第70話 三方面戦
「――どけ」
低い声だった。
抑えてはいるが、明確に怒っていた。
マーラの前に立ちはだかる二人の男は、その一言だけで体を強張らせたものの、それでも足を引こうとはしなかった。
逃げない。
それが分かるからこそ、余計に腹立たしかった。
「どけって言ってる」
今度ははっきりと怒気が乗る。
薙刀の切っ先がわずかに持ち上がり、夜気を裂いた。
「ここは遊びじゃない。命がかかってる。分かってるなら――」
言いかけた瞬間、背後から鋭い気配が迫った。
マーラは反射的に体をひねり、薙刀を横に払う。
刃が肉を断つ感触とともに、迫っていたヴェイルの腕が弾け、黒い粒子が散った。
しかし間髪入れず、別の個体が男の一人へと向かって突進してくる。
速度は十分に速く、素人では避けきれない距離だった。
舌打ちが漏れる。
考える余地はない。
マーラは踏み込み、体をねじりながら柄を振り抜いた。
鈍い衝撃とともに、ヴェイルの体が横へ弾き飛ばされ、アスファルトを滑る。
間に合った。
だが、その一撃で位置取りが崩れた。
左右から気配が迫り、包囲が成立しかける。
マーラは息を吐き、眉間に皺を刻んだ。
「……最悪」
小さく呟く。
自分一人なら、前へ出て切り込める。
だが背後に守る対象がいるだけで、選択肢は一気に減る。
動きの自由も、攻撃の角度も、判断の速さも、すべて制限される。
守る戦いは、単純に面倒だった。
それでもやるしかない。
マーラは一歩前へ出て、二人の前に完全に立った。
薙刀を横に構え、静かに呼吸を整える。
視界が狭まり、余計な情報が消えていく。
「いい?」
振り返らずに言う。
声にはまだ怒りが残っていた。
「次に前に出たら、本気で叩き倒すから」
短く間を置く。
そして、低く言い切った。
「だから、そこでしゃがんでろ」
返事を待つ余裕はない。
新たな気配が、再び前方から迫っていた。
マーラは足を踏み出し、迎え撃つように薙刀を振る。
刃が夜気を裂き、黒い粒子が弾ける。
その動きは正確で無駄がなく、明らかに余裕があった。
だが敵の数は減らない。
むしろ、じわじわと増えている。
遠くの闇の中から、新たな個体が姿を現す。
マーラは視線をわずかに屋敷の方角へ向けた。
(あとで絶対、文句言うからね)
内心で吐き捨てる。
どう考えてもおかしい。
結界が展開されている状況で、素人同然の人間が外へ出てこられるはずがない。
術式の隙か、運用の問題か、あるいは単純な見落としか。
理由は分からないが、責任者には説明してもらう必要がある。
もっとも、それはこの戦闘が終わってからの話だった。
今はただ、守る。
それだけだ。
マーラは足を踏み込み、再び刃を振るった。
同時刻。
屋敷の中庭では、一久と怜が背中合わせに立っていた。
周囲を取り囲むのは三体のヴェイル。
いずれも人型だが、先日の個体とは明らかに気配が違っていた。
重い。
密度が高い。
存在そのものが圧力となって押し寄せてくる。
怜は呼吸を整えながら、小さく言った。
「……前回より、強いです」
一久は視線を外さないまま答える。
「ああ。格上だ」
簡潔な断定だった。
次の瞬間、一体が踏み込んできた。
速い。
怜は即座に札を放つ。
空中で符が光り、防壁が展開される。
直後、激しい衝撃が走った。
結界が軋み、表面にひびが走る。
一撃で。
怜の目が見開かれる。
「そんな……」
一久がすぐに印を結び、結界を重ねた。
空間が歪み、二重、三重と防壁が形成されていく。
だが押し返せない。
一体が前へ出て、残り二体が左右へ回り込む。
動きに迷いがない。
明確な意図を持った配置だった。
怜の背筋に冷たい汗が流れる。
「囲まれます」
一久は短く答える。
「分かっている」
声は落ち着いていたが、余裕はない。
一歩、また一歩と後退する。
距離が詰まり、圧力が増し、逃げ場が狭まっていく。
確実に。
追い込まれていた。
同時刻。
都内某所。
高層ビルの屋上では、天王寺未央が夜景を背に立っていた。
風が強く、髪が大きく揺れている。
その前方には、三体のヴェイルが静かに並んでいた。
動かない。
ただ、こちらを見ている。
そのうちの一体が、ゆっくりと口を開いた。
「女性を甚振る趣味はないのだが」
低く、妙に丁寧な声だった。
「任務なのでな。恨まないでほしい」
言葉とは裏腹に、気配が膨れ上がる。
殺意が、空気を押し潰すように広がった。
未央の表情が引き締まる。
判断は一瞬だった。
右手が動き、札を抜き取る。
指先で弾かれた符が空中で回転し、淡い光を放つ。
霊力が集束する。
空気が震える。
「――雷鳥」
短い詠唱とともに、雷光が走った。
夜空が白く瞬き、轟音が遅れて響く。
戦闘が始まった。
同時刻。
都内三カ所。
刃が空気を裂き、結界が軋み、雷光が夜を照らす。
それぞれの戦場で、激戦が始まっていた。




