第53話 帰還、そして現実
「……マーラさん?」
怜は目の前の光景を、すぐには理解できなかった。
見慣れた街並み。
見慣れた空気。
そして、その中に当たり前のように立っている見慣れた人物。
だが、それがどれほど異常なことかを、頭が追いつくより先に身体が理解していた。
「なんで……ここに……?」
言葉が途切れ途切れになる。
マーラはそんな怜の狼狽など気にも留めず、腕を組んだまま周囲を見回し、まるで初めて訪れた観光地を歩く旅行者のように、興味深そうに街の景色を眺めていた。
「へえ……建物の形がずいぶん違うね。石も木も使ってないのに、ちゃんと立ってる。面白いなあ」
軽い口調だった。
いつもと同じ、あまりにもいつも通りの声音。
その様子を見ているうちに、怜の胸の奥に広がっていた混乱が、少しずつ別の感情に置き換わっていく。
戸惑い。
そして――安心。
ひとりではない。
この世界に帰ってきたのに、なぜか孤独ではない。
その事実が、じんわりと胸に染みていく。
「……マーラさん」
怜はようやく声を整え、改めて問いかけた。
「もし、帰れなかったら……どうするつもりだったんですか」
それは責める言葉ではなく、純粋な疑問だった。
自分ですら不安だったのに、彼女は迷いなく飛び込んできたのだ。
マーラは一瞬だけ考えるように視線を上げ、そして肩をすくめる。
「ん? そりゃ――」
あっけらかんとした声。
「なんとかなるでしょ」
あまりにも軽い答えだった。
だが、その軽さの奥にある覚悟を、怜はもう知っている。
だからこそ、思わず小さく息を吐き、苦笑が漏れた。
「……本当に、マーラさんらしいです」
その瞬間、はっと何かを思い出す。
胸がどくんと大きく跳ねる。
「――あっ」
急に現実が押し寄せてきた。
怜は慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で連絡先を開く。
そこに並ぶ名前の中から、何度も見慣れた一つを選び、通話ボタンを押した。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
そのわずかな時間が、永遠のように長く感じられる。
そして――
『……もしもし?』
聞き慣れた声だった。
怜の喉が詰まる。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に込み上げてきた。
「……お母さん」
声が震える。
『……れ、怜?』
電話の向こう側で、息を呑む気配がはっきりと伝わってきた。
『怜なの? 本当に? どこにいたの? 今どこ? 警察にも――』
声が一気に乱れ、取り乱していくのがわかる。
怜は目を閉じ、深く息を吸い込み、そしてできるだけ落ち着いた声で言った。
「うん。私だよ」
一言。
それだけで、胸の奥がほどけていく。
「……無事に帰ってきた」
短い言葉だったが、その中にすべてを込めた。
電話の向こう側で、しばらく言葉が途切れる。
やがて、小さく息を吸う音が聞こえた。
そして――
『……よかった……』
震える声だった。
泣いているのが、わかった。
怜の目の奥もじんわりと熱くなるが、なんとかこらえながら周囲を見回す。
「今、少し外にいるの。すぐ帰るから」
それだけ伝え、何度か短く言葉を交わしたあと、通話を終えた。
スマートフォンを下ろした瞬間、身体から力が抜ける。
本当に帰ってきた。
ようやく、現実として実感が湧いてくる。
その様子を横で見ていたマーラが、興味深そうにスマートフォンを覗き込んだ。
「さっきの、小さな道具で会話してたの?」
「はい。電話っていう機能で、離れた場所にいる人と話せるんです」
怜が答えると、マーラは目を丸くし、素直に感心したようにうなずいた。
「へえ……便利だねえ。魔力も使ってないのに、こんなことができるんだ」
そして改めて周囲を見回し、ふと尋ねる。
「ここが、あんたの住んでた街?」
その問いに、怜は一瞬言葉に詰まる。
視線を周囲へ向ける。
見慣れた景色ではあるが、どこか違和感がある。
家並みも、道路の角度も、微妙に記憶とずれている。
胸の奥に小さな不安が芽生える。
「……少し待ってください」
怜は急いでスマートフォンを操作し、地図アプリを開いた。
現在地を示すマークが表示される。
数秒。
位置情報が確定する。
そして――
「あ……」
小さく声が漏れた。
そこに表示されていたのは、自宅の位置から少し離れた地点だった。
歩けない距離ではない。
だが、決して近くもない。
怜は画面を見つめたまま、静かに事実を口にする。
「……家から、少し離れた場所みたいです」
マーラは「ふうん」と気楽にうなずく。
「じゃあ歩けばいいじゃん」
当然のような答えだった。
怜はそこで、ようやく決定的な問題に気づく。
胸の奥が冷たくなる。
ポケットを探る。
もう一度、探る。
そして――
固まった。
「……あの」
ゆっくり顔を上げる。
「どうしたの?」
マーラが首をかしげる。
怜は、できるだけ冷静に、しかしはっきりと告げた。
「――お金が、ありません」




