第52話 その向こうへ
「主よ。汝が求めていた力について、話をしよう」
静かな夜だった。
灯りを落とした部屋の中で、怜は床に座り、膝の上に置いた風神の鞘へそっと手を添えていた。意識の奥から響く声はこれまでと同じように落ち着いていたが、どこか決定的な節目を告げる響きを帯びており、怜は自然と背筋を伸ばして目を閉じる。
「……はい」
小さく答えると、風神はゆっくりと言葉を続けた。
「汝はすでに、境界を斬る段階へ至っている。これは偶然でも奇跡でもなく、技として成立した結果であり、再現可能な力となったということだ」
評価でも励ましでもなく、ただ事実を確認するような声音だった。
「では、次に必要なものは何か。それは――ないものを知覚することだ」
その言葉に、怜の呼吸がわずかに止まる。
ないもの。
存在しないはずのもの。
だが、確かにそこにあるもの。
「境界は壁ではない。見えぬだけで、常にそこに存在している。汝が行うべきは、それを斬ることではなく――見出すことだ」
言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
「境界を切り、時空を繋ぐ。我らならば、できる」
その一言には揺るぎない確信があった。
怜はゆっくりと目を開き、胸の奥に芽生えた決意を確かめるように深く息を吸い込んだ。
翌日、怜はマーラの前に立っていた。
いつもの部屋、いつもの机、いつもの距離。だが胸の中に抱えている言葉は、これまでで最も重く、これを口にした瞬間に何かが変わることをはっきりと理解していた。
「……マーラさん」
呼びかける声が、わずかに硬くなる。
マーラは椅子に腰かけたまま顔を上げ、軽い口調で応じた。
「ん? なに、改まって」
その声音はいつも通りだったが、視線だけは真剣だった。怜がただならぬ決意を抱えていることを、すでに察しているようにも見える。
怜は一度息を吸い込み、まっすぐに見据えた。
逃げない。
もう隠さない。
「風神と、対話しました」
その言葉に、マーラの眉がわずかに動く。
「……へえ」
短い反応だったが、意味は重かった。
怜は続ける。
「もし――境界が繋がったら、私はそのまま飛び込みます」
沈黙が落ちる。
空気が静かに張り詰める。
それでも怜は視線を逸らさず、次の言葉を口にした。
「私は、この世界の住人ではありません。別の世界から来た人間です」
ゆっくりと、はっきりと。
これまで黙っていたこと。
ずっと抱えていた秘密。
「そのことを……ずっと黙っていました」
深く頭を下げる。
謝罪でもあり、告白でもあり、そして別れの覚悟でもあった。
長い沈黙が続いた。
やがて椅子がきしむ音がして、マーラがゆっくりと立ち上がる。足音が近づき、すぐ目の前で止まり、怜が顔を上げると、そこには怒りも驚きも責める気配もなく、ただ静かにまっすぐこちらを見つめる目があった。
そして、ふっと小さく息を吐く。
「……そう」
短い言葉だったが、そこには理解があった。
「なら、帰りな」
軽い口調だった。
いつもの調子で、まるで当たり前のことを言うように。
「帰れるなら、帰るのが当たり前でしょ。わざわざ他人の世界に居続ける義理なんてないんだから」
その言葉は、何よりもはっきりした許しだった。
怜の胸の奥が熱くなり、言葉が出ないまま、ただ深くうなずくことしかできなかった。
夜、誰もいない広場に月明かりが降り注いでいた。
石畳の中央に怜が立ち、その少し後ろにはマーラ、ブリギット、そしてフィンタンが並んでいる。三人とも何も言わず、ただ静かに見守っていた。
余計な言葉は必要ない。
これは怜自身の挑戦であり、同時に彼女を送り出すための儀式でもあった。
怜はゆっくりと息を吸い込み、腰の風神に手を添える。
周囲の音が遠ざかり、心臓の鼓動だけがはっきりと聞こえる。意識を集中させ、精神を研ぎ澄まし、見えないはずのものへ、存在しないはずのものへと感覚を伸ばしていく。
境界。
そこにある。
確かに。
怜は静かに居合の構えを取った。
完全な静寂の中で、一瞬の集中が極限まで高まる。
そして――抜刀。
風神の刃が夜気を切り裂いた瞬間、空間が音もなくずれ、目の前に細い線のような亀裂が現れた。それは揺らぎながらゆっくりと広がり、やがて人一人が通れるほどの大きさへと開いていく。
その向こう側に、景色が見える。
見慣れた建物。
見慣れた道路。
見慣れた街灯。
怜の胸が大きく揺れた。
震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、画面に目を落とすと、表示が変わる。
アンテナが立っている。
確かに。
はっきりと。
電波が入っている。
その事実を確認した瞬間、身体はすでに動いていた。
怜は振り返り、三人の姿をしっかりと見つめる。
胸の奥から感情が溢れ出す。
「ありがとうございました!」
大きな声で、全力で感謝を叫び、そのまま迷いなく次元の切れ目へ飛び込んだ。
風を切る音とともに身体が前へ進み、その瞬間、背後で別の気配が動いたのを確かに感じる。風のような速さで誰かが追随してきた感覚があったが、それを確かめる余裕もないまま視界が開け、眩しい光とともに空気の匂いと遠くの生活音が一気に押し寄せてきた。
そこに広がっていたのは、見慣れた風景だった。
アスファルト。
電柱。
住宅街。
遠くの山並み。
胸の奥から、言葉にならない感情が込み上げてくる。
帰ってきた。
本当に。
帰ってきたのだ。
その時、背後から軽い声が聞こえた。
「いやあ、なかなか面白い移動手段だったね」
聞き慣れた声だった。
振り返る。
そこには腕を組み、周囲を興味深そうに見回している人物が立っていた。
満足げな笑み。
そして、いつもの調子。
「師匠だから、ご両親に挨拶しないとでしょ」
マーラだった。




