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第45話 敗者の名

 石造りの地下室には、湿った冷気が満ちていた。

 分厚い扉。

 重い鎖。

 壁には魔封じの刻印が刻まれている。

 その中央。

 椅子に拘束されたまま、ヴェイルは静かに座っていた。

 両手両足には幾重にも拘束具が巻かれ、胸元には魔力を抑え込む楔が打ち込まれている。

 顔色は悪く、再生しきれなかった部分の肌はまだ不自然に歪んでいたが、その目だけは変わらず冷ややかだった。

 向かい側には、数名の尋問官。

 その中に、エドマンドの姿もある。

 沈黙が続いた後、尋問官の一人が口を開いた。

「名を告げよ」

 淡々とした声だった。

 ヴェイルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

 そして、ゆっくりと顔を上げる。

「……我が名は」

 わずかに口元が歪む。

「バルドル」

 その名が、地下室に落ちた。

 北方の古い神話に登場する、光の神の名。

 だがその響きは、神聖というよりもどこか皮肉に満ちていた。

 尋問官が静かに記録を取る。

「再生能力について尋ねる。あれほどの回復は、常時可能なのか」

 短い間。

 ヴェイルは目を閉じた。

 やがて、低く笑う。

「……不可能だ」

 はっきりと言い切った。

「二度とできぬ」

 その言葉には、偽りがなかった。

「我が力の大半を消費した。あの瞬間を凌ぐためだけに、すべてを注ぎ込んだのだ」

 声は弱い。

 だが誇りは残っている。

 そして、ゆっくりと目を開ける。

 その視線が、エドマンドへ向いた。

「感謝するがいい」

 静かに。

 しかし確かな侮蔑を込めて。

「境界を切る少女に」

 地下室の空気が凍りついた。

 ヴェイルは続ける。

「貴様らは助かった」

 口元が歪む。

「少女の生命を犠牲にしてな」

 誰かが拳を握る音がした。

 だがヴェイルは止まらない。

「人間は、実に愚かだ。魔力の扱いが下手すぎる」

 吐き捨てるように言う。

「己の命を燃料にしてようやく到達できる領域を、誇りと勘違いしている」

 沈黙。

 重い。

 だがその次の言葉は、少しだけ違った。

「……我は見誤った」

 低く呟く。

「少女の力を」

 その視線が、虚空へ向けられる。

「ただの器だと思っていた。世界の歪みに巻き込まれた、運の悪い人間に過ぎぬと」

 小さく息を吐く。

「だが違った」

 声に、わずかな確信が混じる。

「あれは本物だ」

 尋問官が口を開く。

「本物とは?」

 ヴェイルは答えない。

 代わりに、ゆっくりと笑った。

 そして、まるで講義でもするかのように語り始める。

「世界は元より、我らのものだった」

 静かな声。

 しかし揺るぎない断定。

「この大地も、空も、海も、すべて我らが統べていた」

 目が細められる。

「そこへ現れたのが、貴様ら人間だ」

 吐き捨てる。

「後から来て、土地を奪い、数を増やし、文明とやらを築いた」

 そして、はっきりと言い切る。

「蛮族め」

 地下室の空気が張り詰める。

 誰も口を挟まない。

 だが。

 尋問官の一人が、静かに言った。

「残念だが、その前提は崩れている」

 ヴェイルの眉がわずかに動く。

「何?」

 尋問官は淡々と続ける。

「境界を切る少女は生きている」

 その言葉。

 地下室の空気が、止まった。

 ほんの一瞬。

 ヴェイルの表情が固まる。

 そして。

「……何だと」

 声が、かすかに揺れた。

「生きている。現在、回復中だ」

 静かな断言。

 沈黙。

 長い。

 ヴェイルは、ゆっくりと目を閉じた。

 内心。

 思考が回る。

 あり得ない。

 あの規模の術式。

 あの密度の魔力。

 生命を代償にしなければ成立しないはずだった。

 それなのに。

 生きている。

 ――なぜだ。

 理解できない。

 だが。

 同時に。

 別の感情が芽生える。

 興味。

 純粋な。

 強者への。

「……面白い」

 小さく呟く。

 そして、ほんのわずかに口元が吊り上がった。


 一方。

 病棟の廊下には、明るい声が響いていた。

「ちょっとちょっと!

 何やってくれてんのさ、あんたは!」

 振り向く者が出るほどの声量だった。

 その中心にいたのは――マーラだった。

 腰に手を当て、ずいっと身を乗り出す。

 表情は怒っているのに、どこか芝居がかった大げさな動きだった。

 その前に立つ怜は、完全に縮こまっていた。

「命削るとかさ!

 そういうの、勝手にやるもんじゃないでしょ!」

 びしり、と指を突きつける。

「こっちはね、ほんとに肝が冷えたんだから。

 冗談抜きでさ」

 早口。

 いつもの調子。

 軽い口ぶり。

 だが。

 その目だけが、笑っていなかった。

 怜は言い返せない。

 ただ、頭を下げる。

「……ごめん」

 小さな声。

 その瞬間。

 マーラの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。

 冷静で硬い顔。

「――命はな」

 低く。

 短く。

 それは、冗談の調子ではなかった。

「道具じゃない」

 静かな言葉だった。

 怒鳴りもしない。

 責めもしない。

 ただ。

 戦場を知っている者の言葉だった。

 沈黙が落ちる。

 ほんの数秒。だが、重い。

 やがて。

 マーラは、わざとらしく大きく息を吐いた。

 肩の力を抜く。いつもの調子に戻る。

「……ま、終わったことは終わったこと!」

 ぱん、と手を叩く。

 空気を切り替えるように。

「次はさ」

 指をひらひら振る。

 口元に、いたずらっぽい笑みが戻る。

「もうちょっと上手くやりなよ?」

 軽い言い方。

 からかうような調子。

 だが。

 それは――許しだった。

 マーラが、ふと付け加えた。

 声は軽いまま。

 だが、言葉の芯は硬かった。

「……死ぬ覚悟なんてさ」

 一拍。

「最後の最後でいいんだよ」

 それ以上は言わない。

 説教もしない。

 ただ。

 戦場を何度も越えてきた者の結論だった。

 小さく頷いたその胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。


 だが。

 同時に、別のことを思い出した。


(そうだ……)

 ヴェイル。

 あの存在。

 そして――スマートフォン。

 境界が揺らいだあの瞬間、通信が成立した。壊れたのでも、偶然でもない。

 あれは、繋がったのだ。

 この世界と、自分のいた世界が、まったく別の場所として隔てられているのではなく、境界を挟んで、驚くほど近い距離に存在している可能性がある。だからこそ信号は届き、反応し、そして境界が閉じた瞬間に途絶えた。

 胸の奥が、わずかに震えた。

 それは希望であり、同時に恐れでもあった。

(報告しないと)

 フィンタンに。

 これは単なる私物の問題ではない。世界の構造に関わる話だ。

 ヴェイル。

 境界。

 そして、帰還の可能性。

 思考に集中したまま一歩踏み出した瞬間、身体がふらりと揺れた。魔力が完全に枯渇していることを、頭では分かっていても、身体がまだ追いついていない。

 結果として、次の瞬間には見事なまでに前のめりになり、そのまま床へと倒れ込んだ。

「うわっ!」

 鈍い音が廊下に響き、周囲が一瞬だけ静まり返る。

 その沈黙のあと、マーラが額に手を当て、半ば呆れ、半ば笑いをこらえるように息を吐いた。

「もー……世界の心配する前にさ、まず自分の足元どうにかしなよ。英雄さま」

 最後の一言は、完全にからかいだった。

 その声音は、いつもの軽さのままだったが、どこかほっとしたようでもあった。

 最後の一言は、完全にからかいだった。

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