第5話 任務前日
冬の王都は、音が少ない。
雪がすべてを吸い込み、人の気配さえ遠ざける。
それでも兵舎の朝は騒がしい。
木の廊下を踏み鳴らす足音。
怒鳴り声。
金属がぶつかる乾いた音。
そして。
「起きろ」
低い声だった。
返事はない。
毛布の山が、かすかに動いただけだ。
「起きろ」
もう一度。
それでも動かない。
管理人はため息をつき、
無造作に毛布をつかんだ。
そして。
引き剥がした。
「寒い」
くぐもった声が出た。
床に転がった少女――怜は、
半分閉じた目で天井を見上げた。
まだ夢の中にいるような顔だった。
「寒いのは当然だ」
管理人は言う。
「冬だ」
怜はしばらく黙っていたが、
やがて小さく言った。
「布団は文明」
管理人は腕を組む。
「ここは軍だ」
一拍。
「文明はない」
――食堂
朝食は質素だった。
固いパン。
薄いスープ。
塩気の強い干し肉。
湯気は出ているが、
温かさは長く続かない。
怜はパンを持ったまま、
じっと見つめていた。
「どうした」
隣に座った兵士が聞く。
怜は真顔で答えた。
「武器がない」
一瞬。
周囲が静まり返った。
そして。
数人が吹き出した。
「それはパンだ」
「鈍器」
「食え」
怜は渋々かじった。
歯ごたえが固い。
「……硬い」
兵士が肩をすくめる。
「敵も硬い」
「嫌な例え」
笑いが広がる。
兵舎の空気が、少しだけ柔らぐ。
そのときだった。
食堂の扉が開いた。
音が止む。
入ってきたのは、
軍服姿の女性だった。
背筋が伸び、
無駄な動きが一切ない。
ブリギット。
彼女は室内を一瞥し、
静かに言った。
「本日、訓練内容を変更する」
ざわめきが起きる。
「模擬戦を実施する」
空気が変わった。
――訓練場
雪は止んでいた。
だが空気は冷たい。
踏み固められた土の上に、
白い霜が薄く張りついている。
兵士たちが円を描くように並ぶ。
中央には、
何もない空間。
その外側。
やや離れた位置に、
一人の女が立っていた。
長い外套。
武装は簡素。
姿勢は崩れているが、
隙はない。
傭兵。
マーラだった。
彼女は腕を組み、
欠伸をかみ殺していた。
次の任務の契約確認――
ヴェイル案件のために。
退屈な時間。
のはずだった。
「対戦者を指名する」
ブリギットが言う。
視線が一斉に動く。
「高円怜」
名前が呼ばれた。
怜は少し遅れて顔を上げた。
「はい」
「前へ」
彼女は歩き出す。
足取りは軽い。
緊張は見えない。
ブリギットは続ける。
「相手は――」
一人の兵士が前に出た。
体格の良い男。
腕も太い。
経験もある。
訓練兵の中では
上位の実力者だった。
マーラはその様子を見ながら、
ぼんやりと考える。
(普通の組み合わせだ)
新人の実力確認。
それ以上でも以下でもない。
「開始」
短い号令。
男が動いた。
踏み込み。
拳。
速い。
迷いがない。
だが。
当たらない。
怜が半歩ずれた。
ただそれだけ。
拳は空を切った。
男の眉が動く。
二撃目。
蹴り。
低く。
鋭く。
怜が腕で受ける。
音が鳴る。
乾いた衝撃。
だが。
彼女の体は揺れない。
(軽い)
マーラは思った。
(力じゃない)
男は続けて攻撃する。
三連撃。
拳。
肘。
膝。
どれも正確。
どれも当たらない。
怜は最小限しか動かない。
半歩。
半歩。
わずかな体の傾き。
無駄がない。
そして。
男の腕を取った。
軽く。
本当に軽く。
次の瞬間。
男の体が宙を舞った。
地面に落ちる。
鈍い音。
霜が砕けた。
静寂。
誰も声を出さない。
マーラは腕を組んだまま、
目だけを細めていた。
(……なるほど)
立ち上がった男は、
息を整えながら言った。
「参った」
怜は頭を下げた。
「ありがとうございました」
その動作は、
妙に礼儀正しかった。
ざわめきが広がる。
兵士の一人が聞く。
「どこで覚えた」
怜は少し考えた。
言葉を選ぶように。
そして言った。
「家業です」
沈黙。
「何の」
怜は一瞬だけ迷った。
それから。
言い換えた。
「日ノ本で」
一拍。
「魔物退治をしていました」
空気が変わった。
兵士が聞く。
「魔物?」
ブリギットが答える。
「この世界でいう魔物とは」
彼女の声は静かだった。
「魔力を得た怨念」
「あるいは未練を残した魂」
「もしくは動物が変質した存在」
兵士たちが頷く。
理解している。
日常の脅威。
ブリギットは続ける。
「いずれも」
「この世界の内部で発生する」
そこで。
誰かが言った。
「じゃあ――」
少し間。
「ヴェイルは?」
空気がわずかに重くなる。
ブリギットは答えた。
「別だ」
短く。
「異なる世界から来る存在」
それ以上は語らない。
まだ早い。
沈黙が落ちる。
そして。
ブリギットは紙を取り出した。
「任務を発令する」
全員が姿勢を正す。
怜も。
「旧市街にて」
一拍。
「ヴェイルの発生を確認」
視線が集まる。
「討伐部隊を編成する」
紙を下ろす。
「高円怜」
彼女を見た。
「同行を命じる」
静かな決定だった。
外では、遠くで鐘が鳴っていた。
夜警の合図だった。
こうして。
彼女は初めて。
正式な任務に出ることになった。
初めて。
自分の役割が与えられた。




