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第69話 境界のほころび

 夕刻。

 高円家の屋敷は、いつもよりわずかに張り詰めた空気に包まれていた。

 応接間には、一久と怜、そしてマーラと未央が向かい合って座っている。

 茶は用意されていたが、誰も手を伸ばしていなかった。

 最初に口を開いたのは、一久だった。

「――怜」

 落ち着いた声だった。

「お前が狙われている可能性がある」

 室内の空気が、静かに変わる。

 怜はすぐには答えず、一度息を整えてから口を開いた。

「理由は、分かっていますか」

 一久は小さく首を振る。

「断定はできない。ただ、先日の個体が口にした言葉を考えれば、偶然とは思えない」

 未央が思い出したように言った。

「あの……名前を呼んでたやつ、ですよね」

 一久は頷く。

「怜という術者がいなければ用はない、と明言していた。あれは威嚇ではなく、目的の提示だ」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて一久は、ゆっくりとマーラへ視線を向けた。

「一つ、聞きたい」

 静かな口調だった。

「ヴェイルは、なぜ一気に攻めてこない。これだけの数を動かせるなら、総力で押し寄せてもおかしくないはずだ」

 問いは率直だった。

 マーラは腕を組み、少しだけ考えるように視線を落とす。

 そして小さく息を吐いた。

「……封印の影響だと思う」

 部屋の空気が静まる。

 未央が首を傾げた。

「封印?」

 マーラは頷く。

「昔、大きな戦争があった。人間とヴェイルのね。そのとき、この世界と向こう側の境界に封印が施された。高位のヴェイルほど、通過できないようにするためのもの」

 説明は簡潔だった。

 だが内容は重い。

 怜が静かに問い返す。

「それは……こちらの世界に対しても有効なんですか」

 マーラは迷いなく答えた。

「有効なはず」

 はっきりとした声だった。

「個体じゃなくて、境界そのものに作用する術だから。世界が違っても、原理は変わらない」

 一久は頷いた。

 その言葉に、怜の表情がわずかに曇る。

 しばらく考え込んでいたが、やがて低い声で言った。

「……でも、最近は人型が増えています」

 顔色が、わずかに青い。

「以前は、ここまで頻繁ではなかった」

 一拍置く。

 そして、ためらいながら続けた。

「境界を……切ったりしているのが、影響している可能性はありませんか」

 その問いに、マーラはすぐに首を振った。

「違う」

 短く、しかし断定的だった。

「それ以前から、ヴェイルは出現し始めていた。だから、原因は別のところにある」

 責める調子はない。

 ただ事実を否定しただけだった。


 そのとき。

 ――空気が、わずかに歪んだ。

 次の瞬間。

 屋敷の外から、鈍い衝撃音が響いた。

 地面が震える。

 結界が、軋む。

 一久が立ち上がった。

 表情はすでに戦闘時のものに変わっている。

「来たな」

 低く言い、右手を静かに掲げる。

 空間が揺らぎ、透明な層が幾重にも重なっていく。

 結界が展開されていく。

 屋敷全体を包み込むように。

 未央が窓の外を見て、息を呑んだ。

「……数が多い」

 その声には、明確な緊張が混じっていた。

 門の外。

 塀の上。

 庭の向こう。

 人型のヴェイルが、次々と姿を現していた。

 五体。

 六体。

 さらに増えていく。

 これまでとは明らかに違う規模だった。

 マーラがゆっくりと立ち上がる。

 口元に、わずかな笑みが浮かんでいた。

「今回は、ちょっと頑張らないとね」

 軽く肩を回す。

 体はすでに戦う準備が整っていた。

 一久が視線を向ける。

「武器はあるか」

 マーラは頷く。

「借りてる」

 そう言って手を伸ばし、傍らに置いてあった薙刀を握った。

 高円家の蔵から貸し出されたものだった。

 刃が静かに光る。

 手にした瞬間、重さが自然に馴染む。

 マーラは薙刀を握り直し、軽く刃を振って感触を確かめた。

 重さも重心も素直で、扱いにくさはない。高円家が保管していた武器だけあって、手入れも行き届いていた。

「三体は引き受ける」

 迷いのない声だった。

 一久は短く頷く。

「頼む」

 それだけで十分だった。

 マーラは庭へ踏み出した。

 同時に、最初の一体が塀を越えて降り立つ。

 着地の衝撃で砂利が跳ねた。

 間合いを測る暇はなかった。

 マーラは一歩踏み込み、薙刀を横薙ぎに振る。

 鋭い風切り音。

 刃が胸部を断ち切り、黒い粒子が夜気に散った。

 一体目は、そのまま崩れ落ちる。

 だが次の瞬間、左右から同時に気配が迫った。

 二体目。

 三体目。

 動きは速い。

 単純な突進ではない。

 連携こそないが、躊躇もない。

 マーラは後退せず、むしろ一歩踏み込んだ。

 刃を引き戻し、そのまま突きに変える。

 喉元を貫く。

 二体目が硬直する。

 その体を踏み台にするようにして跳躍し、上段から振り下ろす。

 骨を断つような手応えとともに、三体目の肩口が裂けた。

 着地。

 呼吸は乱れていない。

 余裕はあった。

 だが――

 視界の端で、さらに二体が動いた。

「ほんとに多いね」

 小さく呟く。

 軽い調子だったが、判断は冷静だった。

 このまま庭で戦えば、建物への被害が出る。

 数が増えれば、囲まれる可能性もある。

 マーラはわずかに後退し、門の方向へ誘導するように動いた。

 ヴェイルたちは迷わず追ってくる。

 単純だが、だからこそ扱いやすい。

 門前に出た瞬間、マーラは足を止めた。

 石畳の広い空間。

 周囲に遮蔽物は少ない。

 戦いやすい場所だった。

 一体が飛び込んでくる。

 マーラは半歩だけ体をずらし、すれ違いざまに薙刀を振り上げた。

 下から上へ。

 刃が腹部を裂き、体が宙に浮く。

 そのまま回転し、横薙ぎ。

 二体目の首が弾ける。

 連続した動きだった。

 息は上がらない。

 視線もぶれない。

 だが、終わらない。

 新たな気配が、背後から迫る。

 マーラは振り向かず、柄尻を突き出した。

 鈍い衝撃。

 背後の個体が吹き飛ぶ。

 その反動を利用して距離を取り、再び構え直す。

 静かな呼吸。

 汗はかいていない。

 しかし――

 数が減らない。

 遠くの闇の中で、また一体が動く。

 さらにもう一体。

「……今回は、本気で来てるね」

 さすがに、少しだけ苦笑した。

 戦えないわけではない。

 むしろ余裕はある。

 だが、この数を一人で処理し続けるのは、単純に時間がかかる。

 そのときだった。

 遠くから、誰かが走ってくる音が聞こえた。

 荒い足音。

 石畳を蹴る音。

 そして――

「姐さん!」

 声が響いた。

 マーラが一瞬だけ視線を向ける。

 見覚えのある顔だった。

 以前、弟子入りを志願してきた若い男たち。

 あの二人組だ。

 息を切らし、顔を真っ青にしながら、それでも必死に駆けてきている。

 状況は理解しているはずだ。

 恐怖も、分かっているはずだ。

 それでも、止まらない。

 二人はマーラの前へ飛び出し、盾になるように立った。

 片方が叫ぶ。

「姐さん!」

 声は震えていた。

 だが足は逃げていない。

 もう一人が歯を食いしばりながら続ける。

「ここは俺たちが時間を稼ぎます」

 恐怖は隠せていない。

 呼吸も乱れている。

 それでも、前に出る。

 そして必死に言った。

「だから……姐さんは、下がってください」

 その言葉に。

 マーラの表情が、わずかに変わった。

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