第42話 灰都炎上
目が覚めた時、最初に感じたのは妙な静けさだった。
見慣れない天井の木目をぼんやりと眺めながら、怜はゆっくりと息を吐く。薄く差し込む朝の光が部屋の中を柔らかく照らしており、ここがどこなのかを思い出すまでには、ほんの数秒しかかからなかった。
――宿。
――灰都イザリス。
――任務中。
上体を起こすと、体はやや重いものの、昨日までのような痛みは感じなかった。呼吸も整っている。まだ戦える。それだけで十分だった。
そして、不意に昨夜の記憶がよみがえる。
同じ部屋。
向かい合う二つのベッド。
静まり返った夜。
そして――エドマンド。
「……っ」
思わず両手で頬を押さえた。
別に何かがあったわけではない。会話も少なく、互いにすぐ眠ってしまった。それでも、同じ部屋で夜を過ごしたという事実が、どうにも落ち着かない気持ちを呼び起こしていた。
安心感と気まずさ、信頼と緊張。いくつもの感情が入り混じり、胸の奥でゆっくりと渦を巻いている。
小さく息を吐きながら視線を横へ向けた時、怜はようやく違和感に気づいた。
もう一つのベッドが、整然としたままになっている。
人の気配がない。
エドマンドは、すでに部屋を出ていた。
その瞬間、控えめなノックの音が響いた。
「起きているか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた男の声だった。
「うん」
返事をすると、扉が開き、エドマンドが部屋へ入ってくる。外套を羽織り、すでに外に出ていたことが一目で分かる姿だった。
扉が開き、エドマンドが姿を現した。
外套を羽織り、すでに出動の準備を整えている。
「目が覚めたか」
静かな声音だった。
怜は頷く。
「うん。大丈夫」
少しだけ間があった。
エドマンドは怜の顔を見た。
泣き腫らした目。
だが、その奥にはしっかりとした光が戻っている。
それを確認し、わずかに息を吐いた。
怜は自然と問いかけていた。
「どこ行ってたの?」
エドマンドは扉を閉めながら、短く答える。
「見回りだ」
それ以上の説明はなかった。
だが、怜には十分だった。
最初から、夜は単独で動くつもりだったのだろう。自分がどんな事情を抱えていようと、何者であろうと、それを問いただすことも、報告することも、利用することもせず、ただ任務として動く。その姿勢が、言葉よりもはっきりと伝わってきた。
怜は小さく息を吐いた。
「ありがと」
エドマンドは答えなかった。
だが、わずかに視線を逸らした。
エドマンドは続けて言った。
「街の空気が変わっている」
短いが、確信のこもった言葉だった。
怜も同じことを感じていた。
昼過ぎの灰都イザリスは、一見するといつも通りの賑わいを見せていた。
通りには商人が並び、荷車が往来し、煙突からは灰色の煙が立ち上っている。人々の声も絶えず聞こえてくる。だが、その活気の裏に、説明し難い緊張が潜んでいるのが分かった。
どこか落ち着かない。
何かが起きる前の静けさ。
その予感は、次の瞬間に現実となった。
遠くで爆音が響いた。
地面が鈍く震え、通りの人々が一斉に振り向く。ほんの一瞬の静寂の後、誰かの悲鳴が空気を切り裂いた。
「魔物だ!」
その声と同時に、通りの奥から黒い影が押し寄せてきた。
獣のような姿のもの、甲殻に覆われたもの、異様に長い腕を持つもの。形も大きさもばらばらだが、共通しているのは、明確な敵意を宿した動きだった。
数が多い。
多すぎる。
兵士たちの怒号が飛び交う。
「民間人を下がらせろ!」
「散開して迎撃!」
市場は瞬く間に混乱に包まれた。荷物が倒れ、果物が転がり、子どもの泣き声が響く。人々は我先にと逃げ出し、通りは完全な戦場へと姿を変えていった。
怜とエドマンドは同時に窓へ駆け寄った。
通りの向こうでは建物の間から黒煙が立ち上り、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っている。
「……来たか」
エドマンドが低く言った。
次の瞬間、轟音とともに巨大な影が建物の屋根を突き破り、瓦礫が雨のように降り注いだ。
現れたのは異形の獣。鋭い爪と歪んだ牙、濁った眼を持つ魔物だった。
しかも一体ではない。
別の通り、別の屋根、さらに遠く――次々と姿を現し、まるで街そのものから湧き出してくるかのようだった。
「魔物……!」
怜が呟く。
だが数が異常だった。
十や二十ではきかない。視界の端から端まで、終わりが見えない。
その時、空気がわずかに歪んだ。
煙の向こう、屋根の上に三つの影が現れる。
人の姿をしているが、人ではない。黒衣をまとい、整った輪郭の奥に底知れぬ存在感を宿している。
ヴェイル。
三体。
そのうちの一体が、ゆっくりと腕を上げた。
次の瞬間、魔物たちが一斉に咆哮する。
「指揮している……」
怜の声が震えた。
エドマンドの表情が引き締まる。
「単なる暴走ではない。軍だ」
その言葉が現実を突きつけた。
これは襲撃ではない。侵攻――すなわち戦争だった。
通りの奥から、鎧の音が響いてくる。
統制された足音と整った隊列が、人の流れを押し分けて現れた。
武装した兵士たち。
王都守備隊。
その先頭に立つ青年が兜を外した。
長身で無駄のない姿勢。
淡く輝く金髪と、真面目さがそのまま形になったような端正な顔立ち。まだ若いが、その目には迷いがなかった。
王都守備隊の若手下士官――小隊長エドガー。
怜を見た瞬間、その瞳がわずかに揺れる。
「……無事か、怜」
落ち着いた声だったが、奥にははっきりとした安堵が滲んでいた。
怜は思わず声を上げる。
「エドガー!」
エドガーは短く頷き、すぐに表情を引き締めて周囲へ視線を走らせた。
「状況は把握している。ヴェイルが三体、魔物を統率している」
声は若いが、指揮は明確だった。
「市街各所で戦闘が発生している。既存部隊だけでは押し切られる」
一拍置き、彼は静かに言い切る。
「ここで止める」
その断言と同時に、魔物の群れが押し寄せた。
兵士たちが迎え撃つ。
剣が閃き、火花が散り、咆哮と悲鳴と怒号が入り混じる。
だが、倒しても次が来る。
いくら斬り伏せても、波のように押し寄せてくる。
さらに、敵の中には人影が混じっていた。
武装した人間。しかし目は濁り、動きは不自然なほど統制されている。
「……人間?」
怜が息を呑む。
エドマンドが低く答えた。
「眷属だ」
その言葉が胸を冷やした。
戦線が押し下げられていく。
徐々に、しかし確実に包囲が狭まっていくのが分かる。
「隊形を保て!」
エドガーの声が戦場に響いた。
「民間人の退避を優先しろ! 南通りは二列で押し返せ!」
若いが、迷いのない指示だった。
それでも――数が違う。
圧倒的に。
魔物が跳びかかる。
怜は反射的に剣を振るった。
激しい衝撃が腕を痺れさせる。
続けて、別の魔物が横から突進してきた。
避けきれない。
「くっ――」
強烈な衝撃が体を打ち、地面に叩きつけられる。
肺の空気が一気に抜け、呼吸ができない。
視界が揺れる。
起き上がろうとした瞬間、巨大な影が覆いかぶさってきた。
牙が迫る。
終わる。
そう思った。
その時だった。
鋭い斬撃が魔物を弾き飛ばし、血飛沫が宙に散った。
倒れた影の向こうに立っていたのは――エドガーだった。
息を荒げている。
普段の冷静さが、ほんの少しだけ崩れていた。
「怜!」
強い声だった。
「無茶するな!」
叱責の言葉。
だがそれは、隠しきれない焦りそのものだった。
怜は歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がる。
「……大丈夫」
だが状況は最悪だった。
周囲は敵だらけで退路は塞がれ、味方は明らかに疲弊している。
そして屋根の上では、三体のヴェイルが静かにこちらを見下ろしていた。
まるで試すような視線だった。
その視線を受けながら、怜はふと気づく。
魔物の動き。
配置。
流れ。
それは決して無秩序ではない。
明確な統制のもとに動いている。
ならば――
逆に。
止める方法がある。
胸の奥で、ひとつの考えがゆっくりと形になり始めていた。
怜の目に、確かな光が宿る。
「……そうか」
小さく呟く。
そして、はっきりと言った。
「やれる」
秘策が、浮かんだ。




