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第72話 無事でよかった

「遅い!」

 マーラの怒鳴り声が夜気を震わせた。

 目の前に立った巨大な背中に向かって、容赦なく言葉を叩きつける。振り下ろされたヴェイルの腕を片手で受け止めたまま動じないその姿に、安心と苛立ちが同時に湧き上がっていた。

「何やってたの、筋肉。普通さ、久しぶりに会ったら『会いたかった』とか『無事でよかった』とか、『どうしてここに?』とか、もっと言うことあるでしょ。それなのに、いきなり『待たせたな』って、どこの英雄なの」

 横から迫ってきた個体を薙刀で薙ぎ払いながら、マーラはさらにまくしたてる。

「ドラマかよ?」

 ドナルはようやく小さく息を吐いたが、振り返ることはなかった。

「……すまん」

 その一言に、マーラの眉がぴくりと動く。

「すまんじゃない」

 怒鳴り返しながらも、視線はすでに次の敵の動きを追っている。二人のやり取りはまるで夫婦漫才のようだったが、足運びも呼吸も完全に戦闘のそれだった。

 やがてマーラは短く問う。

「いける?」

 その声音には、信頼が混じっていた。

 ドナルはゆっくりと腕を回し、腰に下げていた装具を取り上げる。重い金属音が鳴り、拳へと装着されたのは分厚い拳具――セスタスだった。

「誰に言っている」

 静かな返答だった。

 だが、その声には疑いの余地がない。

 ドナル・マッカラン。

 王国第3戦闘団 団長。

 彼は魔力測定ではCランクに過ぎないが、その肉体能力は評価規格を完全に逸脱しており、王都において最強と呼ばれるフィジカルを持つ男だった。

 最初の一体が踏み込んでくる。

 ドナルは半歩だけ前へ出ると、体重を乗せた拳を振り抜いた。空気が爆ぜるような衝撃とともに、ヴェイルの上半身が粉砕される。

 マーラは息を吐きながら呟いた。

「……相変わらず、雑」

 だが口元はわずかに緩んでいる。

 次の瞬間、二体目が横から迫った。マーラが滑り込むように間合いへ入り、刃で関節を断ち切る。体勢を崩したところへ、ドナルの拳が容赦なく叩き込まれた。

 粉砕。

 連携は自然に成立していた。

 言葉を交わす必要も、合図もない。長い実戦の中で積み重ねてきた動きが、そのまま形になっている。

 三体目が後退しようとした瞬間、マーラが足を払う。重心を失った体が沈んだところへ、ドナルの拳が振り下ろされる。

 衝撃。

 沈黙。

 五体いた敵は、短時間で完全に消え失せていた。

 静寂が戻る。

 マーラは肩で息をしながら薙刀を軽く地面に突き、血の付いた刃を払った。

「……助かった」

 小さな声だった。

 だがすぐに顔を上げ、いつもの調子で続ける。

「でも次は、もうちょっと早く来て」

 ドナルは真顔のまま答えた。

「努力する」



 同時刻。

 都内某所。

 倒れ込んだ未央の前に、影が差した。

 振り下ろされるはずだった刃が、硬質な音とともに止まる。金属同士がぶつかる鋭い衝突音が夜に響き、未央は薄く目を開けた。

 そこに立っていたのは、見覚えのある背中だった。

 細身の体格に長い外套をまとい、杖を手にした男が静かに前へ出る。落ち着いた所作で肩越しにため息をつくその姿には、どこか教師のような余裕があった。

「いやいや、淑女相手に寄って集って、これは少々みっともないね」

 穏やかな口調だったが、言葉の奥には冷たい評価が滲んでいる。

 三体のヴェイルがわずかに間合いを取り直す。

 男はワンドを軽く掲げ、静かに告げた。

「では、少し教育しようか」

 次の瞬間、空間が震えた。

 精密に組み上げられた術式が展開され、光が幾何学的な軌跡を描く。

 フィンタン。

 王都のプロフェッサー。

 そのレガリアが、静かに発動した。



 同時刻。

 屋敷の中庭では、一久が結界の維持に全神経を集中させていた。

 防御は成立している。

 だが余裕はない。

 攻勢に出るだけの余力が残っていないことを、自分自身が最もよく理解していた。

 そのとき、背後から軽い声が届く。

「大した粘りだな」

 一久は反射的に振り返った。

 そこに立っていたのは見慣れない男だったが、その佇まいには確かな自信が感じられる。手にしているのは杖のように見える武器――だが、ただの杖ではない。

 一久は短く問う。

「……味方だと思っていいのか」

 男は答えず、前方へ視線を向けたまま静かに言った。

「そこで見ているといい」

 一歩踏み出す。

 杖の先端が伸び、内部から刃が現れる。

 それは槍だった。

 レガリア。

 レグルス。

 次の瞬間、男の姿が視界から消える。

 完全に。

 そして一閃。

 音が遅れて届いた。

 ヴェイルの体が縦に裂け、何事もなかったかのように崩れ落ちる。

 あまりにもあっけない結末に、一久は思わず言葉を失った。



 同時刻。

 怜の前では、振り下ろされた刃が目前まで迫っていた。

 回避は間に合わない。

 そう判断した瞬間、冷たい風が吹き抜ける。

 空気が凍りつく。

 甲高い衝突音。

 敵の刃が、寸前で止まっていた。

 別の剣によって。

 氷のように澄んだ細身の刃が、正確な角度で攻撃を受け止めている。

 その持ち主はゆっくりと前へ出た。

 広い肩。

 落ち着いた背中。

 見覚えのある姿だった。

 怜は息を呑む。

「……エドマンド」

 男はわずかに口元を歪めた。

「久しぶりだな」

 短く言ってから、横目で怜を見る。

「少し弱くなったんじゃないか」

 皮肉だった。

 だが声音には懐かしさが混じっていた。

 怜は思わず苦笑しながら答える。

「言いますね」

 エドマンドは剣を構え直す。

 氷のレガリア。

 刺突直剣。

 フラガラック。

 冷気が静かに広がる。

「続きだ」

 短い合図だった。

 怜は頷き、呼吸を整える。

 視線を前へ向ける。

 二人。

 二体。

 条件は同じになった。

 次の瞬間、二人は同時に踏み込んだ。

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