第59話 歓迎の食卓、歓迎だよ?
刺身を前にして固まっているマーラを見て、怜はわざとらしく首をかしげた。
「どうしたんですか?」
平然とした声だった。
マーラは皿と怜の顔を見比べ、小さく息をつく。
「いや、ちょっと覚悟がいるだけだよ」
正直な感想だった。
その様子を見て、母が穏やかな手つきで新しい椀を差し出す。
湯気が立ち上り、味噌の香りがふわりと広がった。
マーラはそれを受け取り、興味深そうに中を覗き込む。
「この茶色い汁は何?」
率直な問いだった。
怜はすぐに答える。
「お味噌汁です。大豆や穀物を発酵させて作る調味料を使っていて、栄養もあります」
そう説明してから、にこりと微笑む。
「大丈夫。美味しいですから」
以前、自分が言われた言葉を、そっくりそのまま返してやった。
マーラの眉がわずかに動く。
怜は内心で深呼吸する。
(まだだ。まだ笑うな)
やがてマーラは箸を手に取り、まずは白いごはんを少しだけ口へ運んだ。
ゆっくり咀嚼し、しばらく考えるような表情を浮かべてから、小さくうなずく。
「……あまり味がしない」
率直な感想だった。
兄が思わず吹き出しそうになり、妹が肩を震わせている。
次に焼き魚をつまみ、小さく身をほぐして口へ運ぶと、今度は素直に表情が緩んだ。
「これはいいね。香ばしくて分かりやすい味だ」
続いて煮物にも挑戦する。
野菜と出汁のやさしい味が口の中に広がり、少し驚いたように目を丸くした。
「へえ、こういう味もあるんだ。これは嫌いじゃない」
家族の表情が少し緩む。
そして――
ついに、その時が来た。
皿の上で静かに光る刺身を、マーラはじっと見つめる。
ほんの一瞬だけ迷ったあと、覚悟を決めたように箸を動かし、一切れを持ち上げてから静かに息を整え、そのまま口へ運んだ。
噛む。
その瞬間、顔が――すごいことになった。
目が見開かれ、眉が寄る。
家族全員が息を止める。
やがて、マーラはゆっくりと飲み込み、小さく瞬きをしてから不思議そうに首をかしげた。
「……おいしい」
その一言だった。
怜の心の中で、何かが崩れ落ちる。
(くっ……)
(失敗した)
内心で、静かに舌打ちした。
食事が一段落した頃、怜は姿勢を正し、少し遠慮がちな声で家族へ向き直った。
「……あの。マーラには向こうの世界で本当にお世話になりましたし、命も何度も助けてもらいました。だから――しばらくの間、家に泊めてあげてほしいんです」
静かなお願いだった。
家族は互いに顔を見合わせたあと、父が小さくうなずき、母も自然に続いた。
「構わない」
「もちろんよ。遠慮しないで」
兄と妹も迷いなくうなずく。
だが、マーラは少し困ったように笑って手を振った。
「いやいや、それはさすがに悪いよ。お世話になるなら、ちゃんと何かしないと落ち着かない」
真面目な口調だった。
家族が少し驚いた表情を見せる。
マーラは肩をすくめながら続ける。
「仕事ならできることはあると思うんだ。魔物退治みたいなことでもね」
その言葉に、父の表情がわずかに変わる。
現実との違いをどう説明するか考えている顔だった。
「……この国では、妖退治は一般に出回っている仕事ではない」
静かな説明だった。
マーラが目を丸くする。
「え、そうなの?
てっきり普通にある仕事だと思ってた」
本気で驚いている様子だった。
父は少し考え、やがて口を開いた。
「一つ提案がある。もしよければ、我々の仕事を手伝ってもらい、その報酬として生活費を支払うという形にしてはどうだろう」
理にかなった案だった。
マーラはしばらく考えたあと、ふっと笑った。
「それならいいね。納得できる。よろしく頼む」
短い返答だったが、そこには責任を引き受ける意思があった。
翌朝。
食卓には、整った朝食が並んでいた。
白いごはんに味噌汁、焼き魚。
そして、小皿に盛られた赤い梅干しと、糸を引く白い納豆。
マーラはそれらを見つめ、少し身構える。
「……昨日より手強そうだね」
慎重な声だった。
怜は、にっこりと微笑む。
「日本の伝統的な朝ごはんです」
穏やかな声だった。
マーラは観念したようにうなずき、まずは梅干しを一口かじる。
次の瞬間。
体がぴたりと止まった。
顔が完全に崩れた。
「っ――!」
声にならない悲鳴。
続いて納豆にも挑戦する。
マーラはしばらく納豆を見つめていた。
糸を引く白い豆。
独特の香り。
嫌な予感しかしない。
「……これ、本当に食べ物なんだよね?」
半ば確認するように言う。
怜は、にっこりと微笑んだ。
「日本の伝統食品です。体にもいいですよ」
穏やかな声だった。
信用していいのか分からない笑顔でもあった。
マーラは小さく息を吐き、覚悟を決める。
「まあ……ここまで来たら、やるしかないか」
箸で納豆を少しだけ持ち上げる。
糸が、するすると伸びる。
「うわ、すごいな……」
思わず顔をしかめながら、それを口へ運ぶ。
噛む。
次の瞬間。
動きが止まった。
目が見開かれ、眉が跳ね上がる。
体が、ぴたりと固まる。
数秒。
そして――
「っ……!」
声にならない声が漏れた。
顔が一気にゆがむ。
口を押さえ、思わず前かがみになる。
「ちょ、ちょっと待って……!」
必死に飲み込もうとするが、においが鼻へ抜ける。
粘りが口の中に残る。
完全にパニックだった。
「これは……!」
言葉が続かない。
水をつかみ、慌てて口に流し込む。
ようやく飲み下した瞬間、大きく息を吐いた。
「……すごい食べ物だね、これ」
心からの感想だった。
兄と妹が、ついに堪えきれず吹き出す。
母は口元を押さえて笑いをこらえ、父は静かに目を細めていた。
マーラはしばらく無言で呼吸を整え、やがて怜の方をじっと見る。
「……これ、みんな普通に食べてるの?」
真顔だった。
怜は、静かにうなずく。
その瞬間。
マーラは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「日本、なかなか手強いな……」
怜は静かに湯呑みを持ち上げ、表情を崩さないまま心の中でそっと呟く。
(――勝った)




