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第66話 現地調達、詰めが辛い

 ヴェイル戦の翌々日。


 朝の光が差し込む居間で、マーラは満面の笑みを浮かべていた。

 机の上には、小さな紙袋が置かれている。

 香ばしい匂いがふわりと漂い、部屋の空気をやさしく満たしていた。

「戦闘報酬でさ、この前見つけたおいしそうなスコーンを買ってみたんだ」

 得意げな声だった。

 マーラは袋から包みを取り出し、慎重に皿の上へ並べる。

 こんがりと焼き色のついた丸い菓子が、きれいに整列した。

「一緒に食べよう」

 その言葉を聞いた瞬間、怜の表情がわずかに緩む。

 甘いもの。

 それだけで気分が上向く。

「いいんですか」

 思わず素直な声が出た。

「もちろん。こういうのは一人で食べるより、みんなで食べたほうがおいしいからね」

 ちょうどそのとき、玄関の扉が軽く叩かれた。

「おるかー?」

 聞き慣れた声だった。

 未央である。

 怜が立ち上がって扉を開けると、未央はいつもの調子で手を振った。

「ちょっと顔出しに来ただけやけど……」

 言いかけたところで、ふわりと漂ってきた甘い香りに気づく。

 視線が自然と机の上へ吸い寄せられた。

 スコーン。

 焼きたての香り。

 未央の目が、わずかに輝く。

「……ええ匂いやな」

「ちょうどいいところに来たね」

 マーラが笑う。

「一緒に食べよう」

 その一言で、流れは決まった。

 未央は遠慮する素振りを見せつつも、すでに席へ腰を下ろしている。

 なんやかんやで、ごちそうになることにしたのだった。

 三人は机を囲み、それぞれの前に皿が置かれる。

 焼き色のついたスコーンは、見た目からして美味しそうだった。

 表面はさくりと固く、中はしっとりしていそうで、ほんのり甘い香りが食欲を刺激する。

 マーラは一つ手に取り、じっと見つめる。

 そして、かじった。

 次の瞬間。

 表情が、崩れた。

 目が細まり、口元がゆるむ。

 まるで幼い子供のように、素直な幸福が顔に浮かんでいた。

「……うん」

 満足そうに頷く。

「これは当たりだ」

 その様子を見て、怜と未央も自然と手を伸ばした。

 だが――

「待った」

 マーラの声が、ぴたりと二人の動きを止めた。

 手が宙で止まる。

「最大限味わうには、もっとおいしくする方法がある」

 静かな宣言だった。

 その瞬間、怜の背筋に嫌な感覚が走る。

 電流が走ったような、ぞわりとした直感。

(……嫌な予感がする)

 先日の出来事が、頭をよぎった。

 マーラはにこにこと笑いながら、どこか誇らしげに言葉を続ける。

「これ、探すのに苦労したんだよね」

 机の下から、小さな瓶を取り出した。

「似たような物がこっちでもあるはずだと思ってさ」

 差し出されたそれを見て、怜は無言になった。

 黒い瓶。

 重たい蓋。

 独特の存在感。

 そこに書かれていた名前は――

 マーマイト。

 数々の留学生を苦しめてきた、イギリスの発酵食品である。

 未央が瓶を覗き込み、眉をひそめる。

「……なんやこれ」

「店員に聞いたら、これで間違いないって」

 マーラは自信満々だった。

「これを塗って食べるのが、王都の流儀さ」

 さらりと言い切る。

 未央は、ただならぬ空気を感じ取っていた。

 だが怜は、何も言わない。

 言えなかった。

 ゆっくりと瓶の蓋が開けられる。

 濃厚な香りが、静かに広がる。

 発酵。

 塩気。

 そして、言葉にしがたい何か。

 マーラは満足そうに頷き、ナイフを使って黒いペーストをすくい上げる。

 それをためらいなくスコーンへ塗り広げた。

 たっぷりと。

 容赦なく。

 そして、その皿を怜の前へ置く。

「さあ」

 にこやかな笑顔だった。

 逃げ場はない。

 怜は無表情のままスコーンを手に取り、ゆっくりとかじった。

 次の瞬間。

 鼻に抜ける、強烈な発酵食品の香り。

 舌を直撃する、激しい塩味。

 甘さと塩気が衝突し、味覚が一瞬で混乱する。

 魂が、刈り取られた。

 だが怜は、表情を変えない。

 静かに咀嚼し、飲み込む。

 その姿は、まるで修行僧のようだった。

 沈黙が落ちる。

 その空気を破ったのは、未央だった。

 一口かじり、少し考え――

「……美味いやん」

 あっさりと言ってのけた。

 怜が、わずかに目を見開く。

 マーラは満足そうに頷いた。



 場面は変わる。

 執務室。


 重厚な机の向こう側で、怜の父が書類を閉じた。

 その表情はいつもよりわずかに引き締まっている。

「ヴェイルの件だが」

 静かな声だった。

「今後は各地の陰陽師と協力体制を敷くことになった」

 部屋の空気が、少しだけ重くなる。

 怜は背筋を伸ばし、神妙な面持ちで言葉を受け止めた。

 陰陽師。

 それは、これからの戦いがより大きなものになることを意味している。

 しばしの沈黙。

 そして、ふと。

 怜は気になっていたことを思い出した。

 少しだけ首を傾げ、率直に尋ねる。

「ところで」

 間を置く。

「報酬って、いくらふっかけられたんです?」

 その瞬間。

 父の表情が、ぴたりと固まった。

 空気が止まる。

 ほんのわずかに、こわばる顔。

 横で聞いていたマーラが、ゆっくりと口元を吊り上げた。

 にやり、と。


 不穏な笑みだった。

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