第55話 灼熱、そして再会
「……怜」
背後から、やけに深刻な声で呼びかけられた。
ただならぬ響きに、怜は思わず振り返る。
そこに立っていたマーラの表情は、これまで見たことがないほど険しく、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「どうしたんですか?」
尋ねた瞬間。
マーラは真顔のまま、低くつぶやいた。
「あっつい。しぬ」
あまりにも率直な言葉だった。
怜は一瞬きょとんとしたあと、ようやく状況を理解する。
改めてマーラの姿を見た。
ミリタリー調のロングコートにパンツスタイル。
トップスは比較的薄手で、日本でも通用しそうな洗練されたデザインであり、街中を歩いていれば「おしゃれな外国人」として違和感なく溶け込める装いではある。
だが。
問題は、季節だった。
秋。
暦の上では確かに秋である。
しかし、日本の秋は、もはや秋ではない。
じりじりと照りつける太陽。
湿気を含んだ重たい空気。
アスファルトから立ち上る熱気。
灼熱の日本において、その格好は致命的だった。
「……王都って、夏でも二十度くらいでしたよね」
怜が確認するように言うと、マーラは無言でうなずいた。
そして次の瞬間、迷いなくコートのボタンを外し、ばさりと脱ぎ去る。
途端に、ずしりと鈍い音がした。
怜は思わず目を見開く。
「……重っ」
思わず声が漏れる。
マーラは肩を回しながら、平然と答えた。
「そりゃそうでしょ。いろいろ仕込んでるから」
その言葉の通り、コートの内側には無数のポケットが縫い付けられており、そこには大小さまざまなナイフが収められていた。短剣、投擲用の細身の刃、折りたたみ式のものまで、用途ごとに整然と配置されている。
まるで移動式の武器庫だった。
怜は改めて、その重量を実感する。
これを平然と着て歩いていたのか。
しかも暑さの中で。
「……よく今まで平気でしたね」
半ば呆れた声で言うと、マーラは肩をすくめる。
「平気じゃないから脱いだんだってば」
そう言いながら、片手でぱたぱたと顔をあおぐ。
さすがの彼女も、暑さには勝てないらしい。
車が停止し、運転席のドアが開いた。
そこから降りてきた人物を見た瞬間、胸の奥に込み上げてくるものがあった。
「……お母さん」
小さく呼ぶ。
母は一瞬だけ立ち止まり、怜の姿をまじまじと見つめた。
その目が大きく見開かれる。
次の瞬間。
「怜……!」
声が震える。
駆け寄ってくる足取りは、普段の落ち着いた様子とはまるで違っていた。
距離が一気に縮まり、二人は向かい合う。
ほんの一瞬、言葉が出ない。
だが次の瞬間、母は怜の肩に手を置き、まるで確かめるように力を込めた。
「本当に……怜なのね」
「うん」
それだけで、十分だった。
母の目に涙が浮かぶ。
怜の胸も、じんと熱くなる。
感動の再会。
本来なら、しばらくそのまま抱き合っていたかもしれない。
だが。
怜はふと、背後の存在を思い出した。
「あ、あの……お母さん」
少し気まずそうに言う。
「一人じゃないんだ」
母は涙をぬぐいながら、首をかしげる。
「え?」
怜はゆっくりと身体を横へずらした。
その背後に立っていた人物が、自然と視界に入る。
腕を組み、周囲を観察していたマーラが、母と目が合った瞬間、軽く手を上げた。
「どうも」
落ち着いた挨拶だった。
母の動きが、ぴたりと止まる。
目が大きく見開かれる。
完全に想定外だった。
一人で帰ってくると思い込んでいた娘の背後に、見知らぬ外国人女性が立っているのだから無理もない。
数秒の沈黙。
だが母はすぐに気持ちを切り替え、深く息を吸い、姿勢を正した。
そして。
流暢な英語で口を開いた。
「Hello. I'm Rei's mother. Thank you for taking care of my daughter.」
その発音は自然で、迷いがない。
怜は少しだけ驚き、そしてすぐに納得する。
自分も含め、この家では英語は特別なものではなかった。
実家は代々続く陰陽師の家系であり、祖母はイギリスから嫁いできたエクソシストだったのだから、幼い頃から異国の言葉や文化に触れて育ったのはごく当たり前のことだった。
その挨拶を聞いたマーラの目が、わずかに細くなる。
興味深そうな表情だった。
そして同じく流暢な英語で、落ち着いて応じる。
「Nice to meet you.」
一拍。
軽く口元を上げる。
そして。
はっきりと名乗った。
「I'm her master.」
怜の――師匠です。
その一言が、静かに落ちる。
母の動きが、完全に止まった。
まるで時間が止まったかのように。




