表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/123

第42話 灰都炎上

 目が覚めた時、最初に感じたのは妙な静けさだった。

 見慣れない天井の木目をぼんやりと眺めながら、怜はゆっくりと息を吐く。薄く差し込む朝の光が部屋の中を柔らかく照らしており、ここがどこなのかを思い出すまでには、ほんの数秒しかかからなかった。


 ――宿。

 ――灰都イザリス。

 ――任務中。


 上体を起こすと、体はやや重いものの、昨日までのような痛みは感じなかった。呼吸も整っている。まだ戦える。それだけで十分だった。

 そして、不意に昨夜の記憶がよみがえる。

 同じ部屋。

 向かい合う二つのベッド。

 静まり返った夜。

 そして――エドマンド。

「……っ」

 思わず両手で頬を押さえた。

 別に何かがあったわけではない。会話も少なく、互いにすぐ眠ってしまった。それでも、同じ部屋で夜を過ごしたという事実が、どうにも落ち着かない気持ちを呼び起こしていた。

 安心感と気まずさ、信頼と緊張。いくつもの感情が入り混じり、胸の奥でゆっくりと渦を巻いている。

 小さく息を吐きながら視線を横へ向けた時、怜はようやく違和感に気づいた。


 もう一つのベッドが、整然としたままになっている。

 人の気配がない。

 エドマンドは、すでに部屋を出ていた。

 その瞬間、控えめなノックの音が響いた。

「起きているか」

 扉の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた男の声だった。

「うん」

 返事をすると、扉が開き、エドマンドが部屋へ入ってくる。外套を羽織り、すでに外に出ていたことが一目で分かる姿だった。

 扉が開き、エドマンドが姿を現した。

 外套を羽織り、すでに出動の準備を整えている。

「目が覚めたか」

 静かな声音だった。

 怜は頷く。

「うん。大丈夫」

 少しだけ間があった。

 エドマンドは怜の顔を見た。

 泣き腫らした目。

 だが、その奥にはしっかりとした光が戻っている。

 それを確認し、わずかに息を吐いた。

 怜は自然と問いかけていた。

「どこ行ってたの?」

 エドマンドは扉を閉めながら、短く答える。

「見回りだ」

 それ以上の説明はなかった。

 だが、怜には十分だった。


 最初から、夜は単独で動くつもりだったのだろう。自分がどんな事情を抱えていようと、何者であろうと、それを問いただすことも、報告することも、利用することもせず、ただ任務として動く。その姿勢が、言葉よりもはっきりと伝わってきた。


 怜は小さく息を吐いた。

「ありがと」

 エドマンドは答えなかった。

 だが、わずかに視線を逸らした。

 エドマンドは続けて言った。

「街の空気が変わっている」

 短いが、確信のこもった言葉だった。

 怜も同じことを感じていた。

 昼過ぎの灰都イザリスは、一見するといつも通りの賑わいを見せていた。

 通りには商人が並び、荷車が往来し、煙突からは灰色の煙が立ち上っている。人々の声も絶えず聞こえてくる。だが、その活気の裏に、説明し難い緊張が潜んでいるのが分かった。

 どこか落ち着かない。

 何かが起きる前の静けさ。

 その予感は、次の瞬間に現実となった。


 遠くで爆音が響いた。

 地面が鈍く震え、通りの人々が一斉に振り向く。ほんの一瞬の静寂の後、誰かの悲鳴が空気を切り裂いた。

「魔物だ!」

 その声と同時に、通りの奥から黒い影が押し寄せてきた。

 獣のような姿のもの、甲殻に覆われたもの、異様に長い腕を持つもの。形も大きさもばらばらだが、共通しているのは、明確な敵意を宿した動きだった。

 数が多い。

 多すぎる。

 兵士たちの怒号が飛び交う。

「民間人を下がらせろ!」

「散開して迎撃!」

 市場は瞬く間に混乱に包まれた。荷物が倒れ、果物が転がり、子どもの泣き声が響く。人々は我先にと逃げ出し、通りは完全な戦場へと姿を変えていった。

 怜とエドマンドは同時に窓へ駆け寄った。

 通りの向こうでは建物の間から黒煙が立ち上り、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っている。

「……来たか」

 エドマンドが低く言った。

 次の瞬間、轟音とともに巨大な影が建物の屋根を突き破り、瓦礫が雨のように降り注いだ。

 現れたのは異形の獣。鋭い爪と歪んだ牙、濁った眼を持つ魔物だった。

 しかも一体ではない。

 別の通り、別の屋根、さらに遠く――次々と姿を現し、まるで街そのものから湧き出してくるかのようだった。

「魔物……!」

 怜が呟く。

 だが数が異常だった。

 十や二十ではきかない。視界の端から端まで、終わりが見えない。

 その時、空気がわずかに歪んだ。

 煙の向こう、屋根の上に三つの影が現れる。

 人の姿をしているが、人ではない。黒衣をまとい、整った輪郭の奥に底知れぬ存在感を宿している。

 ヴェイル。

 三体。

 そのうちの一体が、ゆっくりと腕を上げた。

 次の瞬間、魔物たちが一斉に咆哮する。

「指揮している……」

 怜の声が震えた。

 エドマンドの表情が引き締まる。

「単なる暴走ではない。軍だ」

 その言葉が現実を突きつけた。

 これは襲撃ではない。侵攻――すなわち戦争だった。

 通りの奥から、鎧の音が響いてくる。

 統制された足音と整った隊列が、人の流れを押し分けて現れた。

 武装した兵士たち。

 王都守備隊。

 その先頭に立つ青年が兜を外した。

 長身で無駄のない姿勢。

 淡く輝く金髪と、真面目さがそのまま形になったような端正な顔立ち。まだ若いが、その目には迷いがなかった。

 王都守備隊の若手下士官――小隊長エドガー。

 怜を見た瞬間、その瞳がわずかに揺れる。

「……無事か、怜」

 落ち着いた声だったが、奥にははっきりとした安堵が滲んでいた。

 怜は思わず声を上げる。

「エドガー!」

 エドガーは短く頷き、すぐに表情を引き締めて周囲へ視線を走らせた。

「状況は把握している。ヴェイルが三体、魔物を統率している」

 声は若いが、指揮は明確だった。

「市街各所で戦闘が発生している。既存部隊だけでは押し切られる」

 一拍置き、彼は静かに言い切る。

「ここで止める」

 その断言と同時に、魔物の群れが押し寄せた。

 兵士たちが迎え撃つ。

 剣が閃き、火花が散り、咆哮と悲鳴と怒号が入り混じる。

 だが、倒しても次が来る。

 いくら斬り伏せても、波のように押し寄せてくる。

 さらに、敵の中には人影が混じっていた。

 武装した人間。しかし目は濁り、動きは不自然なほど統制されている。

「……人間?」

 怜が息を呑む。

 エドマンドが低く答えた。

「眷属だ」

 その言葉が胸を冷やした。

 戦線が押し下げられていく。

 徐々に、しかし確実に包囲が狭まっていくのが分かる。

「隊形を保て!」

 エドガーの声が戦場に響いた。

「民間人の退避を優先しろ! 南通りは二列で押し返せ!」

 若いが、迷いのない指示だった。

 それでも――数が違う。

 圧倒的に。

 魔物が跳びかかる。

 怜は反射的に剣を振るった。

 激しい衝撃が腕を痺れさせる。

 続けて、別の魔物が横から突進してきた。

 避けきれない。

「くっ――」

 強烈な衝撃が体を打ち、地面に叩きつけられる。

 肺の空気が一気に抜け、呼吸ができない。

 視界が揺れる。

 起き上がろうとした瞬間、巨大な影が覆いかぶさってきた。

 牙が迫る。

 終わる。

 そう思った。

 その時だった。

 鋭い斬撃が魔物を弾き飛ばし、血飛沫が宙に散った。

 倒れた影の向こうに立っていたのは――エドガーだった。

 息を荒げている。

 普段の冷静さが、ほんの少しだけ崩れていた。

「怜!」

 強い声だった。

「無茶するな!」

 叱責の言葉。

 だがそれは、隠しきれない焦りそのものだった。

 怜は歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がる。

「……大丈夫」

 だが状況は最悪だった。

 周囲は敵だらけで退路は塞がれ、味方は明らかに疲弊している。

 そして屋根の上では、三体のヴェイルが静かにこちらを見下ろしていた。

 まるで試すような視線だった。

 その視線を受けながら、怜はふと気づく。

 魔物の動き。

 配置。

 流れ。

 それは決して無秩序ではない。

 明確な統制のもとに動いている。

 ならば――

 逆に。

 止める方法がある。

 胸の奥で、ひとつの考えがゆっくりと形になり始めていた。

 怜の目に、確かな光が宿る。

「……そうか」

 小さく呟く。

 そして、はっきりと言った。

「やれる」

 秘策が、浮かんだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ