第49話 扱うということ
地下牢を出たあとも、怜の耳にはあの笑い声が残っていた。
石壁に反響するような、腹の底からの大笑い。
あまりにも遠慮のない、堂々とした嘲笑だった。
――敵に教えを請うか。
その言葉とともに、記憶の中で再び声が蘇る。
バルドルは、確かに笑っていた。驚きでも怒りでもなく、心の底から可笑しいと言わんばかりに、拘束された身でありながら少しも弱さを見せない声音で。
「滑稽だな。自らの無力を認め、敵に知恵を乞うとは」
低く愉快そうな口調だったが、その裏には揺るぎない確信があった。
怜は何も言い返せなかった。図星だったからではないし、否定する言葉が見つからなかったからでもない。ただ、あまりにも真正面から言われてしまったため、反射的に言葉を返す余地がなかったのだ。
沈黙の中で、バルドルはふと表情を変え、嘲る笑みをわずかに薄めた。
「だが、その無知に免じて一つだけ教えてやろう」
恩を売るでもなく、威圧するでもない、純粋に事実を告げるような口調だった。
怜は思わず顔を上げる。
バルドルの視線が、まっすぐ向けられていた。
「己の魔道具を支配下に置けぬ者には、何も成せぬ」
それだけだった。
説明も補足もない、短い言葉だったが、その一言は深く胸の奥へ沈んでいく。
――己の魔道具。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
ヴェイルの言う魔道具とは。
この世界でそう呼ばれるもの。レガリア。
そして――風神。
これのことだろうか。
怜は無意識に、腰の鞘へ視線を落とした。
静かに収まっている刀。自分の命を救い、敵を斬り裂き、境界すら断ち切った存在でありながら、その力の正体を自分がどれほど理解しているのかと問われれば、答えはすぐに出る。
――ほとんど、何も分かっていない。
地下牢の通路を戻りながら、怜は歩調を少し緩めた。
隣を歩くフィンタンが、静かに口を開く。
「気にする必要はない。捕虜が容易に情報を渡すはずがないことは、初めから分かっていた」
穏やかな声だったが、慰めというよりは冷静な事実確認に近い口調だった。
それでも怜は小さく首を振り、足を止めて深く頭を下げる。
「それでも……時間を作っていただいたのに、何も聞き出せませんでした。申し訳ありません」
フィンタンはしばらく黙ってその姿を見つめていたが、やがて静かに言った。
「謝ることではない。君は必要な一歩を踏み出した。それだけで十分だ」
その声音には、責める響きも過度な励ましもなく、ただ客観的な評価としての重みがあった。
怜はゆっくりと顔を上げ、胸の奥にわずかな力が戻るのを感じた。
外へ出ると、空は高く澄み渡っていた。
午後の光が街を照らし、遠くの屋根が白く輝いている。怜はその場に立ち止まり、しばらく何も考えずに空を見上げた。
青い空。
ただそれだけの光景だったが、胸の中には先ほどの言葉が残り続けている。
――己の魔道具を支配下に置けぬ者には、何も成せぬ。
自分は風神を、ほとんど扱えていない。
思い返せば、いつもそうだった。咄嗟に振るい、必死にしがみつき、結果として何とか乗り越えてきただけで、それは使いこなしているとは言い難い。ただ振り回されているだけだと認めざるを得ない。
もし、もっと繊細に操作できたなら。
もし、ほかの人たちのように自在にレガリアを扱えたなら。
戦い方も、守り方も、そして帰り方さえも変わるのかもしれない。
胸の奥に、小さな願いが浮かぶ。
自分の故郷。
家。
母。
あの世界。
帰れるかもしれない。
そのためには、力が必要であり、理解が必要であり、扱う技術が必要だと、今はっきり分かる。
ほかの人のように。
うまく使える人のように。
その時、ふと朧げに一人の顔が浮かんだ。
明るい声。
軽い調子。
からかうような笑顔。
だが戦場では、誰よりも正確に動き、誰よりも迷いなく武器を扱う姿を見せる人物。
あの人なら、できる。
確実に。
そして――教えられる。
そう確信した瞬間、怜の足は自然と動いていた。
目的地は、すでに決まっている。
建物の前まで来たところで一度深く息を整え、胸の奥にある迷いを押し込めるように拳を握る。
そして、ためらうことなく扉を開いた。
「マーラさん!」
声が室内に響く。
まっすぐ前を見据えたまま、怜ははっきりと言い切った。
「お話があります!」




