが。
倒れていない。
巨大な外殻に覆われたその存在は、黒く煤けた表面から煙を上げながら、ゆっくりと体を起こした。
青白い眼が、はっきりとこちらを見据えている。
生きている。
それどころか――
怒っている。
「……しぶといね」
マーラが息を吐いた。
軽装の肩口に、石の破片がかすかに触れている。
ほんのわずかな傷だが、血が滲んでいた。
それでも気にした様子はない。
「外殻が再生している」
キアランの声は落ち着いていた。
杖――レグルスの先端が青白く光り、敵の構造を読み取っている。
「内部に核がある。破壊しなければ、いずれ回復する」
一拍。
「歪体――上位個体だ」
ドナルが拳を鳴らした。
乾いた音が響く。
「だったら、壊すまでだ」
短い言葉。
単純で、力強い。
次の瞬間。
歪体が動いた。
床が砕ける。
突進。
巨体とは思えない速度だった。
水しぶきが左右に弾け、空気が圧し潰される。
「来る!」
キアランが叫ぶ。
ドナルが前に出た。
両腕を交差させ、正面から受け止める。
衝突。
爆発のような衝撃。
石片が跳ね上がり、濁水が噴き出した。
ドナルの体が数歩押し戻される。
靴底が石を削り、床に深い溝が刻まれた。
「……重いな」
低い声だった。
歪体の腕が再び振り上げられる。
狙いは、頭部。
明確な殺意。
そのとき。
炎が走った。
マーラの投げたナイフだった。
火花を散らしながら、歪体の関節部に突き刺さる。
動きが、わずかに止まる。
「ほら、こっち!」
マーラが声を上げた。
わざと大きく手を振る。
挑発。
歪体の視線が、彼女へ向いた。
(まずい)
怜の胸が強く鳴った。
だが。
もう遅い。
歪体が方向を変える。
巨体が跳躍する。
床が砕ける。
マーラの背後は壁だった。
逃げ場がない。
「ちょっと待って、それは聞いてないって……!」
軽口を言いながらも、声に余裕はなかった。
巨大な爪が振り下ろされる。
マーラは体をひねり、紙一重でかわした。
爪が壁に食い込み、石が粉々に砕ける。
破片が飛び散る。
一つが頬をかすめた。
「っ……!」
短い息。
だが。
歪体は止まらない。
二撃目。
速い。
避けきれない。
そう直感した。
その瞬間。
風が吹いた。
突風。
横から押し出すような力。
マーラの体が、ほんのわずかにずれる。
爪が空を切る。
「……今の」
マーラの目が細くなった。
怜だった。
無意識のまま、手が前に出ていた。
腰に下げた風神が、淡く震えている。
キアランの目が、わずかに見開かれた。
心臓が早い。
手のひらが汗で湿っていた。
(勝手に動いた……)
恐怖はある。
だが。
見ていられなかった。
そのとき。
歪体が咆哮した。
怒り。
標的が増えた。
青い眼が。
まっすぐ怜を捉える。
全身の血が、冷えた。
(危ない)
理解が遅れて押し寄せる。
自分は。
まだ。
守られる側だ。
その前に。
白と青の隊服が進み出た。
ブリギットだった。
この場の指揮官。
一歩。
それだけで。
戦場の中心が移った。
「下がれ」
短い命令。
反射的に、足が動いた。
怜は一歩、後ろへ下がる。
胸の鼓動が止まらない。
雷が集まっていく。
剣の周囲に青白い光が凝縮し、空気が震え始めた。
肌に細かな静電気がまとわりつく。
マーラが息を吐いた。
「……ほんと派手だね、あんた」
ため口だった。
だが。
その声には安堵が混じっていた。
絶対的な信頼。
ブリギットは答えない。
ただ。
剣を静かに構えた。
この戦いは。
ただの討伐ではなかった。
均衡が。
崩れ始めていた。
そして。
雷鳴が。
地下を満たした。




