第56話 帰還後の現実
車が走り出すと同時に、マーラは窓の外へ顔を向け、まるで子どものように目を輝かせて周囲を見回し始めた。
「へえ……すごいね」
感心したような声だった。
道路を滑るように進む車の流れ。
信号機の規則的な点灯。
整然と並ぶ建物。
どれも見慣れた光景のはずなのに、隣で新鮮そうに観察している人物がいるだけで、妙に違って見える。
やがてマーラは、ふと思い出したように尋ねた。
「これらは全部、石油を使って動いてるの?」
「え、あ……はい。基本的にはそうです」
怜が答えると、マーラは感心したように小さくうなずく。
「贅沢だねえ」
その一言には、皮肉ではなく純粋な驚きが含まれていた。
「一度火を起こすだけで、こんな重たい鉄の塊が何時間も動き続けるなんて、あたしの世界じゃ王族か軍くらいしか使えない代物だよ。それを街中の誰もが当たり前みたいに使ってるんだから、文明ってやつは本当に面白い」
窓の外を眺めながら、しみじみと言う。
その言葉を聞きながら、怜は少しだけ申し訳ない気持ちになっていた。
自分の都合で、マーラをこの世界に連れてきてしまった。
まだ帰れる保証もない。
それでも彼女は文句ひとつ言わず、この状況を楽しんでいる。
前方の運転席から、母が穏やかな声で言った。
「とりあえず家に向かいましょう。詳しい話は、落ち着いてから聞かせてちょうだい」
落ち着いた判断だった。
怜は小さくうなずく。
「……はい」
やがて車は見慣れた住宅街へと入り、ゆっくりと自宅の前で停止した。
懐かしい門。
見慣れた庭。
何度も出入りした玄関。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「着いたわよ」
母の言葉に、怜は静かにドアを開けた。
その瞬間、玄関の扉が内側から勢いよく開いた。
「怜!」
声と同時に、家族が姿を現した。
父。
そして、他の家族たち。
全員の表情が、安堵と驚きと信じられないという感情で入り混じっている。
怜はその場に立ったまま、深く頭を下げた。
「……ただいま」
その一言で、空気が少しだけ緩む。
家族が次々に近寄り、肩に触れ、顔を覗き込み、まるで本当に本人かどうかを確かめるように見つめてくる。
「どこにいたんだ」
「怪我はないの?」
「ちゃんと食べてたの?」
「どうやって帰ってきたの?」
質問が一斉に飛び交う。
怜は苦笑しながら、一つ一つ答えていった。
異世界へ飛ばされたこと。
ヴェイルという存在。
王都での暮らし。
戦いの日々。
そして、そこで出会った人々。
最初は半信半疑だった家族の表情も、話が進むにつれて次第に真剣なものへと変わっていく。
そして当然のように、視線は一人の人物へ向かった。
マーラである。
腕を組み、少し離れた位置で静かに様子を見ていた彼女は、注目を集めても動じることなく、むしろ観察する側の目つきで家族を見ていた。
「その人が……?」
誰かが小さく呟く。
怜はうなずいた。
「はい。私の師匠です」
その言葉に、家族の視線がさらに集中する。
好奇心。
警戒。
そして、感謝。
さまざまな感情が混ざった目だった。
父が一歩前に出た。
だが、すぐに周囲を見回し、小さく息を吐く。
玄関先。
外からも見える位置。
ここで続ける話ではないと判断したのだ。
「……中に入ろう」
低く、落ち着いた声だった。
家族は無言でうなずき、全員が家の中へと移動する。
玄関の扉が閉まる。
外界から切り離された空間。
そこでようやく、父は本題に入った。
居間に全員が座ると、父は腕を組み、静かに口を開いた。
「……実はな」
低く、重い声音だった。
場の空気が自然と引き締まる。
「最近、この国でも妙な事件が増えている」
怜の背筋が、わずかに伸びる。
父は続けた。
「説明のつかない事故。突然の失踪。原因不明の破壊。警察も表向きは別の理由を発表しているが、現場に残された痕跡は――」
一拍。
はっきりと言った。
「妖だ」
その言葉を聞いた瞬間、怜の胸に確信が生まれる。
(……ヴェイル)
父はさらに続けた。
「ただし、これまでとは様子が違う」
視線が鋭くなる。
「普通の妖ではない。明らかに力が強い個体が増えている」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「退魔師や祓い屋が複数で対処しても、押し切られる例が出始めている。しかも、知性があるような動きをする個体も確認されている」
その説明は、ただの異変ではないことを示していた。
質が変わっている。
段階が上がっている。
怜は無意識に拳を握る。
想像していた通りだった。
向こうの世界で見てきたものが、こちらにも現れ始めている。
だが。
「とはいえ、向こうの世界ほど頻繁でも大規模でもない」
父は冷静に続ける。
「今はまだ、前兆の段階だ」
その言葉が、逆に不気味だった。
嵐は、まだ来ていない。
だが、確実に近づいている。
その沈黙の中で、父の視線がゆっくりとマーラへ向けられた。
試すような、しかし礼を失しない目だった。
「あなたが、怜を鍛えたそうだが」
静かな問い。
「それは事実なのか」
場の空気が、わずかに張り詰める。
家族全員の視線が集まる。
マーラは一瞬だけ怜を見て、そして肩をすくめた。
「まあね」
軽い口調だった。
だが、その目は真剣だった。
「ちゃんと鍛えたよ。死なない程度には」
冗談のようでいて、冗談ではない言葉。
そして、少しだけ口元を上げる。
「今の怜は強い」
はっきりと言い切った。
迷いのない評価だった。
一拍置いて、さらりと付け加える。
「――私ほどじゃないけどね」
その言葉に、室内の空気がほんの少しだけ緩んだ。




