第47話 帰還の条件
研究室の中には、低い機械音が満ちていた。
机の上では、怜のスマートフォンが静かに充電を続けている。
小さな稲妻の表示が点滅するたび、それが現実の出来事であることを思い出させた。
フィンタンは椅子に腰かけ、指先で机を軽く叩いている。
考えている時の癖だった。
「さて」
やがて口を開く。
「状況は整理できてきた」
落ち着いた声だった。
「君の世界と、この世界は完全に切り離されているわけではない。少なくとも、境界を介して一定の距離に存在している可能性が高い」
怜は黙ってうなずいた。
「そして、境界を操作できる存在がいる」
一拍。
「バルドルだ」
その名が出た瞬間、部屋の空気がわずかに引き締まる。
フィンタンは続けた。
「君が帰還するためには、あの存在――あるいは君自身が、境界をどう扱うかが鍵になる」
静かな断言だった。
怜は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「つまり……」
言葉を選びながら口にする。
「帰る方法は、いくつか考えられるってことですよね」
フィンタンは小さくうなずいた。
「現段階で、現実的に想定できる手段は三つある」
指を一本立てる。
「第一。捕虜となっているバルドルを説得、あるいは何らかの手段で従わせ、境界を開かせる。そしてその向こう側を通り、君の世界へ帰還する」
淡々とした説明だった。
だが、その内容は決して穏やかではない。
怜は無意識に唾を飲み込んだ。
フィンタンは二本目の指を立てる。
「第二。バルドルから、境界を通過する具体的な方法や条件を聞き出し、それを再現する」
短く続ける。
「この場合、本人を利用せずに済む可能性はあるが、必要な知識や技術が我々の理解を超えている場合、実現性は低くなる」
そして三本目。
「第三」
わずかに間を置く。
「君自身が、境界を切る力を自在に扱えるようになることだ」
その言葉は、静かだった。
しかし重い。
怜は思わず顔を上げる。
フィンタンはまっすぐ見ている。
逃げ場のない視線だった。
「境界を切断する能力が、偶発的なものではなく、再現可能な技能として確立されれば、帰還の手段として成立する」
理屈としては、最も明快だった。
だが。
最も不確かな方法でもある。
沈黙が落ちる。
やがてフィンタンが続けた。
「ただし」
その一言で、空気が引き締まる。
「第一と第二の案には、明確な問題がある」
静かな口調だった。
「敵勢力の中心に踏み込むことになる、という点だ」
怜はゆっくりとうなずいた。
頭の中に、あの存在が浮かぶ。
ヴェイル。
――バルドル。
あの圧倒的な力。
あの冷たい視線。
あの世界。
そこへ戻る。
それは。
帰還であると同時に――戦場への侵入でもある。
フィンタンは続けた。
「一方で、第三の案にも重大な不確定要素がある」
指先を軽く机に当てる。
「境界を切断したとして、その先がどの地点に繋がるのか、保証がない」
静かな説明だった。
だが。
想像は容易だった。
見知らぬ場所。
見知らぬ時間。
あるいは――
まったく別の世界。
「帰れるとは限らない」
その言葉が、静かに落ちる。
研究室の中に、機械の低い音だけが残った。
怜は、しばらく何も言えなかった。
どの方法にも。
明確な危険がある。
失敗すれば、命を落とす可能性すらある。
希望と呼ぶには、あまりにも不安定な道筋だった。
それでも。
胸の奥に、確かに灯っているものがあった。
(帰れる)
小さな火のように。
消えそうで。
それでも消えない。
帰る方法は。
存在している。
それだけで。
世界は、さっきまでとは違って見えた。
絶望ではない。
まだ遠い。
まだ危うい。
それでも。
道はある。
怜は、ゆっくりと顔を上げた。
目には、はっきりとした光が宿っている。
「フィンタン」
静かな声だった。
だが、迷いはない。
「お願いがあります」
一拍。
息を整える。
そして。
はっきりと言った。
「バルドルという人と――話をさせてください」
その言葉は。
決意として、研究室の空気に落ちた。




