第71話 待たせたな
結界が、内側から裂けた。
鋭い衝撃とともに空間が歪み、黒い影が割り込むように滑り込んでくる。その一瞬で怜と一久の間に距離が生まれ、視界を遮る壁のようにヴェイルが立ちはだかった。
「――父さん!」
怜が叫ぶ。
だが返事はない。
代わりに左右から重い気配が迫り、二体のヴェイルが同時に間合いへ踏み込んできた。
分断された。
理解した瞬間には、もう退路は残っていない。
怜は歯を食いしばり、札を構えながら前へ出た。父の方角が気にならないわけではなかったが、ここで守勢に回れば押し潰されるだけだと本能的に悟っていた。
短期決戦。
それしかない。
一体へ向かって踏み込み、札を叩きつける。
霊力が炸裂し、爆ぜるような光が走った。
手応えはあった。
だが。
倒れない。
体が揺らいだだけで、崩れない。
前回とは明らかに違う。霊力の量でも術式の精度でも劣っているとは思えないのに、相手の存在そのものが重く、押し切ることができない。
それでも怜は攻撃を続けた。
踏み込み、押し込み、力で押し切ろうとする。
膂力では勝っている。
一歩。
さらに一歩。
確実に押しているはずなのに、決定的な崩れが生まれない。
敵は耐える。
粘る。
倒れない。
焦りが胸の奥で膨らみ始めたとき、背後の気配がわずかに動いた。
ほんのわずかな逡巡が生まれた。
父は――。
その思考が頭をかすめた瞬間、判断が遅れた。
もう一体。
刃が静かに振り上げられている。
見えている。
分かっている。
だが、今この瞬間に攻撃の手を止めれば、目の前の個体に押し返される。
刃が振り下ろされる。
一方で、一久もまた限界に近づいていた。
呼吸は乱れていない。
姿勢も崩れていない。
それでも体の奥に溜まった疲労は、確実に動きを鈍らせていた。
目の前には一体のヴェイル。
数は一体だけだが、放つ圧力はこれまでの個体とは比較にならないほど重く、真正面から受け止めるたびに術式の基盤が軋んだ。
結界を展開する。
破られる。
張り直す。
また破られる。
それを何度も繰り返していた。
霊力が尽きたわけではない。
だが連続した再構築によって術式の回転が鈍り、本来なら即座に展開できるはずの防御が、わずかに遅れるようになっている。
その遅れが、命取りになる。
次に破られたら、防ぎきれない。
一久は静かに息を吐き、わずかに肩を落とした。
(これは……まずいな)
経験豊富な術者ほど、自分の限界を正確に理解している。
だからこそ、その結論は重かった。
同時刻。
都内某所。
高層ビルの屋上で、天王寺未央は荒い呼吸を抑えながら三体のヴェイルを見据えていた。
逃げ場はない。
前回は一体だった。
それでも勝てた。
だが今回は三体で、しかもどれもが明確に格上だと直感が告げている。
胸の奥に、冷たい感情が浮かび上がる。
絶望。
その言葉が、はっきりと形を持った。
未央はそれを振り払うように小さく笑い、わざとらしく肩をすくめた。
「ほんま、今日は厄日やなあ。三体まとめてとか、割引どころか抱き合わせ販売やん」
軽口だった。
誰に向けたわけでもない。
ただ、自分の足を止めないための言葉だった。
怖い。
それでも戦うしかない。
未央は札を握り直し、全身の霊力を一点へ集める。出し惜しみをする余裕はなく、最初から最後まで全力でぶつけるしか勝ち目はないと理解していた。
雷光が走る。
空気が裂け、轟音が夜を震わせる。
連続した術式が放たれ、屋上の空間が白く染まる。
だが押し切れない。
三方向から同時に圧力が迫り、結界が次々と砕けていく。
一枚。
防御が割れる。
二枚。
術式が弾かれる。
三枚。
体勢が崩れる。
足がもつれ、膝が石床に触れた。
その瞬間、一体がゆっくりと前に出る。
刃が持ち上がる。
ためらいはない。
終わりだった。
同時刻。
屋敷前では、マーラが荒い息を押し殺しながら最後の一体と向き合っていた。
体にはいくつもの傷が刻まれている。
深くはないが、数が多い。
血が滲み、服が重くなっている。
それでも構えは崩れていない。
視線もぶれない。
「……面倒くさい」
小さく呟き、薙刀を握り直す。
敵が踏み込んできた。
マーラは半歩だけ体をずらし、刃を滑らせるように受け流すと、そのまま最短距離で突きを繰り出した。
力ではなく、技で崩す。
重心をずらし、体勢を崩し、急所を正確に突く。
刃が胸部を貫いた。
黒い粒子が弾け、最後の一体が崩れ落ちる。
終わった。
そう思った次の瞬間、背後の空間が不自然に歪んだ。
新たな気配が、次々と現れる。
一体。
二体。
三体。
四体。
五体。
マーラは思わず顔をしかめた。
「……おかわりは聞いてないんだけど」
疲労の色が隠せない声だった。
だが休む暇はない。
五体が同時に動く。
一斉攻撃。
拳と刃と影が、四方から押し寄せる。
マーラは即座に反応し、薙刀を回転させながらすべてを弾いた。連続する衝撃が腕に重くのしかかり、筋肉が軋む。
それでも防ぎきる。
だが次の瞬間、背後から小さな悲鳴が聞こえた。
男たち。
攻撃の余波が直撃しようとしている。
マーラは反射的に体をひねり、二人の前へ飛び込んだ。
庇う。
無理な姿勢になる。
重心が崩れる。
分かっていた。
次は防げない。
それでも守るしかなかった。
刃が迫る。
視界が狭まる。
その瞬間、空気が爆ぜた。
凄まじい衝撃とともに、巨大な影が割り込むように現れる。
筋肉の塊のような大男だった。
背中が壁のように立ちはだかり、振り下ろされた刃を片手で受け止めている。
鈍い音とともに、ヴェイルの腕が逆に砕けた。
男はゆっくりと振り返り、低く落ち着いた声で言った。
「――待たせたな」




