第77話 誤解は、力になる
――ビリッ。
怜の背筋に、電流が走った。
「休んでたときの勉強って、どうするの?」
その一言が、頭の中で何度も反響する。
勉強。
テスト。
授業。
補習。
追試。
再試験。
留年。
「……」
怜は静かに、思考を巡らせた。
まず、英語。
問題ない。
むしろ得意だ。
異世界生活の副産物として、会話能力は完全に仕上がっている。
リスニングも。
スピーキングも。
発音も。
完璧。
ここまではいい。
だが。
数学。
物理。
化学。
「……」
頭の中に、数字が並ぶ。
数式が浮かぶ。
グラフが現れる。
次の瞬間。
――崩壊した。
「……」
怜は、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
考えるのをやめた。
翌日。
乾いた音が、庭に響いた。
カンッ。
木刀と木刀がぶつかり合う。
エドマンドと怜が向き合っていた。
互いに構え、間合いを測る。
静かな緊張。
次の瞬間。
踏み込み。
連撃。
受け流し。
返し。
間合いの詰め方。
呼吸。
すべてが、ぴたりと合っていた。
一久が腕を組み、低く唸る。
「……」
視線は鋭い。
真剣そのものだった。
「……とても息が合っている」
感嘆とも、警戒ともつかない声だった。
マーラがその隣で、のんびりと言う。
「まあね」
軽い口調だった。
「灰都イザリスでは、同衾した仲だから」
――。
空気が。
固まった。
風が止まった。
時間が止まった。
鳥のさえずりも止まった気がした。
怜の動きが止まる。
エドマンドの木刀が止まる。
一久の表情が止まる。
そして。
ゆっくりと。
一久が動いた。
ぎぎぎぎぎ。
首だけが、マーラの方を向く。
「……今」
低い声だった。
「なんと?」
マーラは、きょとんとした顔をする。
「え?」
何でもないことのように言う。
「同じ部屋で寝ていたんでしょ?」
悪びれない。
一久のこめかみが、ぴくりと動いた。
「……」
沈黙。
次の瞬間。
一久が地面を蹴った。
――ドンッ。
砂が跳ねる。
一直線。
狙いは。
エドマンド。
「勝負!」
叫びだった。
エドマンドは一瞬目を瞬かせたが、すぐに構え直す。
「……?」
状況が理解できていない。
だが。
剣士としての本能は働いていた。
木刀を上げる。
一久が迫る。
速い。
異様に速い。
筋肉が膨れ上がる。
霊力が噴き上がる。
空気が震える。
「強化!」
全力だった。
完全な全力強化。
その瞬間。
ドナルが小さく呟く。
「……やたら強いな」
本音だった。
マーラも目を細める。
「うん」
少し感心している。
「これは本気だ」
カンッ!
衝突。
重い。
速い。
鋭い。
エドマンドが一歩下がる。
さらにもう一歩。
一久の猛攻が止まらない。
連撃。
連撃。
連撃。
木刀が唸る。
空気が裂ける。
エドマンドの額に汗が浮かぶ。
「……理由は分からんが」
冷静に言う。
「怒っているな」
事実だった。
一久の目は、燃えていた。
真っ赤だった。
その背後に。
何かが見えた。
――血の涙。
幻覚だった。
だが。
確かに見えた気がした。
マーラが小さく呟く。
「怖いな」
半分面白がっている。
怜が慌てて声を上げる。
「誤解だから!」
叫びだった。
「本当に何もないから!」
必死だった。
だが。
一久は止まらない。
さらに踏み込む。
さらに振り下ろす。
さらに強化。
完全に暴走していた。
エドマンドが受けながら言う。
「落ち着け」
冷静だった。
「説明を聞こう」
だが。
聞いていない。
完全に聞いていない。
怜が額を押さえる。
そして。
ついに。
言った。
「このバカ!キライ!」
静まり返った。
一久の動きが。
ぴたりと止まった。
木刀が宙で止まる。
空気が止まる。
時間が止まる。
ゆっくりと。
一久が振り向く。
「……」
完全に固まっていた。
まるで。
石像だった。




