第75話 境界閉鎖
フィンタンの言葉は、静かだった。
「王都に戻ってこないか」
その提案は、決して軽いものではない。
むしろ、これから先のすべてを左右するような響きを持っていた。
怜はすぐには答えなかった。
代わりに、フィンタンが続ける。
「理由は二つある」
理路整然とした口調だった。
「ひとつは、研究のためだ」
一久が顔を上げる。
「研究……?」
フィンタンは頷いた。
「我々は現在、境界そのものを閉鎖する術式の研究を進めている」
その言葉に、空気がわずかに張り詰めた。
境界。
それはこの世界と向こう側――
ヴェイルの存在する領域を隔てている、見えない壁のことだ。
フィンタンは静かに続ける。
「これまで我々は、侵入してくる存在を迎撃し、封印を補強することで対応してきた。しかし、それでは根本的な解決にはならない」
誰も口を挟まない。
「だから我々は、境界そのものを閉じる」
短く、断言する。
その言葉の意味は重い。
エドマンドが低く言った。
「完全閉鎖か」
フィンタンは頷く。
「そうだ。理論上は可能だ」
未央が腕を組みながら口を開く。
「閉じてしまったら……どうなるん?」
率直な疑問だった。
フィンタンは少しだけ間を置いた。
そして、はっきりと答える。
「行き来ができなくなる」
沈黙。
風が、ゆっくりと吹き抜ける。
「こちらから向こうへも、向こうからこちらへも。すべて遮断される」
その言葉は、静かだった。
だが。
その意味は、誰よりも怜に突き刺さった。
――会えなくなる。
灰都イザリス。
王都。
そして、ここで出会った仲間たち。
すべてが、遠い場所になる。
フィンタンは続けた。
「それでも、やる価値はある」
冷静な口調だった。
「境界を閉鎖すれば、ヴェイルはこの世界へ侵入できなくなる。少なくとも、大規模な侵攻は不可能になる」
そこで、キアランが口を開く。
「もうひとつの理由だ」
短く言う。
全員の視線が集まる。
「怜が王都へ戻れば、ここが狙われる可能性は下がる」
怜は小さく息を呑む。
キアランは続ける。
「今回の襲撃を見れば明らかだ。連中の目的は、ほぼ間違いなく君だ」
否定できない事実だった。
「君がこの世界にいる限り、ヴェイルは現れる」
静かな断定だった。
「だが王都に戻れば、状況は変わる」
一久が口を開く。
「向こうは……防衛体制が整っているからですか」
キアランは頷く。
「そうだ。結界も、戦力も、こちらとは比較にならない」
未央が苦笑する。
「まあ、それは間違いないな」
そして、フィンタンが言葉を継ぐ。
「つまり、君が王都へ戻ることは、この世界を守ることにもつながる」
その一言で、意味は十分だった。
怜は黙り込む。
すぐには答えられない。
当然だった。
そこで。
フィンタンが、少しだけ口調を和らげた。
「もっとも」
小さく息を吐く。
「今すぐ決断する必要はない」
怜が顔を上げる。
フィンタンは続けた。
「次の転移には、魔力の蓄積が必要だ」
淡々とした説明だった。
「今回の戦闘で、君はかなり消耗している。現時点では、境界を切り開くことはできないだろう」
怜は何も言わず、ただ頷いた。
それは自分自身がよく分かっていることだった。
「無理に試みれば、術式が崩壊する可能性がある」
静かな警告だった。
「最悪の場合、座標を失う」
一久が小さく息を呑む。
フィンタンは続ける。
「だから我々は、ここに滞在する」
全員を見渡しながら言う。
「次の転移に必要な魔力が蓄積されるまで、だ」
未央が口を挟む。
「どれくらいかかるん?」
実務的な質問だった。
フィンタンは即答した。
「通常なら、二日から三日」
少し間を置く。
「どれだけ遅くとも、一週間以内には完了する」
はっきりとした見通しだった。
「それを待つ方が、確実だ」
誰も反論しない。
理にかなっているからだ。
ドナルが腕を組みながら言う。
「つまり、それまでは休養期間ということか」
フィンタンは頷いた。
「そういうことになる」
エドマンドが小さく笑う。
「久しぶりに、まともに眠れそうだ」
未央も肩の力を抜いた。
「ほんまにな」
場の空気が、わずかに緩む。
だが。
怜だけは、まだ黙っていた。
視線は遠くを見ている。
この世界。
ここで出会った人たち。
守りたいもの。
そして。
やがて訪れる、別れ。
境界が閉じれば。
もう――
二度と会えないかもしれない。
風が吹く。
静かな夜だった。
怜は、ゆっくりと息を吐いた。
答えは、まだ出ていない。




