第51話 灰都の女神様
鋼が鳴り、空気が裂けた。
怜の身体は地面を蹴った瞬間にはすでに次の位置へ移っており、振り下ろされた爪撃を紙一重でかわすと、そのまま腰の回転を利用して風神を抜き放つ。刃は迷いなく振り抜かれ、ヴェイルの胴体を斜めに断ち切った。
重い音を立てて崩れ落ちる異形の身体を横目に、怜は呼吸を整える暇もなく次の動きを取る。
「前方、二体!」
仲間の声が飛ぶ。
怜は即座に視線を上げ、敵の位置を把握した。
視界の端に、淡く歪む空間が見える。
――境界。
そこから新たな影が滲み出ようとしていた。
「来る……!」
誰かが叫ぶ。
だが怜は動じない。
足元に力を込めて踏み込み、地面を蹴る。
身体が宙へ浮いた瞬間、境界が裂けるように開き、黒い腕が突き出された。
タイミングは、ほぼ同時。
常人なら避けきれない距離と角度。
だが。
怜の身体は空中でわずかに捻れ、肩から腰へと滑らかに回転する。まるで見えない軸に支えられているかのように姿勢を変え、突き出された腕の軌道をすり抜けるようにかわした。
軽やかな身のこなしだった。
無駄がない。
そしてどこか――
マーラを思わせる動きだった。
次の瞬間、怜はすでに反撃へ移っていた。
空中で体勢を整えたまま、腕を振り抜く。
風神の刃が閃き、境界から現れかけていたヴェイルの首を正確に断ち切る。
斬撃はそのまま境界の縁へと走り、歪んだ空間ごと切り裂いた。
裂け目が揺らぎ、音もなく閉じる。
援軍は来ない。
地面へ着地した怜は、静かに呼吸を整えた。
周囲を見渡す。
動く敵影は、もうない。
「……制圧完了」
誰かが呟いた。
緊張が、ゆっくりと解けていく。
王国軍の兵士たちが互いに顔を見合わせ、やがて安堵したように息を吐いた。
そのうちの一人が、感嘆を隠しきれない声で言う。
「いやあ……見違えましたな」
別の兵士が頷く。
「まったくだ。最初に会った頃とは別人みたいだ」
さらにもう一人が、小さく笑った。
「さすが――灰都の女神様だ」
その言葉に、周囲の兵士たちが口々に同意する。
「ほんとにな」
「守り神みたいなもんだ」
「この人がいれば安心だ」
軽口のようでありながら、どこか本気の響きがあった。
怜はその呼び名を聞いた瞬間、思わず目を見開いた。
(……女神様?)
胸の奥がひやりとする。
そんな大げさな存在ではない。
自分はただ、生き延びるために剣を振っているだけだ。
だが、周囲の兵士たちの表情は真剣だった。
信頼。
期待。
そして――依存。
それが、はっきりと見えた。
怜は小さく息を吐き、気持ちを切り替えるように腰のポーチを開いた。
依頼書を取り出し、報酬欄を確認する。
記された数字は、以前とは比べものにならないほど大きかった。
危険度が上がっている証でもあり、自分の役割が重くなっている証でもある。
(……帰ろう)
そう思い、装備を整える。
任務は終わった。
今日はもう、戦う必要はない。
夕刻。
灰都の空は赤く染まり、建物の影が長く伸びていた。
怜は自宅の扉を開け、いつものように声をかける。
「ただいま戻りました」
奥から、間を置かずに声が返ってくる。
「おかえり。で、どうだった?」
軽い口調だったが、内容は直球だった。
怜は靴を脱ぎながら答える。
「ヴェイル案件、無事制圧しました。負傷者は軽傷が数名のみで、死者は出ていません」
マーラは満足そうに小さく頷いた。
「上出来」
短い評価だった。
だが、その一言には十分な重みがある。
怜は続けて言う。
「報酬も、予定通り支払われました」
その瞬間。
マーラの眉が、ぴくりと動いた。
「……予定通り?」
声の温度が、わずかに下がる。
怜は一瞬だけ言葉に詰まった。
嫌な予感がする。
マーラはゆっくりと腕を組み、じっとこちらを見た。
「交渉は?」
静かな声だった。
逃げ場のない問い。
怜は視線を逸らした。
「……していません」
沈黙。
一拍。
そして。
「はあ……」
深いため息が落ちる。
「だから言ってるでしょ。あんたの働きなら、上積みは取れるの。提示された額をそのまま受け取るとか、商売人として一番ダメなやつ」
叱責というより、呆れに近い口調だった。
怜は小さく肩をすくめる。
「次は……気をつけます」
「次じゃない。今から覚えるの」
即答だった。
だが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。
本気で怒っているわけではない。
それが分かる。
教えを請うてから、すでに幾度もの戦闘を経験していた。
最初はぎこちなかった動きも、いまでは自然に身体へ馴染んでいる。足運び、間合い、重心移動、視線の使い方――すべてが少しずつ洗練され、以前とは比べものにならないほど無駄が減っていた。
そして何より大きかったのは。
風神との対話だった。
あの夜。
静かな意識の底で、声を聞いた。
長い沈黙を守っていた理由も、その時に知らされた。
――主の負担を増やすわけにはいかなかった。
風神はそう言った。
力を引き出せば引き出すほど、使用者の身体と精神にかかる負荷は増大する。未熟な段階でその領域へ踏み込めば、命を削ることになりかねない。
だから。
あえて。
教えなかった。
だが。
状況は変わった。
怜は、境界ごとヴェイルを斬るところまで到達した。
偶然ではなく。
再現可能な技として。
その事実を、風神は認めた。
夜。
静かな部屋の中。
鞘に収まった風神が、かすかに震える。
意識の奥に、低い声が響いた。
落ち着いた、重い声。
「主よ」
怜は目を閉じる。
耳ではなく、心で聞く。
「汝は、ここまで至った」
静かな肯定だった。
「ゆえに、提案がある」
その言葉に、胸の奥がわずかに高鳴る。
何かが始まる。
そんな予感がした。
風神は続ける。
「我が力を、さらに一段階解放する準備が整った」
一拍。
静かな間。
そして。
「次の段階へ進む覚悟はあるか」
問いは、穏やかだった。
だが。
重かった。




