第61話 現地調達のあとに、ひと仕事。
「早く行きな」
低く、しかし穏やかな声だった。
突然割って入ってきた女に、怯えていた少女は一瞬きょとんとしたが、その言葉の意味を理解すると、何度も頭を下げてから駆け出した。
足音が遠ざかる。
路地裏に残ったのは、男二人と――マーラだけだった。
数秒の沈黙。
やがて、男の一人が舌打ちする。
「……おい。勝手なことしてんじゃねえぞ」
低く、苛立った声だった。
もう一人の男も前に出る。
「邪魔するなら、てめえも――」
言い終わる前だった。
空気が、わずかに動いた。
次の瞬間。
一人目の男の体が、ふわりと宙に浮いた。
本当に、ふわりと。
まるで風に吹かれた――
空のビニール袋のように。
そして。
ドンッ。
数メートル先の地面に叩きつけられ、男はそのまま動かなくなった。
何が起きたのか。
誰にも分からなかった。
殴られたのか。
蹴られたのか。
触れられたのか。
それすら分からない。
ただ、結果だけがそこにあった。
残されたもう一人の男は、口を開けたまま固まっている。
理解が追いついていなかった。
マーラは、いつもと同じ笑顔のままだった。
柔らかく。
親しみやすく。
だが――
目は、まったく笑っていない。
ゆっくりと一歩、近づく。
靴音が、やけに大きく響いた。
「弱いものを狙うっていうのはさ」
穏やかな声だった。
だが、逃げ場はない。
「こういうことを言うんだよね」
男の背中に、冷たい汗が流れる。
本能が理解していた。
これは――
ヤバいものだと。
だが、体が動かない。
逃げたいのに、足が言うことを聞かない。
その瞬間。
マーラの体が、わずかに沈んだ。
次の瞬間。
ゴッ。
鈍い音が、路地裏に響いた。
男の体がくの字に折れ、そのまま静かに崩れ落ちる。
声すら出なかった。
完全な、沈黙。
少し離れた場所で見ていた怜は、思わず顔をしかめた。
「……それは、ちょっと下品なのでは」
小さな声だった。
マーラは振り向き、あっけらかんと肩をすくめる。
「一番効くんだよ。あれが」
まったく悪びれる様子はなかった。
数分後。
気絶していたはずの男たちは、いつの間にか起き上がり、二人そろって地面に額をこすりつけていた。
完全な――土下座だった。
「す、すみませんでした!」
「お願いします! 弟子にしてください!」
声は震え、涙声だった。
マーラは少し驚いたように目を丸くする。
「……意外と頑丈なんだね」
感心したような口調だった。
そして、二人の姿勢を見下ろす。
「それで、その姿勢は何?」
素朴な疑問だった。
怜が横から小さく説明する。
「謝罪と、お願いを同時にするときの姿勢です」
「なるほどね」
マーラは腕を組み、しばらく考える。
男たちは顔を上げることもできず、震えながら待っている。
数秒。
そして。
マーラは軽く笑った。
「悪いけどさ」
あっさりと言う。
「弟子は間に合ってるかな」
静かな宣告だった。
男たちはその場で固まった。
男たちが肩を落として去っていくのを見送りながら、怜はふと気になっていたことを口にした。
「そういえば……」
マーラが振り向く。
「言葉、通じてましたよね」
素朴な疑問だった。
この世界の言語は、向こうとは違う。
本来なら、いきなり会話が成立するはずがない。
マーラは「ああ」と軽くうなずいた。
「前に触ったときにさ」
何でもないことのように言う。
「風神から言語情報を抜いておいたんだよね」
さらりと、とんでもないことを口にした。
怜は一瞬、言葉を失う。
「……だから、ある程度は分かるよ」
マーラは肩をすくめ、いつもの調子で続けた。
「完璧じゃないけどね。細かい言い回しとかは、まだちょっと怪しいかな」
怜はゆっくりとうなずいた。
「そうなんですね……」
納得はした。
だが。
別の疑問が、胸に浮かび上がる。
怜はじっとマーラを見る。
「ということは――」
少しだけ声を落とす。
「私が異世界人だって分かっていたということですか?」
静かな問いだった。
マーラは一瞬だけ目を細める。
そして。
すぐに、いつもの笑顔に戻った。
「……なんのことかな?」
軽い口調だった。
だが。
その目は――
ほんの少しだけ、楽しそうに笑っていた。
その夜。
日本列島の上空。
雲を裂くように、五つの影が現れた。
人の形をしている。
だが。
人ではない。
音もなく、大地へ降り立つ。
黒い影が、ゆっくりと周囲を見渡した。
その目が、わずかに細まる。
「……強い奴の気配がする」
低く、乾いた声だった。
夜の空気が、静かに震えた。




