第60話 現地調達、反撃の狼煙
朝食の騒動が落ち着いたあと、居間で一息ついていたときだった。
マーラがふと思い出したように顔を上げる。
「そういえばさ。マフィンとかスコーンって、この辺で手に入る?」
唐突な質問だった。
怜は少し考えてから答える。
「普通の食品スーパーにあるかは分かりませんけど、扱っている店はたくさんありますよ。パン屋とか、洋菓子店とか」
「なるほどね」
マーラはうなずきながら、どこか楽しそうに口元を緩めた。
「弟子からあんな仕打ちを受けるなんてね」
軽い調子の言葉だった。
だが。
目は、まったく笑っていなかった。
怜はその違和感に気づかない。
むしろ、少しだけ気まずそうに目をそらす。
自分が梅干しや納豆で仕返ししたつもりになっていたことが、どこか後ろめたかったのだ。
だが――
怜はまだ知らなかった。
歴戦の傭兵が、
ただ負けて終わるはずがないということを。
昼前。
二人は外へ出ていた。
夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、アスファルトから熱気が立ち上っている。
蝉の声が、これでもかというほど響いていた。
マーラは白いシャツ一枚に軽装のまま、日陰に立って空を見上げている。
汗をぬぐう様子もなく、どこか気だるそうだった。
完全に、無防備に見えた。
「……そんな格好で大丈夫なんですか?」
怜が思わず尋ねる。
「暑さに負けてるようにしか見えませんけど」
マーラは肩をすくめ、あっさりと答える。
「必要なものは現地調達だよ」
当然のような口調だった。
武器も、防具も、荷物もない。
だが、その姿には妙な余裕があった。
まるで――
何もなくても困らないと分かっている者の余裕だった。
しばらく歩きながら、マーラは周囲の様子を観察するように視線を巡らせていた。
人通り。
建物の配置。
逃げ道。
死角。
一見すると、ただ街を眺めているだけに見える。
だが、目は鋭かった。
「それにしてもさ」
不意に口を開く。
「魔物に対する危機感とか、犯罪に対する警戒っていうのは……ずいぶん薄そうだね」
率直な感想だった。
怜は少し考え、首を横に振る。
「薄いというより――皆無に近いかもしれません」
静かな答えだった。
マーラの眉がわずかに動く。
「そうなの?」
「犯罪に対する危機感は、この国特有のものかもしれません。比較的治安がいいので」
怜は続ける。
「それに――魔物、こちらでは妖と呼びますが――その存在は、一般の人にはできるだけ知られないようにしているんです」
「隠してるってことか」
「はい。混乱を避けるためです」
マーラは小さく息を吐いた。
「なるほどね。平和を守るために、知らないままでいさせる……か」
納得したようでもあり、少しだけ考え込んでいるようでもあった。
そのときだった。
路地の奥から、低い声が聞こえた。
「……だから、財布だけ置いていけって言ってるだろ」
男の声だった。
威圧的で、苛立ちを含んでいる。
怜とマーラは同時に視線を向ける。
細い路地の先。
若い女性が、二人の男に囲まれていた。
逃げ道はない。
周囲に人影もない。
典型的な状況だった。
怜の表情が引き締まる。
一歩踏み出そうとした、その瞬間――
マーラが先に動いた。
自然な足取りで路地へ入り、まるで散歩の途中のような軽い調子で声をかける。
「おやおや。昼間からずいぶん忙しそうだね」
男たちが振り向く。
苛立った顔。
そして、見慣れない女の姿に一瞬だけ戸惑う。
「……なんだ、お前」
低い声だった。
マーラはにこりと笑う。
だが。
その目には、まったく温度がなかった。
「いやなに。ちょっと目についただけさ」
ゆっくりと一歩、近づく。
距離が縮まる。
逃げ場がなくなる。
男たちはまだ気づいていない。
自分たちが、
どれほど危険な存在に声をかけてしまったのか。
マーラは軽く首を傾けた。
そして、穏やかな声で言った。
「どこにでも下衆はいるもんだね」




