第58話 境界の敵、食卓の客
居間の空気は、先ほどまでとはまったく違っていた。
誰もが真剣な表情で、怜の言葉を待っている。
父が静かにうなずいた。
「……ヴェイルについて、詳しく聞かせてくれ」
その一言を合図に、怜は背筋を伸ばし、ゆっくりと口を開いた。
家族の視線が集中する。
「次元の歪みから出現する存在です。突然現れて、人や土地を襲い、周囲の空間そのものを変質させていきます」
そこまでは、妖の説明としても理解できる。
だが、ここからが違った。
「ただし……単なる魔物ではありません」
静かに言い切る。
「本質は――境界を侵食する存在です」
その言葉に、父の目がわずかに細くなる。
理解が追いつき始めていた。
怜は続ける。
「敵は少なくとも三つの段階――種類が確認されています」
指を一本、立てる。
「第一種。残滓」
家族の表情が引き締まる。
「最も多い個体です。獣のような姿で群れを作り、理性はありません。主に下水路や廃墟など、人の気配が薄い場所に現れます」
一拍。
「いわば、雑兵です」
次に、二本目の指を立てる。
「第二種。歪体」
少しだけ声の調子が変わる。
「個体ごとの差が大きく、特殊な能力を持つものが確認されています。知能もあり、状況判断をします」
父が小さくうなずく。
「……つまり、指揮官クラスか」
「はい。現場では、ボス級の扱いになります」
そして。
三本目の指が立つ。
「第三種。執行者」
怜の声が、わずかに低くなる。
「人型です」
その一言で、場の空気が変わった。
「武器を使い、戦術を理解し、言語を持っています。単独でも非常に危険で、複数の個体が連携する例も確認されています」
沈黙が落ちる。
怜は静かに言い切った。
「――敵幹部です」
しばらく誰も口を開かなかった。
その沈黙の中で、父が低く尋ねる。
「……お前が転移した日、何があった」
核心だった。
怜は小さくうなずく。
「四体のヴェイルと遭遇しました」
家族の表情が一斉に強張る。
「当時の私はまだ未熟で、まともに戦える状態ではありませんでした。それでも――」
一瞬だけ、視線が遠くなる。
「風神を使いました」
あの瞬間を思い出す。
命を賭けた一太刀。
「どうにか退けることはできましたが、その衝撃で境界が裂けてしまい……結果として、私は向こうの世界へ転移しました」
静かな説明だった。
だが、その裏にある危険は明白だった。
怜は続ける。
「そして重要なことが、もう一つあります」
全員の視線が集まる。
「同じ存在が――向こうの世界でも侵攻しています」
父の眉がわずかに動く。
「しかも、人型の個体が多数確認されています」
重い事実だった。
「さらに、彼らは眷属を増やす能力を持っています。倒しても終わりではなく、時間をかけて勢力を拡大していきます」
空気が張り詰める。
怜は最後に、はっきりと告げた。
「目的は明確です」
一拍。
「土地の奪還」
その言葉は、まるで宣戦布告のように響いた。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
神妙な面持ちで、全員が考え込んでいる。
やがて父がゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
短い言葉だった。
だが、その中には決意が含まれていた。
「この情報は、理事会で共有する」
家業としての責任。
個人の問題ではない。
社会の問題になりつつある。
父は静かにうなずいた。
それからしばらくして、母が空気を変えるように手を叩いた。
「さて。難しい話はここまでにしましょう」
場の緊張が、少しだけ緩む。
「今日は大事なお客様がいるんですもの」
視線が自然とマーラへ向かう。
「歓迎も兼ねて、食事にしましょう」
その一言で、場の空気が一気に日常へ戻っていった。
食卓には、色とりどりの料理が並んでいた。
湯気の立つ煮物。
香ばしい焼き魚。
そして。
中央に置かれた大皿。
艶やかに光る赤身。
透き通るような白身。
橙色の貝。
新鮮な海鮮が、美しく盛り付けられている。
刺身だった。
マーラが、その皿をじっと見つめている。
表情が、完全に固まっていた。
「……これ」
恐る恐る口を開く。
「魚を――生で食べるの?」
その問いは、純粋な驚きだった。
文化の違い。
価値観の違い。
怜はその表情を見た瞬間――
ぴしり、と何かが頭の中で弾けた。
電流が走る。
思い出したのだ。
あの世界で。
自分が初めて見せられた料理。
妙に香辛料の強い料理。
得体の知れない発酵食品。
そして。
満面の笑みで言われた言葉。
「大丈夫。美味しいから」
――仕返しのチャンスが巡ってきた。
怜の口元が、わずかに持ち上がった。




